【アナザーストーリー】由芽・7日前
~由芽編6話以降のアナザーストーリーです。6話以前の内容を確かめた上でお読みください~
食べ物の力は偉大だ。
あんなに寂しかったのに、昨日はぐっすり眠ってしまった。ただ、エアコンの入りタイマーを入れ忘れて、目覚めたらとても部屋が冷え込んでいて布団から出たいという気持ちにならなかった。「行きたくないなぁ」と、昨日のふたりの尽力に、恩を仇で返すようなことを考える。
布団から出られない。
部屋の中は昨日のままで、秋穂ちゃんは「片づけ手伝うよ」と言ってくれたけれど、終電間際だったので断ってしまった。しかし、他の家事同様、何もする気にならなかった。
食べたままの鍋にはとりあえず水は張ったけど、ケーキやらビールの缶やらは買ってきてくれた袋に突っ込んで、ゴミ箱のわきに置いておくことにした。ケトルでお湯を沸かして、カップ麺を食べる。「わたしだってカップ麺くらい食べるし」と自分に変な言い訳をする。
……
ピンポーン、とドアチャイムが鳴って、秋穂ちゃんかなと思って、迎えに出る。確かめると原田くんだった。
「はい……」
「おはようには遅いけど、秋穂ちゃんから今日も来てないって聞いて」
想定外の出来事に、どうしたらいいのかわからなくなる。まず、パジャマのままは問題だ。
「えーと、着替えてないからちょっと待っててもらえる?」
「あ、ごめん! もちろん待つよ」
クローゼットに突っ込んであった服の中から適当な服を見繕う。白いセーターを見つけて、……この前、原田くんと駅ビルで偶然に会ったときに買ったシャツを見つける。じっと見ていると、やっぱりそのストライプのシャツは要に見せたら「
「お待たせして」
ドアを開けると、フェンスに寄りかかって彼は待っていた。
「昨日はたくさん食べたけど、眠れた? 胃もたれしなかった?」
「うん、逆に楽しかったからよく眠れたの。ありがとう」
彼は今日も初夏の日差しをわたしに運んできたらしい。今日のわたしには眩しすぎた。
「学校、行く?」
「あー、どうしようかな?」
原田くんは強く学校に行かなくてはいけないとは言わなかった。
「じゃあ、デートする? 僕は学校よりそっちの方がうれしいけど」
そんなことをストレートに言われたのは久しぶりだったので、照れくさくて顔は熱くなった。
「……デート?」
「うん。あ、抵抗があるなら、また文具探しでもいいよ」
「……」
「直接的に『デート』とか言うと引くよね、ごめん」
確かに「直接的」はないよなぁと思う。なぜならわたしは恋人を失ったばかりだから。でも、昨日の彼のやさしさを考えると感謝しなければいけないことがたくさんあるように思えた。
「本当にここでいいの?」
「うん」
「もっと大きなとことか、あるじゃない?」
「いいの」
この間ふたりで回った駅ビルだった。
遠くにはとても行く気にならなかったし、ここはもう勝手知ったる場所になったので気が楽だった。
とりあえず、目標の文具を見に行く。筆記用具、かわいい付箋や手触りのいい紙、画材などを一通り見る。この間と同じように、原田くんが気にならない程度に一緒に選んでくれて、もうすぐ来る年末に向けて絵手紙用のはがきを買った。
「満足した?」
「ありがとう」
その後もぶらぶらして「お腹が空いたね」とパスタのお店に入った。わたしは好きなトマトソースのパスタ、彼はカルボナーラを頼んだ。ここで要なら必ず、「また跳ねるんだから、気をつけて」と念を押すところだ。パスタを待ってミニサラダを食べてる間中、そのことを思い出していた。悲しさがわたしを曇り空のように覆っていった。
「浮かない顔だね。……ひょっとして、要と来たとこだった?」
首を横に振る。
「なんとなく、悲しくなっただけ」
口元に笑いを作る。
「由芽ちゃん」
「はい?」
「要はもう戻らないよ。僕のところにおいでよ」
頭を鈍器で殴られたのかと思った。心の何処かですでに認めていることでも、人の口から聞くのはものすごい衝撃だった。
数日前までのわたしと同じようには笑えなかった。「要のことをずっと待ってるから」と笑えないわたしが滑稽だった。
「ごめんなさい、なんて言っていいのかわからないの」
「急にこんなこと、ごめん。でも、笑っててほしいから」
その後は食事の間ずっと、どちらも何も言えず、パスタの味もわからなかった。
「あの……上がってく? お茶でも」
原田くんは予想もしていなかったことだという顔をして、一瞬、固まっていた。
「それってどういう意味かわかる?」
「お世話になっちゃったから」
