3日前……手と手を繋いで

 その日はひどい雨だった。まさしくオレのくだらないプライドを打ち砕くような、強い降りだった。ベランダに打ちつける雨粒が、勢いよく跳ねている。外に出たら寒いに違いない。

 由芽のために朝ご飯を作る。今まで作ってもらった分も含めて、お返ししたい。そして喜んでもらえたら、笑顔を返してくれたらうれしいと、そう思う。

「おはよう……」

と寝ぼけ眼で彼女が目を覚ます。外と違って部屋の中はすっかり暖めてある。のそのそと彼女がベッドから起きてきても寒くはないだろう。

「コーヒー飲む?」

「うん、飲む……」

 今朝はハムサンドを作った。由芽みたいに特別な卵サンドは作れないし、ハムとレタスで簡単に作った。昨日の残りのシチューも温めて、スープ代わりに出した。由芽は喜んでくれた。

 昨日の夜はあの後、すっかり冷めた「シチューライス」を食べて、お互いに風呂に入ってから由芽とひとつになって、ふたりで丸まって眠った。何か楽しい夢でもまた見ているのか、なかなか起きない。学校をお互い休んでいるので好きなだけ寝かせておいてあげる。

 ハムサンドを食べる。

「辛子マヨネーズ、美味しいね」

と由芽が頬張る。

「それはよかった」

とオレは由芽の鼻をつついた。


「由芽、悪いんだけど……約束違反なんだけど、どうしても今日、玲香に会わなくちゃいけないんだ」

 由芽のコーヒーを飲もうと伸ばした手が、ふと止まる。

「うん、わかったよ。どうせ雨がひどくて散歩もできないしね」

 由芽の気持ちを考えると申し訳なさでいっぱいになる。けど、どうしても越えなくちゃいけない踏ん張りどころだ。逃げられない。


 吐く息が白い。駅までの道を傘をさして歩く。スニーカーは中までびしょ濡れで、ジーンズの裾も重くなる。撥水加工の上着を着ていても、足元までは雨を防ぎようがなかった。


『できれば明日、会いたいんだけど』


と昨日の夜、玲香に送った。いつものように玲香からはすぐに返事はなかったけれど、朝には返信が入っていた。


『午前中ならいいよ』


 電車に一駅乗る。

 玲香のマンションは駅から目と鼻の先だ。傘をまたさしてエントランスに向かう。

「どうしたの? 久しぶりじゃない。汐見さんとの約束は?」

「うん、その話をしに来た」

「……つもりでしょう? そういうの、耐えられない」

 玲香はゆっくりと、オレの濡れたままの服を気にせず抱きついてきた。正直、驚いた。彼女はだと思っていたから。

「別に、体だけのつき合いじゃないの、わたしにとっては」

「ベッドでしか繋がらなかったのに?」

「ほんと、そう。笑える……」

 どんな顔をしたらいいのかわからなかった。彼女が求めているものにも、引き止めたいものにも。

「とりあえず中に入って」と彼女はリビングにオレを促した。何も言わずコーヒーを淹れてくれる。カタン、とソーサーを華奢なガラスのテーブルに置く音がする。

「ごめん、別れてほしいんだ」

「……あなたの方から別れたいなんて、心外。わたしのこと、すごく好きでいてくれてるのかと思ってた」

「自分でもそうだと思ってた。オレの勝手だと思うよ」

 玲香の部屋の大きなガラス窓に斜めに雨が打ちつける。その雨つぶが雫になる前にまた打ちつけられていくのを、彼女はじっと見ていた。駅前の交差点にはほとんど人はいない。

「話はわかった。でも、考えさせてほしいの。そういうの、わかる? わたしにだってプライドもあれば、気持ちの切り替えも必要なの」

「……わかるよ」

「やっぱりあの時、一緒に『ご飯』を食べればよかった。美味しかったかもしれないし、好きになれたかもしれないし……なんてね、そういうことってあると思うでしょう? 今日はベッドはなしね。二人で、コーヒーを飲んで話をして……」

「うん、たまにはそういうのもいいよね」

 玲香の話し方は落ち着いていた。この部屋に来て、ベッドに入らなかったのは初めてだった。彼女は本当は自分を好きになっていたのかもしれないと錯覚を覚えたけれど、好きになるにはお互いのことを知らなさすぎた。オレの知ってる玲香は、ベッドの中の姿と赤いネイル。

「気持ちが固まったら、連絡する。けど……絶対に別れるっていうわけじゃないから。汐見さんが拒否するかもしれないし。あと3日の間に要の気持ちが変わるのを待ってる……」

 首の後ろに腕を回して、彼女は少しだけ踵を上げるとオレにキスをした。




「ただいま」

 帰り道もすごく降られてどこが濡れたのかというより、どこが乾いてるのかを探す方が早かった。玄関に立てた傘から、雨の筋がつーっと小さな流れを作る。

「おかえり。ずいぶん早かったんだね? 遅くなるかと思ってご飯、何も考えてない」

「ごめん、連絡しなかったからそう思っても仕方ないよ。でも、この雨の中そんなに長く出かけたいと思えないよ」

「確かに」

 タオルをもらって、とりあえず服から出ている部分だけでも拭く。

「着替えて早く温まらないと風邪ひくよ?」

「うん、わかってる。何か温かいもの、飲ませてくれる?」

 あまりにびしょ濡れなので、着ていたものはすべて洗濯機に直接入れる。乾いている衣服が気持ちいい。

 着替えると由芽が牛乳を温めて、カフェオレを作ってくれた。息をかけて冷ましながらそれを飲んだ。温かさが体の中央を通って、染みとおる。

「わ! こぼすよ」

「寒いかなぁと思って」

 由芽がカフェオレを飲んでいるところを背中から抱きついてきた。こぼしそうになって慌てる。甘えたいんだな、と思う。背中側からぶら下がるように腕を回して、耳元に由芽の吐息が微かに届く。

