4日前……かけがえのないもの

 どうかな、と思いつつ、原田にメッセージを送る。


『悪いんだけど、木曜まで代返頼む』


『木曜までって長すぎるだろ? また大島玲香?』


『違う、由芽のとこにいる。木曜で17日なんだよ』


 直電。もちろん原田からだ。

「17日とか、もう関係ないんじゃない? なんか、お前も由芽ちゃんもすり減ってくだけに見えるけど」

「……他の女と浮気しちゃったんだから、オレには由芽の隣にいる資格ない。お前が上手くやればいいじゃん。由芽だってお前なら」

「なんだよ、大島玲香のことは浮気だって認めたのかよ。なら話は早いだろ? ……あー、この前さ、ちょっと手を出しちゃって、ごめん。由芽ちゃんにはきっとお前が必要なんだよ」

「でもさ、浮気した彼氏ってどーよ? ……手?

手出しって何だよ」

「まぁ、浮気は確かに嫌だけどな。木曜までな。できるとこまでは協力するよ。だから、泣かせるなよ」




 今朝のご飯は「甘い玉子焼き」だった。

「朝ご飯に甘い玉子焼きが出るとうれしい。お弁当の時でも同じだけど」

 素直に、今まで口にしなかったことを言ってみた。どうせあと4日なんだから、恥ずかしいことは何も無い。

「要が好きだって言ってから、実は少し練習したの。味つけと、焼き方」

 知ってたよ、と思う。知ってて感謝しなかったのが問題だったんだ。

「思えば、ある日いきなり好みの味に変わったんだよ。『甘い玉子焼きが好き』だなんて言ったこと、忘れてたんだね」

「いいの、そんなことは。それからいつでも『美味しい』って言ってくれたから、それでいいんだよ」

「由芽の作る玉子焼きがいちばんだよ」

「それは言い過ぎだよー」

 恥ずかしそうにはにかむ彼女の中に、昨日の夜の彼女が実はいるんだと思うと不思議だった。


「せっかく学校サボってるんだから、何処かに行こうか?」

「うーん……こたつでいいよ? 要、みかん足りてる?」

「みかんはいいんだよ、ほら、由芽の好きなテーマパークとか、動物園でも何処でも」

 由芽は何か間違っている。確かにオレはみかんとか落花生とかポテトチップスなんかを出されるとエンドレスで食べてしまうところがあるけれど、24時間みかんが食べたいわけではない。由芽の中のオレのイメージがそうなら、まぁ、それはそれでもいいけれど。

「うーん、じゃあそんなに言うならそこの公園」

「そこの? いつもの? 寒いよ」

「うん、ダメなの?」

「ダメじゃないけど……まぁいいか、帰りに買い物してこよう」

 確かに今更、思い出作りは何だよな、と思う。それをするはずだった日はオレは最低で、一日中、玲香を抱いていた。溺れるようにその貴重な日を過ごしてしまったのに、今になってその日を取り戻せるはずがない。

「何したの? 行こう?」

 由芽がオレのダウンのポケットに、手袋を脱いで片手を入れてくる。うれしそうにしている。ポケットの中で手を繋ぐ。ふふっ、と彼女は寒い中、笑った。

「あー、エコバッグ忘れた」

「そういう日もあるよ」

 由芽のアパートからすぐのところに大きな公園があって、春は桜、夏は蓮、秋は紅葉と、それこそ四季折々の景色が楽しめる。まぁ、オレたちはそれとはまったく関係なく、気が向くとふらっと散歩によく行った。

 由芽は人混みに入ると気分が悪くなることが多いので、どこかに行きたい時に散歩するのにちょうどよかった。つき合い始めた頃はあちこち行ってみたけれど、彼女があまりと気がついてからはオレが「人混みが嫌い」になってみた。今でも由芽はそう思ってるようだ。

 公園まで、夏の間しか営業しない市民プールを通って、市営の野球場を通り過ぎる。細い路地は人影も少なく、車も来ないので安心してブラブラする。由芽も寒さの中の散歩を楽しんでいるようだった。


「由芽、やっぱりこの季節だとすごく寒いじゃん」

「冬だからね、仕方ないよ」

 できるだけ希望に沿うようにしてあげたいと思いつつ、寒いのは勘弁して欲しいと思う。やっぱりこたつが正解だったかなぁと一瞬、現実逃避しそうになる。屋内と言ってもこの時期のショッピングモールはクリスマス一色でやはりが問題になるから、公園がベストアンサーなのかもしれない。

 寒さで肌がピリピリした。




 池の周りの桜は裸になっていた。由芽はこの寒いのに、水辺に寄ってアヒルに餌をあげたがる。

「お腹空いてたのかなぁ?」

「そうじゃないの? すごい食べっぷりだもん」

「管理人さんみたいな人が餌を毎日、あげたりしないのかな?」

「どうなんだろうね」

と話しながら、オレはヤケになって食パンをちぎっては投げていた。

 池の周りをぐるりと歩くと、由芽がピンク色の花を見つけて花びらを拾い始めた。

「キレイな色だよね?」

「ツバキ?」

「違うよ、冬に咲くのはサザンカだよ。ツバキは花びらが散らないで、花ごとぽとん、と落ちるのよ」

 ツバキとサザンカの違いは一生わからないかもしれないと思った。由芽はせっかく花びらのキレイなところだけを集めて拾ったのに、全部、池に投げてしまう。寂しい色をした水面に、パッと花びらが浮かんだ。