彼は鍵を開けた部屋のドアを開けてわたしの手を引いて部屋に入ると、「あ」と思う暇も与えず、わたしにキスをした。知らない唇の知らない感触に戸惑う。背の高さだって、よく知った人とは違う。
「こういうことだよ。君を好きだって言ってる男を部屋に上げたらダメなんじゃない? 僕だって男だから、ふたりきりでいるときに何もしないって保証、ないよ」
「ごめんなさい……」
原田くんはわたしがその言葉を言い終わる前に、唇をまた塞いでしまった。熱くて、力強いキスに引きずられてふたりで靴を脱いで、キスを繰り返しながら部屋に入っていく。何かを言おうとしても、その言葉は彼に飲み込まれてしまって、わたしは彼の舌に丸めこまれてしまう……。掴めるところを求めて宙ぶらりんになった手を、彼の手がエスコートするようにやさしく握ってくれる。求められていた唇が、次第に求め合う唇になるのにそう時間はかからなかった。
とさっ、とベッドに背中から倒される。耳元に彼の吐息を感じてゾクッとする。髪の匂いまで、シャワーの後でもないのに嗅がれて恥ずかしくなる。
「あの、シャワー……」
原田くんは顔を上げてわたしの目をじっと見た。
「黙って。シャワーなんか終わってからでいいから」
戸惑っていても服を捲られて気がつけば戻れないところまで流されていた。原田くんは思っていたよりずっと力強くわたしを抱いた。わたしがまた声も出せずにいると、
「感じたままに聞かせてよ。すごく聞きたい。声も、言葉も」
と言われて理性のタガが外れる。どうせ違う人なら、といつもはしないのに、感じたところで吐息と一緒に声を上げる。原田くんがその度に、
「かわいいね」
と言ってキスをする。泣きたい気持ちになってくる。違う人に抱かれているのに気持ちが良くなるなんて。
「……どうしたの?怖い?」
「ううん、気持ちよくて」
「こういうの、もしかして初めて?」
「うん……」
少しだけ原田くんは考えたようだった。
「大切にしたい気持ちと、気持ちよくしてあげたい気持ちは別だと思うな」
彼がわたしの背中をなぞった。
一緒に狭い浴室でシャワーを、体を合わせるように浴びながら、もう一度絡まり合う。体を洗っているのか、汗をかいているのかわからない。わたしの知らないことを原田くんが次々に教えてくれる。髪に滴を滴らせながら、彼の望むままに抱かれる。ああ、男の人ってこういう風に女の子を抱くのか、と知る。要は決して、一定の枠から出たセックスはしなかった。
「こんなに求めて、僕が怖くなった?」
「ううん。でも……こんな風にしたいとずっと思われてたんだって思うと怖いかも」
わたしたちはくすり、と笑った。
「まだ要が好き?」
「なんか、意地悪」
「どうして? 好きな子を抱いて満足してるんだけど、そこだけが気になるから」
心の中で小さな会議が始まる。わたしは原田くんにこんな風に抱かれた後でも要を好きでいるかしら?
「……要も、大島さんとこういうこと、してるんだよね?」
「もっと激しいと思うけどね」
「今のより?」
「もっと激しい方がよかった? 欲しいまま抱いてもよかった? 由芽ちゃんにそんな、欲望をぶつけるようなこと、できないよ。壊れちゃいそうで」
「大島さんは違うの?」
「彼女? 彼女は何をしても壊れなさそう」
そんなこともういいよ、と原田くんが丁寧にキスをしてくれる。彼の腕の中は、見た目とは裏腹に意外とたくましくてわたしを冬の寒さから囲って守ってくれるような気持ちになった。つまり、居心地がよかった。要以外の人とつき合うつもりがなかったわたしが知ることのなかったことだった。
「泊まっても平気?」
「うん、平気。あ、あんまり大した朝ご飯は出せないんだけど。買い物してなくて」
原田くんの腕にぎゅっと力が入る。
「足りなかったら、由芽ちゃんを食べるからいいよ」
『明日、何か用事はあるかな?』
要からの久々のメッセージだった。スマホを手に、じっと文字列を眺める。
「どうしたの? ひょっとして、要?」
「うん……」
『特にないよ』
原田くんが帰ってしまえば、用事はないはずだ。
『じゃあ、荷物、取りに行ってもいいかな?』
『りょ』
ちょうど打ち終わったところでスマホを没収される。
「もう制限時間いっぱいだよ。過去の男とそんなに話すこともないでしょう?」
眠そうな原田くんはわたしをぐいっと引き寄せた。わたしはまだこの人をよく知ろうと思い始めたところで、それ以上でもそれ以下でもないのに。できれば彼の腕の中にずっとくるまっていたい、と思ってしまった。要との距離が、また遠くなる。
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