【原田くん編】17日後(6)

 学校に向かう途中、電車の中でスマホに着信があった。ディスプレイを見ると、秋穂ちゃんからのメッセージが入っていた。


『おはよう。昨日はどうも。お願いがあるんだけども。由芽が学校に今日も来てなくて、時間があったら返事ください』


 すぐに返信する。

 昨日はあんなに寛いでいた彼女がまた学校に行けずに悲しみに包まれているのかと思うと、いい加減、要が憎らしくなる。


『こちらこそどうも。由芽ちゃん、どうしたって?』


『それが電話にも出なくて』


『僕、行って見てこようか?まだ電車の中だし』

『いいの?』


 そういうやり取りがあって、由芽ちゃんの部屋に向かった。今日はもう学校はサボってもいいや、という気持ちになる。


 由芽ちゃんの部屋につくと彼女はすごく驚いたようで、昨日までの悲しげな顔も吹き飛んで明らかに焦っていた。

「おはようには遅いけど、秋穂ちゃんから今日も来てないって聞いて」

「えーと、着替えてないからちょっと待っててもらえる?」

「あ、ごめん! もちろん待つよ」

 彼女にそう言われると、別に女性経験がまったく無いわけではないのに急にどぎまぎして、熱くなった頬をフェンスに寄りかかって冷たい風でさます。そうしていると間もなく彼女が現れた

「お待たせして」

「昨日はたくさん食べたけど、眠れた? 胃もたれしなかった?」

「うん、逆に楽しかったからよく眠れたの。ありがとう」

 それはそうだ。あんなに食べたらそのこと以外、何も考えられなくなるだろう。それが彼女にとって少しでも安らげる時間になったなら、鍋くらいいつでもつき合うのに、と思う。

「学校、行く?」

「あー、どうしようかな?」

 その瞬間に僕は狡いことを考える。今日の彼女を独り占めする方法を。

「じゃあ、デートする? 僕は学校よりそっちの方がうれしいけど」

「……デート?」

「うん。あ、抵抗があるなら、また文具探しでもいいよ」

「……」

「直接的に『デート』とか言うと引くよね、ごめん」

 そこまでまだ心を許してはくれないんだなぁと少しだけ悲しくなる。そろそろ僕に少しは寄りかかってくれたらいいのに。そうしてくれたら、今よりもっとやさしくしてあげられるのに。


 僕たちは由芽ちゃんの好きな文具を見に行くことになった。デートではないけど、彼女の趣味につき合えることがうれしい。


『由芽ちゃんと出かけてくる。代返よろ』


 要に簡単なメッセージを送る。

 由芽ちゃんに見つからないようにさっと送ったつもりだけど、「もういいの?」と聞かれて焦る。……これを見た要がどう思うのか、もしも由芽ちゃんを惜しいと思ったら……。彼女が喜ぶならそれもいいかも、と思う僕は人が良いふりをしているのかもしれない。




「本当にここでいいの?」

「うん」

「もっと大きなとことか、あるじゃない?」

「いいの」

 ふたりで少し歩いてついたのは、先日一緒に回ったビルだった。

 文具店に行ってこの間のように店内をゆっくり見て回る。彼女は言っていた通り本当に文具が好きなようで、店内のひとつひとつの品を愛おしく見ているようだった。「これ、どうかなぁ?」と彼女は時々聞いてきて、そんな時僕はまるで彼女の彼になったように、「これはいいと思うよ」とか、「こっちよりそっちの色はどう?」なんてアドバイスした。彼女は絵手紙用のハガキを買った。

