2日前……生まれ変わっても

 玲香からのメッセージは届かない。着信もない。彼女が本当にオレを手放す気がないのか、それもわからない。

 でもそれでも……明日、本当なら別れるはずだった日に本当の気持ちを全部話そう。由芽と玲香の間を都合よく行ったり来たりするオレを、由芽は軽蔑するかもしれない。フラれるのはオレかもしれない。それでも。

 二人の間にあるものを信じたい……。




 今朝は由芽の作った和食を食べる。甘い玉子焼きと、焼いたはんぺん、カブと油揚げの味噌汁。この玉子焼きだけは、もし別れることがあってもオレのためのオリジナルレシピだ。そう思うといっそう美味しくて、にやけずにいられない。

 由芽も、そんなオレを見てにっこり微笑んだ。


 昨日のあの雨は信じられないくらいすっかり止んで、今日は雲が重く空を覆っていた。真冬の寒さだ。

オレはダウンの上着を着て由芽に去年もらったマフラーをしていた。寒がりの由芽はコートの上にショールを羽織ってまた公園まで歩いていく。あるものは変わらないのに、一日一日、自然の風景は変わっていく。昨日の雨のせいで裸になった木々が増えたように思う。ふざけて、「寒い!」と言って由芽の背中に抱きつく。由芽も、「わたしだって寒いんだから!」と言って、二人で少し笑って、誰もいない通りで抱きしめ合ってからまた歩き出す。




「なぁ、由芽」

「うん?」

「ここに今まで何度も来てるのに、あのボートって乗ったことないと思わない?」

「そうだね、あんまり営業してるのも見ないし」

 毎日ただ、寒い思いをして歩くのも癪なので、由芽を驚かせてやろうと悪戯心でボートを見に行こうと提案する。ボートの周りにはこの間餌をやったアヒルや鴨がこちらには興味はなさそうな顔をして集まっていた。

「出せるかな、これ」

「え? 無理だよ、怒られちゃうよ。商売道具なんだし」

「やってみるか」

 ボートは勝手に流れていかないよう、ロープで固定されていたけれど、何とか一艘、池の上に浮かべることができた。

「オール」

と言うと由芽があたふたしながらどこかからオールを持ってきて、「漕げるの?」と尋ねてきた。

「やったことはある。由芽も乗りなよ」

 乗る時にボートはゆらゆら揺れて由芽が怖がったので、ボートの上から手を引いてやる。オールで桟橋を一突きすると、すーっとボートは水の抵抗を無視して滑るように池の中心へと進んで行った。

 水面には地表より冷たい風が吹いていたけれど、由芽はボートが気に入ったらしく水鳥たちと、空を見つめていた。

「寒いね」

「うん、寒いね」

「気分はどうですか?」

 由芽の目の中に映るものが何なのか知りたかった。上を向いたまま、空を見上げている。

「吸い込まれそう」

「あの雲の中に?」

「そう、あの雲の中に」

 

「要……今更改まって言うのもなんだけど。出会ってくれてありがとう。声をかけてくれてありがとう。あの日、要が声をかけてくれたから今のわたしがあるの。こんな日が来ると思ってなかったけど、もしも生まれ変われるなら、その時、また傷つくことになっても要と出会いたい。今日、ここまで来てもまだ、要に会えなくなる日が来るなんて信じられないなぁ」

 オールを握ったまま、オレは気の利いた事を何一つ言えなかった。由芽が心の内に秘めていた思いを同じように自分も感じていた。


 ……あの夏の日に、また由芽の手を引いて歩きたい。

 生まれ変わって同じようなことが起こるとわかっていても、由芽と出会いたい。

 会えなくなる日が来なくなるよう手を尽くしたけれど……二度と会えなくなるようなそんな寂しい思いをするような目に、もう遭わせたくない。


「生まれ変わっても、由芽を見つけられるかな? ……その気がなくてもきっと、目が行っちゃうと思うよ。視線の中に由芽が入らないようにするのは、あの大教室でも難しかった。恋って、こういうものなんだ、理由なんていらないんだって初めて知ったんだよ」

