第5話 そして二人は

「―――――――」

 どこか、聞き覚えのある歌が聞こえる。

 反射的に、手元に転がしていたヘッドフォンを確認する。

 特に音は流れていない。

 PCも、キーボードも確認したが、音源はどちらでもなかった。

「―――――――」

 未だ歌は聞こえている。

 だけど、それは後半に差し掛かり、そのまま終わってしまう予感があった。

 白杖を片手に部屋を飛び出す。

 誰にも、何にもぶつからない程度に急ぐ。

「走ると危ないですよー」

 これは歩きだからセーフ。

 ひたすら、音が大きい方向へ進んだ。

 あと少し。

 そう思えるくらい歌が大きく聞こえるようになったところで、歌が終わってしまった。

 二曲目が始まるかと待ったが、そんな様子もない。

 看護師たちが集まってきた。

 その前に診察を受けることになりそうだ。


「歌が聞こえた。…ねえ」

「はい。確かに聞こえました。あのあたりから」

 前とは別の医者はふむと少し考えてから口を開いた。

「聞き覚えがあるんだったね。その歌は、君にとって恐ろしいものかい?トラウマがあったりとか」

 トラウマ。そう呼べるものを経験した覚えはない。それに特に恐ろしい曲調でもなかった。

「そうか。ふむ」

 医者は顎に手を当てて遼を眺めるように言った。

「両目を失明なんてしたら統合失調症になってもおかしくはないと思うんだけど、君は大丈夫そうだからね。そういえば、どうしてそんなに落ち着いているんだい?不安になったり絶望してもいいことだと思うけど」

 どうして。そういわれても、適当な推測くらいしか言えることがない。

「もともとあんまり人生が楽しくなかったからじゃないですか。落差が少ないから、衝撃も少ないんでしょうよ」

 医者はなるほどと笑った。


「これは僕の想像だけど、聞こえると思っていたら歌が聞こえてきた。そういう思い込みが原因だったりするかもしれないね」

 それはたいそうな想像力だ。

 そんなことを思って遼は笑った。

「まあ、声の出どころを探すのはいいけど、ぶつからないように気を付けてね」

「ありがとうございました」

 それで、診察はお開きになった。


 幻聴は、その後も幾度となく続いた。

 多いときは一日に何回も。

 曲はその時々によって違ったが、声は同じだった。

 だけど、俺は歌の途中で傍までたどり着いたことがまだない。

 たどり着かないような距離から狙って歌が届くのだろうか。

 

 一つ、気付いたことがある。

 歌が聞こえる時は、視線というか、気配がしないのだ。

 四六時中傍にある気配が消えると、さすがに俺でもわかる。

 因果関係があるかはわからないけれど。

 俺は、その気配の主が歌を歌っているのではないかと考えるようになった。


 気配が消えたすぐあと、部屋から出て少し離れたところで待つ。

 ここなら病院のどこに出ても間に合うだろう。

「――――――――」

 始まった。

 ぶつからないように慎重に、だけど急いで進む。

「――――――」

 よし。まだ間に合う。

 そう思って音が出ている部屋に入りかけた時。

「―――っ!」

 その歌が驚いたように途切れた。

 またしても失敗だったが、遼は予感を確信に変えていた。


 それからしばらくの後、また歌が聞こえてきそうな頃。

「なあ、いるんだろ?」

 俺は、まだ部屋にいた気配に話しかけていた。

 これで気配が気のせいだったらとんだ笑いものだ。

 虚空に話しかける痛い人になってしまう。

 だが、そんな心配はしなくてよさそうだった。

「――――――――」

 すぐそばから歌が聞こえてきた。

 今まで聞いていた澄んだ声。どこか懐かしい音色。

 だが、俺はここで、近くで聞いて初めて、この声の主が誰かを思い出した。


『うん。聞いて』

『遼』

 それは、夢の中で聞いた声。

 遼と時を共に過ごした人の声。

 だが、それ以上は思い出せない。


 あと少しのところで躓いた遼は、彼女の歌を聞く。

 昔、何度も聞いた気がするこの歌。

 しばらく聞いて、遼は全てを思い出した。


『――――』

『すごい。すごいよ。お前』


『―――――』

『どうだった?』

『昨日よりすごかった』

『えへ…ありがと』


 二人が出会った日を。そして、二人で過ごした日々を、夢の記憶も含めて、全て思い出した。

 これは、出会ったときに聞かせてくれた歌だ。

 あの日、二人を繋いだ祈りだ。

 迫力も、声量も、技術も、見違えるように上達しているけれど。

 そこに潜む思いを、見間違えるはずもなかった。


 歌が終わり、その余韻の中で。

 遼は立ち上がり、歩き出していた。

 白杖を持つことも忘れ、気配のするほうへまっすぐと。

「メル?メル・アイヴィー、なのか?」

 手が、誰かにとられた感触がする。

「そうだよ。私、メル・アイヴィー、だよ」

 遼は、頬から涙が滴っていることに気づかなかった。

 考える余裕は既になく、遼は感情の往くままに身を任せていた。

「メル。メル、俺はっ!」

 しがみつくような形で抱き着き、メルの胸元で遼は泣きじゃくる。

「ありがとう。私を忘れないでくれて」

 メルはぎゅっと強く遼を抱きしめた。

 遼はしばらく甘えていたが、ようやく意を決して口を開いた。

「メル。俺、目が見えなくなったんだ」

 ここにずっといた以上、当然知っているだろうが、自分の口で伝えるべきだと遼は考えた。

「大丈夫。目を開けて」

 メルは遼の目に指を優しくあてがう。

 怯えながらも、遼はしばらく下ろしていた瞼を上げた。

「え?」

 メルだけがはっきりと見え、他は白くぼんやりしている。

 まるで、世界に自分とメルしかいないみたいだった。

「ね?」

 いたずらっぽくメルが笑う。

 再び涙があふれ、感極まった様子で遼は言った。

「メル。また会えてうれしいよ」

「私もだよ。遼」

 そうして二人は見つめ合い、どちらともなくキスをした。

 初々しい、少し触れるだけの口づけ。

 それでも、想いを交わすには十分だった。


 照れたように微笑み合う二人。

 その間にこれ以上の言葉は必要なくて、何をするかなんて、それこそ決まっていた。


「いくよ」

「いつでもどうぞ」

 キーボードを遼が引く。

 奏でるのは勿論二人で考えた旋律。

「―――――――」

 メルが歌いだす。

 重なり、合わさって、溶けて一つになっていく。

 夢にまで見た光景。

 この世にこれ以上のものは無い。

 ぼやけた世界の中で遼とメイは、これ以上ないくらいに輝いていた。

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夢か現か幻か 凶花睡月 @kyo-ka_suigetsu

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