スピンオフ/それぞれの「17日後」

【原田くん編】17日後(1)

 由芽ゆめちゃんを特別だと思ったのは、正直「哲学1」の授業の後半だった。かなめはそのときにはもう、由芽ちゃんのことでいっぱいだった。木々の緑が明るい萌黄から濃い緑に変わる頃、僕は自分の想いを確信した。




 ある日、まだ週一の講義が2、3回行われた時のことだ。

「なぁ、原田。あの子、この前からかわいいなぁって思ってるんだけどさ」

 まだ入学してから日も浅かったけど、僕と要はどこかがしっくりときた、気の置けない友だちになっていた。

「どこ? どの子だよ?」

「ほら、こっちから見ると前から2列目の左側のさ」

「うん?」

「髪が肩くらいで、白いブラウスに白っぽいパーカー羽織ってる子」

「真っ白じゃん」

「真っ白だよ。この前も白っぽい服で、目についたんだよな」

 由芽ちゃんは確かに要の言う通り「真っ白」で、肌も色白で透き通って見えた。でも、それが特別だとはその時あまり思わなかった。

「そうかな? そんなにかわいいわけじゃないんじゃないかな?」

「バカ、原田。お前はモテすぎてわかんないんだよ」

「何だよ、その言い方」

「本当のことだよ。うちの学科の女子は、とにかくお前のことしか見えてないだろ」

「……ないだろ。わかったよ、お前はあの子がかわいいと思う。それでいいじゃん。二人でかわいいと思ってたら揉め事の素だよ」

「確かにな」

 要はそう言うと、大教室の弧を描いた古びた長い机の上にべたーっと頬をつけて、それでも彼女を見ていた。そう、由芽ちゃんのために受講しているみたいになってきた。




 それからは、ヤツは授業の度に由芽ちゃんをそわそわして目で追うようになり、

「またあの子、探してんの?」

「んー。今日はブラウスじゃなくて白いTシャツに水色のカーディガンだな。見える?」

「お前じゃないからわかんないよ」

「探さないからだよ」

「まぁ、僕の好きな相手じゃないからね」

と言いながらもそんな風に要から声をかけられる度に、何となく彼女を目で探すようになって、気がつくと要が言ってくるより先に彼女を見つけるようになっていた。

「……良くないな」と思った時には物事はもう遅すぎる。彼女をもっと知りたいと思ったときにはもう、遅すぎた。

「あのさぁ、あの子からもう目が離せないんだよ。まいった。でも不思議とキャンパスの他の場所では会わないんだよな」

 ヤツは大きくため息をついた。


 僕は実は、他の講義で彼女と一緒だった。それは心理学の授業で、「錯覚」をテーマにしていた。そこで彼女は「汐見さん」だということ、どうやら文学部だということを知った。最初は「あの子じゃないかな?」という感じだったので要に言わないでいたんだけど、「そうだ」と確信した時にはもう言い出しづらくなっていた。

 心理学の講義のときの彼女は「哲学1」の講義のときとは違い、仲のよさそうな友だちが一緒で、いつもは見られない親しみのあるやわらかい笑顔を見せた。時折、かわいらしい笑い声も聞こえた。

要に秘密を持っているのは気が引けた。けど、自分しか知らない彼女を見ているのはなんだか特別な気持ちになった。要と同じように僕はひとつため息をついて、大教室と比べたら全然狭い……つまり、彼女との距離がとても近い教室で、頬杖をついて彼女を見ていた。