 ぼんやり考えたことが上手く伝わったかわからなかったけれど、自分の言葉が恥ずかしくてオールを漕いだ。


 ボートは一応返しておいた。由芽は余程、楽しかったらしくてくすくす笑った。

「あれはね、まずいと思うよ?」

「そうかな、あれくらい良くない? 楽しかったし、由芽も楽しんでたし」

「楽しかった! また今度……今度があったらね……。桜の季節になったら、ここにもまたたくさんボートが浮かぶんだね」

 桜の季節になったら、また二人で来ればいいよと言いたかった。ただそれだけのことが気軽に言えないのは、自分が不貞を働いたからだ。玲香からの返事を待っているけれど、オレはまだ宙ぶらりんだった。


「由芽? 泣いてるの?」

 気がつくと由芽の様子がおかしかった。さっきまで楽しそうにしていたのに、うつむいて歩いている。下を向いていて顔が見えない。

「泣いてないよ。こんなに楽しいのに泣くわけないじゃない?」

 嘘だ。

 彼女は今、悲しみを噛みしめて涙と一緒に飲み込んでしまった。けど、泣いてないと言うなら、涙を止めてみようとオレは笑った。由芽も微笑んで顔を上げると、涙がまだ滲む目元がちらりと見えた。彼女の前に腕を組むよう差し出す。するり、とコートの袖がダウンに巻きついて由芽が肩に頭を寄せる。

「恋人同士って感じがするね」

「そうだね」

 肘で相手を小突きあってふざけながら歩いた。


「あのさ」

「うん?」

 どうしても聞いておきたかった。由芽は本当はオレの浮気を心のどこかで許せずにいるだろう。それは当然だ。でも、まだと思えるのは自分だけなのかどうか。

「……今日は16日目だってことはわかってるんだけど、由芽はオレのこと、好き?」

「そうだね。まだまだ有り余るほど好きみたい。明日で終わりなのに困るよね。……ちゃんと『他人』になれるよう、がんばってみるよ」

 オレとしては他人になられたら困るのに。そう言われてしまうと……他の男の方が余程、由芽に相応しく思えてきて自信がなくなる。

 目を合わせることもためらわれて、とりあえず近くにあった自販機で温かい飲み物を2本買う。カイロの代わりだ。

 いつも通り、由芽はキャップを開けるのが下手で、代わりに開けてやる。湯気がふわっと上がる。


「由芽がオレを好きになってくれて本当にうれしかった。告白して上手くいったとき、みんなに自慢して歩きたいと思ったんだよ」

「それであのとき、わたしを原田くんたちにすぐ紹介したんだ?」

「みんな、オレが告白しに行くって知ってて待ってたんだよ、フラれるのをね。そしたら由芽がOKしてくれたから、みんなにジュース奢らされたよ」


 二人で声に出して笑った。

 オレみたいな中途半端な男に、由芽みたいなかわいい子が引っかかると誰も思ってなかった。みんなが「フラれる」方に面白がって賭けた。賭けに負けるとお祝いと言って、何故か奢らされたっけ。奢らされても由芽とつき合えることがうれしくて、腹も立たなかったっけ。


 話が途切れて、ペットボトルで暖を取る。


「ずっと覚えてるよ。忘れない。告白された日のことも、ふたりで生活した日々も、この、別れのための17日間も。全部わたしには大切な日だから……ありがとう」

「この17日間も?」

「……もちろん。要のことを今までで一番近くに感じたもの。今まで知らなかった要をたくさん知って、ああ、こんなに知らないことがあるならフラれても仕方ないかなって思う」

「由芽……明日、もしかしたら由芽にプレゼントがあげられるかもしれない。でももし、できなくて悲しませたらごめん」

「? 別れの記念品なら、ガラスの靴をもらったよ?」

「また別の、プレゼントだよ」


 あげられる保証がないから、はっきり喜ばせてあげることができない。

 玲香のことは考えないで、明日になったら由芽にもう一度つき合ってもらえるように頭を下げようか。それはできないわけじゃない。

 でも、玲香に不誠実でいたら、由芽も気分よくオレを迎えられないだろう……。最悪、また二股だ。

 反対に、不誠実だったことを理由に由芽に拒絶されるかもしれない。大丈夫だとは思うけれど、もしも、という思いが拭いされない。


 自分のしてきたことのが回ってきた。



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