「夕飯は何にしようか?」

「何かなぁ、温かいものがいいよね。寒かったもん」

「やっぱり由芽も寒かったんじゃないか?」

 こつん、と肘でつつく。

「シチューにしよう。オレ、作るから由芽はこたつに入ってなよ」

「ええ? 別にいいよ。シチューくらいわたしが作るよ」

「シチューくらい、オレにも作れるよ、たぶん」

 由芽が普段使ってるのと違うシチューミックスを見つけて、美味しく作ろうとスーパーで座り込んで熱心に選んだ。「美味しい」と驚く顔が見たい。


 とにかく野菜の皮を剥く。正直、あまり得意なわけじゃない。ピーラーで手を切らないように慎重に剥く。それから鶏肉を切って、鍋でみんなぐつぐつ煮る……と箱には書いてあった。

 いつもは適当に作るんだけど、由芽にごまかしは効かないだろうから、箱に書いてある説明書きに合わせて慎重に作った。

 ご飯がいい感じに炊飯器から湯気を立てている時に、こたつでみかんを食べているはずの由芽を見たら、うとうとと寝ていた。きっと寒い中、散歩して疲れたんだろうと、肩にブランケットをかけてやる。

 ……シチューもご飯も後は放っておけばいいので、こたつに一緒に入って寝転がって由芽の寝顔を見ている。

 乾燥したのか、頬が赤くなっている。つついても起きそうにない。ぐっすり眠っている。

 歌の歌詞にありそうな、まるで「こんな日が来ると思ってなかった」だ。由芽はオレの浮気で苦しんだし、オレは自分のした事が許せなくて、プライドの高い玲香はオレと少なくともしばらくは別れないだろう。

 どうしてささやかなしあわせを、……微笑みを守ってあげられなかったんだろう? 今になればそう思う。でもあの時はそれこそが足りなかったんだと思う。大人しくて従順な彼女と、繰り返される毎日……。

 そういうものを、「かけがえのないもの」と思える気持ちが麻痺していた。

 由芽のやわらかい髪を撫でる。ツヤのある髪がさらさらと滑り落ちる。

 さぁ、シチューミックスをそろそろ入れよう。


「由芽、できた」

 しゃがんで声をかける。

「手伝わなくてごめんね」

「大丈夫だよ、上手くできたから」

 ご飯をカレー皿に盛って、そのままシチューをかける。カレーライスのように。なかなか上手くできた。

「……かけるの?」

「ダメだった?」

「うーん……やったことない」

「一人暮らしの男はみんなかけると思うよ。洗い物も減るしね」

 そんなところに男女差があるなんて思わなくて、くすりと笑ってしまった。

「あ、じゃがいもがトロトロ。ニンジンもよく煮てあるから甘いね」

「でしょ? 由芽のシチューを思い出しながら茹で加減を決めたんだよ」

 ちょっとカッコつけてみる。

 実際は由芽の寝顔を眺めている時間がずっと長かった。そんなことはもちろん言わない。バレたら恥ずかしいから。美味しいって喜んでくれるなら、いくらでも作ってあげよう。何度でも喜んで。……別れが来ないなら。

「どうした? シチュー、熱かった?」

「うん、すっごく熱かったの。ご飯にかけても美味しいね」

と笑うけれど、もう目尻に滲む涙を見逃さない。オレは今まで見逃してきた彼女の小さな表情の変化を見逃さない。残りの時間が少なくても、その間だけでも悲しませたくない。

「おいで。ご飯中だけど……理由はわかんないけど、泣きたいときは泣きなよ。そのためにオレはいるんだし」

 由芽は素直にオレに頭を預けて、服をぎゅっと掴んだ。

「悲しくなった?」

「いいんだよ、もう大丈夫。シチュー冷めちゃうし。要がやさしくしてくれたから、大丈夫だよ」

「強がり」

 少しの間があって、由芽が口を開く。

「……大島さんにも作る? シチューや生姜焼きを」

 由芽に思いもよらなかったことを今、聞かれて驚いた。つい、玲香の「ご飯が嫌いなの」という言葉を思い出す。彼女に手料理を作る自分が想像できなかった。

「彼女はこんなものは食べたがらないし、オレが作れるって知らないままにしておけばいいんだよ。由芽にしか作らない」

 不安げな彼女にひとつだけ、キスをする。

「そんな心配してるとシチュー、冷めちゃうよ」

 手を引いて、逃がさない。もう一歩、踏み込んだキスをする。

「由芽、本当にオレをまだ好きなの? 他にもいいやつはいっぱいいるし、少なくとも原田は由芽に本気みたいだったし。……あいつ、いいやつだよ。一応、親友だから言わせてもらうけど」

「……わたしに心変わりされたい人はキスなんてしないと思わない? 原田くんのこととか、悪いけど今は全然、考えられない」

「オレのものでいなよ」

 つい、言葉が口をつく。本当の気持ちを隠しておくことができない。好きなんだ、由芽のことだけ。気持ちの分だけ、きつく抱きしめる。


 あの日のことを思い出す。

 暑くて、暑くておかしくなりそうな中、いつも見つめていた由芽の背中を見失わないようにバカみたいに走った。

 告白して上手く行くとは思っていなかった。自信なんて全然なかった。

 けど、今、捕まえておかなかったらきっと後悔する。声をかけなかったらきっと。


「……例え残り3日でも、オレのものでいなよ。由芽に相応しい男はそれから探せばいい。オレのでいて?」

 何言ってんだ、オレ?

 今更、そんなこと言える道理はない。


 由芽の瞳が揺れている。由芽が何を考えているのか、オレには何となく通じている。彼女も今、あの夏の日のことを思い出している。すべての始まり……賭けてもいい。きっとあの日を思い出している。

 だからそのまま抱きしめて、彼女をオレで全部満たしてしまおうと狡いことを考える。

 由芽は鼻声で、

「うん、そうする」

と何度も繰り返した。


 カッコ悪くても、卑怯でも関係ない。全部、精算しようとそう思った。

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