「満足した?」

「ありがとう」

 その恥ずかしそうな笑顔がかわいくて、彼女のためならなんでもしてあげたい気になる。彼女の笑顔を曇らせるものから守りたい。

 その後、ちょうどランチの始まる時間で「お腹が空いたね」と話はまとまってパスタのお店に入った。店内はそこそこ混み始めていて、通された席でとりあえず一息つく。

「何にする?」

「んー、わたしはトマトソースのパスタが好きなんだけど……」

「ん?」

 彼女は突然、浮かない顔になった。また心の中に曇り空が現れたようだった。

「浮かない顔だね。……ひょっとして、要と来たとこだった?」

「なんとなく、悲しくなっただけ」

 彼女が無理して笑っているのは見え見えだった。

「由芽ちゃん」

「はい?」

「要はもう戻らないよ。僕のところにおいでよ」

 ああ、もう引き返せないところまで来ちゃったな、と自分に言い聞かせる。でも後悔はない。あの時、言えなかった言葉を、今なら彼女に言えそうな気がした。

「ごめんなさい、なんて言っていいのかわからないの」

「急にこんなこと、ごめん。でも、笑っててほしいから」

 彼女と僕の間にはまるで数日前に戻ったかのようにぎくしゃくした空気だけが漂っていた。それ以上、何も言えなかった。




「あの……上がってく? お茶でも」

 予想外の申し出にどう返事をしたものか考える。まさか彼女に誘われることがあるなんて思ってもみなかった。少しは心の距離が縮まったんだろうか? それじゃ、今なら……。

「それって、どういう意味かわかる?」

賭けに出る。

「お世話になっちゃったから」

 言葉より先に体が動いた。

 ドアを後ろ手に閉めつつ、由芽ちゃんの手をぐっと引く。彼女の軽い体が間を置かず僕の腕の中にすとんと入って、後は衝動に身を任せるだけだった。

 僕は彼女に深くキスをした。彼女は身を引こうとしたけれど、それ以上の力でぎゅっと彼女の腰を抱き寄せた。

「こういうことだよ。君を好きだって言ってる男を部屋に上げたらダメなんじゃない? 僕だって男だから、ふたりきりでいるときに何もしないって保証、ないよ」

「ごめんなさい……」

「お茶だけいただいて、帰るよ。その間、僕に襲われないように気をつけてて」

 一線を越えてしまった……。彼女に嫌われるかもしれないと、それだけが心配だった。明らかに由芽ちゃんは困惑していて、今起こったことを頭の中で整理しているんだろうな、と思う。唇に、彼女の柔らかい感触がまだ残っている。そのやさしい温もりが僕にもっと彼女を欲しがらせる。

 要の顔が、不意に頭をよぎる。……よりによって、なんでこんなときに。彼女にあいつのことを忘れてほしいはずなのに。

「こんな話もなんだけど。要がさ、かわいい女の子を見つけたっていうんだよ。しかもって。「哲学1」、僕もあの授業取ってたんだけど、要はいつも君を見つけて、講義に出る度に探しちゃうんだって。こういうのも恋かなぁって言うから、みんなで茶化して。『もっとそばにいてほしい。そうかー、オレ、彼女のこと好きなんだ』って真顔で言ってたよ」

 由芽ちゃんは泣いていた。泣かせたくないはずが、僕の言葉で彼女を泣かせてしまった。

「『講義が終わっちゃう前に、告白してくる』って走って行ったときには笑ったけどね。……今日は意地悪なことばかり言ってごめん。でも気持ちに嘘はないよ。もしも要が戻りたいって言ったら、殴ってやる、くらいの気はある」

 すっかり冷めたお茶を飲み干して、「じゃあね」と彼女の部屋をあとにする。押し倒しちゃうんじゃなかったのかよ、と心の中の誰かが僕に囁く。そんなことができるなら、とっくに押し倒してたよ、と返事をした。



 家について一人で落ち込んでいると、要からのメッセージが届いた。


『悪いんだけど、木曜まで代返頼む』


『木曜までって長すぎるだろ? また大島玲香?』


『違う、由芽のとこにいる。木曜で17日なんだよ』


 ちょっと待て、由芽ちゃんはお前のものじゃ今はもうないだろう? 何考えてるんだよ。なんで今さらそうなるんだよ?

 直接話したいと思い、電話をかけた。


「17日とか、もう関係ないんじゃない? なんか、お前も由芽ちゃんもすり減ってくだけに見えるけど」

「……他の女と浮気しちゃったんだから、オレには由芽の隣にいる資格ない。お前が上手くやればいいじゃん。由芽だってお前なら」

 ……それが上手く行けば問題は無いんだよ。お前はお前にしかない何かを持ってるんだよ。悔しいけど、僕にはそれはないんだよ……。彼女の望む何かが。

「なんだよ、大島玲香のことは浮気だって認めたのかよ。なら話は早いだろ? ……あー、この前さ、ちょっと手を出しちゃって、ごめん。由芽ちゃんにはきっとお前が必要なんだよ」

「でもさ、浮気した彼氏ってどーよ? ……手?

 手出しって何だよ」

 出したのは手だけだよ……。心までは手が届かなかったからさ。それくらい、許せよ。

「まぁ、浮気は確かに嫌だけどな。木曜までな。できるとこまでは協力するよ。だから、泣かせるなよ」


 泣きたいのは僕の方だった。

 僕はいつも損な役回りだ。結局、由芽ちゃんのためにしか動けない。彼女が僕を拒んで要を求めるなら……彼女のために身を引くことしかできない。



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