「お風呂のお湯、張ってきてあげる」

「ありがとう、助かる」

「風邪ひくとツラいから」

 甘えたかったのかと思ったのに、パタパタと浴室に行ってしまった。

 一人でいる間、寂しい思いをさせたのかもしれない。誰だってこんなに寒い日に、一人でいるのは嫌なものだ。まして、浮気相手に恋人が会いに行ったなら……。

「くっついてもいい?」

「雨の匂いを由芽が嫌じゃなければ」

 由芽は毛布をずるずると持ってきて、二人の肩にかけた。そうしてオレの肩に頭をこつんと当ててから、自然に膝枕の形になる。膝枕なんて久しぶりにしてやった気がする……。

 一体いつから、当たり前だったことが当たり前じゃなくなってたんだろう? 自分のことを棚上げするわけじゃないけど、玲香のことがなくても、これという理由もなく二人の気持ちは離れていたんじゃないかと思った。当たり前にあるものは、当たり前に簡単に消える。


「由芽、オレ……」

「大丈夫、心配しなくても。別れたらつき合ってほしいって言ってくれてる奇特な人がいるし」

「……原田のこと?」

「やさしい人、だと思う」

「すぐにつき合うの?」

「わかんない、要と別れてからよく考える」

 原田がギブアップしたことを聞いたオレとしては複雑な話だった。もちろん原田は由芽のことをまだ想っているだろう。……オレが玲香と別れても、由芽はオレが好きだと思っているのが思い上がりだったらどうしよう、と急に不安になる。そんなことはない、由芽を信じればいいと、心の中で願い事を唱える。

 



 風呂を出てすっかり温まって気分も落ち着いたところで、また由芽が陽だまりのネコのように膝枕をしてもらいに転がってくる。オレもまた、彼女の形のいい小さな頭を時々撫でながらみかんを食べる。

「お昼、そう言えば食べたの?」

「食べなかった。由芽は?」

「……めんどくさくて食べなかった」

「うーん、この雨じゃ買い物に行けないしねぇ」

 場所がなくてベランダに近く設置してあるこたつから見える景色は、まだ土砂降りだった。

「あのさ、大したことじゃないんだけど」

「何?」

「由芽はいつも『何日か分まとめ買いしたほうが得なんだ』って言って、毎日買い物に行ったりしなかったじゃん? 最近は……」

「ああ、そうなの……」

 何故か彼女は顔を赤らめて、目線を外した。

「あのね、買い物に行くと要と手が繋げるから。新婚さんみたいに手と手を繋げるのがうれしくて、わざと毎日行ってたの」

 手と手を繋ぎたくて買い物に行ってたなんて……。つき合い始めてから最初のうち、彼女を離したくなくていつでも手を繋ぎたがったのは、オレの方だったのに。

「バカだな、買い物じゃなくても手くらい……由芽、オレね」

「うん、ごめん。今日は残り物でいいよね? 何があるかなぁ」

 オレの言い出した言葉をかき消すように、由芽は話を被せてきた。言いたいことが上手く言えない。

 玲香に少しも未練がないかと言ったら、それは微妙な話だった。何故なら彼女はオレに少しずつ心を開きかけている気がしたから。気がつけば、体だけの関係から次のステップに進めそうな気がした。でも、オレの方が「心変わり」してしまった。やっぱり由芽が大切だと、今更だけど気づいたからだ。彼女の孤独を一緒に抱えてあげることはできなくなった。二人とも傷つけて、右往左往している自分はひどく愚かだ。


「うどんがあるから、それでいい? 足りなかったらご飯はあるから、またおにぎりでも作るよ」

「十分だよ」


 冷蔵庫にあったわかめと油揚げとネギの入った温かいうどんだった。

「いい匂い」

「あ、今日は初めて『麺つゆ』使ったから、味がおかしかったら言ってね。調味料、足すから」

「今どき、何処の家庭でも麺つゆくらい使うでしょ? 気にしすぎ」

「そうなのかなぁ。なんか手抜きしてる感じがすごいしてて、罪悪感、半端ないんだけど」

 そういうところが「由芽」なんだよなぁと笑みがこぼれて食卓に着く。ふたりで「いただきます」をした。

「美味しいよ?」

「ならいいんだけど」

 残り物の食材でこれだけのものを作ってしまうのに、何をそんなに気にしているんだろうと思う。卑屈にならなくたって、由芽にしかできないことがいっぱいある。例えば、そう、オレを好きになってくれたりとか……。なかなかできないことだ。

 2年もの間、ずっとオレのことだけを見つめ続けてくれた由芽に感謝する。もしも……もしも17日目までに玲香から別れを承諾してもらえなくても、それが玲香に対する不誠実であったとしても由芽に伝えたい。


 ――由芽だけが好きなんだ。


 もう迷わないし、真っ直ぐに由芽だけを見ていたい。そして由芽の笑顔を守りたい。

 自分は由芽にそぐわないかもしれない。それでも。彼女をしあわせにできるのは自分だけだ、と胸を張れる男になろう。


 吸い寄せられるように唇が重なる。

「ご飯のときにキスなんて」

と由芽が思ってもないくせに言う。

「したいからしただけだよ」

と返すと、「まったく仕様がないなぁ」と言って照れる彼女が好きだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る