Page90:月夜でお話しましょう①

 月の明かりが窓から差し込む夜。

 マリーは屋敷の自室で、手にした白い獣魂栞ソウルマークを眺めていた。


『ピィ……』

「わたくしは大丈夫ですわ、ローレライ」


 獣魂栞からローレライの悲しげな声が聞こえる。

 マリーの事を心配しているのだ。

 しかし当のマリーは空元気で答える。

 ブライトン公国での戦い。そして敗北と負傷。

 それらが強烈な心の傷として刻み込まれているのだ。


「わたくしは、とても弱いです」

『ピィ、ピィ』

「何も守れなかったどころか……ローレライ、貴女にも怪我を負わせてしまいました」


 自己嫌悪。その感情がマリーの心を蝕む。

 ブライトン公国で人々を守れなかった件もだが、それ以上にパートナーであるローレライを負傷させた事実が、マリーに影を落としている。

 そんなマリーをローレライは必死に慰めようとするが、上手くいかない。


 マリーは窓の外を見る。

 今日は綺麗な満月が浮かんでいた。


「……あの日の夜も、こんな満月でしたわね」


 マリーは月を見ながら、ここまでの道のりを思い返していた。


 マリー=アンジュ・ローサ・リマ・ド・サン=テグジュペリ。

 名門伯爵家の第三子にして長女として生まれた彼女は、これといった不自由なく生活していた。

 何か困りごとがあるとすれば、病弱な母の事くらい。しかしその母親も優しく、マリーにとっては尊敬すべき相手であった。


 彼女にとって最初の転機が訪れたのは十歳の時だ。

 サン=テグジュペリ領に暴走魔獣が現れた。

 当時付き人と共に街に出ていたマリーは当然のように退避したのだが、その間際に彼女は目にしたのだ。

 逃げ惑う人々とは明らかに違う存在、暴走魔獣に臆することなく駆け出した戦士の存在を。


「クロス・モーフィング!」


 その呪文と共に変身した操獣者そうじゅうしゃの存在を、マリーは決して忘れることは無かった。


 その一件からマリーは、貴族として民を守る存在とは何かを考えるようになる。

 為政者として知恵をつけるべきか。しかしそれは二人の兄が全て父から継ぐだろう。

 自分の価値となれば、家と家をつなぐ政治道具として嫁に行くのが関の山だろう。

 では自分はどうすれば民を守れるのか。


 マリーの頭の中には、あの日見た操獣者の姿が離れなかった。

 その残影は、いつしかマリーの中で憧れとなり、夢へと昇華した。

 あとは実行するのみ。

 マリーは意を決して家族に、操獣者という夢を語った。


 だが現実は非常であった。

 父と長兄は明確に反対し、次兄も口にはしなかったが良い顔はしなかった。

 当然だ。貴族の娘を、わざわざ戦場に送る者はいない。

 操獣者は戦闘要員。その仕事場は荒事が九割だ。

 マリーの夢は容赦なく全否定され、彼女は涙を流しながら自室に籠ってしまった。


 誰かを守る存在になりたかった。父が愛する領民を、自分を愛してくれる母を、守れる存在になりたかった。

 だがその夢は否定された。

 結局自分は、貴族の娘という籠の中で生きるしかないのか。

 マリーがそう悲観した頃、一人だけ彼女に理解を示す者がいた。


 マリーの母、ユリアーナだ。

 ユリアーナはマリーの夢を肯定し、その夢を応援してくれた。

 まずは契約魔獣が必要だ。

 ユリアーナは教会へ連れていき、マリーに召喚魔法を使わせた。

 ローレライとの出会いである。


 次は魔武具が必要だ。

 ユリアーナは風の噂で聞いた、腕の立つ整備士の居場所をマリーに教えた。

 整備士、シドの工房である。

 マリーは迷うことなくシドに会いに行き、魔武具の制作を依頼した。

 だがシドもすぐに了承したわけではない。

 当然だ。年端もいかぬ貴族の娘に武器を与えるような整備士は存在しない。

 追い返したシド。しかしマリーは諦めなかった。

 何度も工房を訪れるマリー。そのたびに彼女はこう言った。


「操獣者を教えてください!」


 シドが高ランク元操獣者であることはユリアーナから聞いていた。

 何度も諦めずに工房へ通うマリー。

 次第にシドも、彼女に根負けしていった。


 それからマリーはシドの下で魔法術式を学び、魔武具の使い方を学んだ。

 徐々に腕を上げていき、こっそりと操獣者として活動を始めたマリー。

 しかし、秘密はいつかバレてしまうもの。


 十七歳の終わり頃、マリーは父に操獣者として密かに活動していることが露呈してしまった。

 その時の伯爵は怒りに怒った。マリーを部屋に監禁してしまったのだ。

 自室で絶望するマリー。

 結局何も理解は得られなかった。


 ならばこのまま貴族の娘として一生を終えるか。

 不本意な未来を受け入れるか。

 深い深い暗闇の中に落ちようとしたマリー。


 だが、その暗闇から彼女を引き上げるように、その少女は現れた。


「ねぇ、アタシの仲間になってよ!」


 フレイア・ローリング。

 彼女の登場によって、マリーは自分の道を歩むチャンスを得た。


 派手に暴れてから、家を出たマリー。

 彼女はセイラムシティに辿り着き、操獣者としての夢を叶える道を歩み始めた。


 しかし、ブライトン公国での事件が起きた。


「わたくしは……何も守れません」


 完全なる敗北と、パートナーの負傷。

 それはマリーの夢にひびを入れるのに十分な威力を持っていた。


「ローレライ、わたくしは……」


 言葉を紡ごうとして、飲み込んでしまう。

 それを口にしたら、全て終わってしまう気がしたから。

 諦めたくない心と、諦めたい心がせめぎ合う。

 いっそ全てを放り出して逃げてしまえば楽になるのだろうか。


 何かにすがるように、マリーは窓の外に浮かぶ月を見る。

 だが次の瞬間、大きな影が月を隠してしまった。


「おっ、いたいた」

「レイさん!?」


 窓の外に現れたのは、浮遊するスレイプニルの背に乗ったレイであった。


「どうしてこちらに?」

「マリーが随分弱ってそうだったからな。様子見に来ただけだよ」


 レイが「とりあえず窓開けてもらっていい?」と言うので、マリーは慌てて開けた。


 空いた窓に飛び込んでくるレイ。

 何故だかマリーは、その様子にいつかのフレイアの姿を重ねていた。

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