そんな僕を要じゃない友人たちは指をさして笑っていた。


「原田、最近、好きな女の子がいるんだって?」

「え? 何言ってるんだよ?誰がそんなこと」

「落ちつけって。別に冷やかしてるわけじゃないし、もしいないんならそんなにキョドらなくてもいいだろ?」

 どこから僕の秘密が漏れてしまったんだろう。

 間違いを正すのは今だ、と思った。




雨垂れが紫陽花を濡らす中庭で、またひとつため息をつく。嘘をつく前は目線が自然と上向きになる。相手にそれは嘘だと気づかれたくないから。

「原田に好きな子できたって、みんな言ってるよ。オレに相談してくれないの? 水臭い」

 何も知らない要はにやにやしながら僕の方を見た。

「……好きな女の子なんていないよ。いるのは、要のほうだろ?」

要にも噂が伝わったらしくその話題をふられて、僕はそれを逸らした。

「オレは別に……」

「顔、赤いし」

 ヤツは頬に手をやった。

「そんな風に目で追っちゃうのは、もう恋なんじゃないの?」

「……これは恋なのかな? 別に抱きしめたいとか、そういうのないけど」

「バカだな、お前。恋って、相手のことしか見えなくなることだろう? ある意味」

 僕がそう言うと、今度は要が真っ赤な顔で俯いてしまった。何かを呟く。

「そっかー。これは恋なのか」

「早く気づけよ」

「確かにそうかもな。オレ、彼女の見る世界の中に入りたいんだ」

 徹底的に僕の友だちはバカで、そして深く恋に落ちていた。僕の方は恋に落ちているのかと聞かれたら、それはもうYesだった。完全に恋という名の渦の中に落ちて、抜け出すことができずにただ、ぐるぐると同じところを回っていた。そう、同じところを要と二人で。

 これはもう後出しの自分は勝てそうになく、自分で自分に見切りをつけてこのまだ小さい胸の想いは何とか消してしまおうとそのときは思った。


 梅雨が終わり本格的に暑い季節がやってきた。「哲学1」の授業も残すところ数回。要が彼女を見ていられるのも数回……要はまだ、彼女の名前も所属も知らない。僕はこの恋からはずだったのに、ただの卑怯者に成り下がっていた。要には何一つ大切なことを伝えなかった。

 心理学の講義も同じように残すところ数回だ。汐見さんは相変わらず小さく笑って、友人と「哲学1」では無邪気な笑顔を見せていた。その微笑みはささやかなしあわせを僕に運んだ。

「原田の好きな子、あの子、森下の好きな子じゃないの?お前たち仲良いのにまずくない?」

 痛いところを突かれた。不意打ちだった。

「いや、違うよ。第一、僕は好きな子はいないし」

「おーい、何言ってるんだよ。あの子のこと見て、いつもため息ついてるだろ? そうやって見てるだけでも恋だと思うけど?」

 ヤツに言ってやったのと同じセリフだ。見ているだけでも恋になるなら、もうダメだ。絶望的に恋に落ちてる……。だって彼女のことを思うとこんなに胸が痛い。

「……要が好きな子と同じ子じゃないよ」

 それだけ言うのが精一杯だった。そこのところははっきりさせておかないと、要と友だちじゃなくなる……。




 ある真夏の焼けつくほど酷く暑い日、来週が「哲学1」の最後の講義になったとき、要は突然、講義の後に「告白してくる!」と言って走り去ってしまった。要の走った方向にあの子……汐見さんが見える。汐見さんは今日も半袖の白いブラウスを着て、紺のスカートを履いていた。まるで女学生のようなスタイルで「少女」という言葉を連想した。

 ――彼女、要のものになっちゃうな。

 出遅れた僕には何も言う資格など無く、周りで冷やかしてる友だちたちと一緒に要の失恋を待っているふりをしていた。

 彼女は多分、そういう人じゃない。ほっそりした白い腕を遠目で見ながらそう思った。要のことは知らなくても、要の強い気持ちを無下にはしないんじゃないかな……。

 そして、それは思った通りになった。要の勝ちだ。僕は要に自分の想いを伝えることも、彼女に先に声をかけることもできなかった。「後出し」だなんてただの言い訳で、本当は臆病なだけだ。

「よかったな」

「うん。原田、いつも相談に乗ってくれてありがとう。お前のお陰だよ」

「そんなのないよ。友だちだから仕方ないだけだ」

「何だよそれ!」

 そう言ってヤツは怒ったふりをして、僕は笑って逃げた。あの日、逃げたのは何だったのかなぁ? ――そうだ、由芽ちゃんへの想いから逃げたんだ。僕は自分の想いを持て余して、彼女から目を背けた。


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