歩道橋のさよなら

ひろせあお

歩道橋のさよなら

 私は故郷の町を一度も出たことがありません。町を出るどころか、一歩も動いたことすらないのです。ただじっと静かに佇んでいるだけ――それが自分に与えられた役目でした。

 そんな私がこの世に生を受けたのはもう何十年も前のこと。当時、私や私の仲間たちはあちこちに建てられ、人々の暮らしに役立っていました。車の多い道の両側にある歩道と歩道を橋渡し。「歩道橋」という名前で親しまれ、子供たちは私たちの背中や肩を通って学校に通い、放課後は遊び場にもなりました。大人やお年寄りも私たちのことを役に立つ存在として認めてくれていましたし、感謝の言葉をかけてくれる人も数多くいたのです。

 しかし、時とともに人々の足は私たちから遠ざかっていきました。自動車から彼らを守るため、横断歩道の代わりとして造られたはずが、やがて道路に太い白線の「橋」が書かれ、その上を人々は好んで通行するようになりました。歩道橋の急な階段をいちいち上がるよりも、歩行者用の信号機が赤から青に変わるのを待つ方がよっぽど楽だからです。

 私は目と鼻の先にある横断歩道を歩く人々をいつも少し上から眺めていました。こんなに図体の大きな私のことなどまるで目に入らないといった様子です。朝の通学時間には、横断歩道で「交通安全」の黄色い旗を手にしたおじさんやおばさんが子供たちを誘導しますが、私の上を歩くよう勧めることはありません。

 私はいつしか、自分なんていてもいなくても同じ……そう思うようになっていました。しょんぼりする私のそんな姿を見ては、近くの神社に何百年も前から立つ大きなイチョウの木が、私を励まそうと言葉をかけてくれます。

「わたるくん、そんな沈んだ顔をしちゃあいけないよ」

 今では誰も私のことなど渡ってくれないのに、幼い頃から私を知る長老は昔と変わらず「わたるくん」と愛情を込めてそう呼ぶのです。年は離れていますが気のおけない大事な友達でした。

「おじいさんはいいなあ、秋になれば黄色く色づいたおじいさんの葉っぱをみんなが見上げてもてはやすじゃないか」

「でも、秋が終わって葉っぱが落ちてしまえば裸も同然。そうなると誰も見てくれやしない。さみしいものだよ」

「わずかな間でも注目してくれる人がいるなんて、うらやましいよ。それに春がくればまた新しい葉っぱが、ほら、ちょうど今みたいに枝にたくさん芽吹いて、秋になればまたみんなが見てくれる。それに引きかえぼくのことなんて誰も見向きもしない」

 私はそうやって取りつく島がないほど自信を失っていたのです。やけになって暴れたいと思ったことも一度や二度ではありません。しかし、私には暴れることはおろか体を揺らすことすらできないのです。

 ほかにもいやなことと言えば、語るに引きも切りません。

 人通りがほとんど途絶えた私は、きちんと手入れをしてもらえなくなりました。以前は地域の人々が私の背中や階段を掃除してくれたものですが、そんな手間をかけてくれる人もめっきり減ってしまいました。私の体はすっかり古びてしまい、かつては何度も塗り直されたペンキも今ではあちこちで剥がれ落ち、雨のせいで錆びたその傷口がいつもひりひり痛むのです。

 かまってもらえないだけではありません。中には心無い人もいるもので、夜中の誰もいない時間帯を見計らっては、私の体のあちこちにスプレーで落書きをするのです。はじめは町役場の人がすぐに駆けつけてきれいにしてくれましたが、落書きは次第にエスカレート。ついには手に負えなくなり、まるで殴られて出来たあざがいつまでも治らない――そんな体に私はなってしまったのです。

 ひどいのは人間だけではありません。朝方、近くのゴミ捨て場に集められたゴミ袋を欲張りで大食いのカラスが漁りにやって来ます。目当てのご馳走が入っていると思しきビニール袋を食いちぎっては、食べ残しにありつこうと奮闘するのです。ただ、そこへ人が通りかかるなどすると、うかうか落ち着いて食事を楽しんでいられません。獲物を口にくわえ、大きな翼を広げると、飛び上がって私の背中に居場所を求めるのです。誰もいないのをいいことに、むしゃむちゃとあたり構わず分捕り品を食い散らかします。何度注意してもカラスに聞く耳はありません。満腹になると、「カァー、カァー」と脳天気な声を上げながら飛び去っていくだけなのです。

 こんなことの繰り返しで、身も心も傷だらけ。そこに誰からも頼りにされない孤独な気持ちが加わり、ため息をついてばかり。唯一の慰めは、悠然と沈む日暮れの太陽をじっと眺めることでした。私の正面に真っ直ぐのびる道路の先には山の稜線が見え、視界を遮る建物はほとんどありません。どの季節でも晴れてさえいれば、太陽が一日の終わりに放つ美しい光、それを照り返す西の空を見渡すことができました。これが今のわたしに残されたたった一つの自慢。そして、心の癒しでした。その光景を見るたび、明日もまた頑張ろうと思えるのでした。

「わたるくん、今日の夕日はどうだい?」

 夕暮れ色に染まった私にイチョウの木がそう尋ねてきます。長老が立つのは建物の陰。視界が良好ではなく、私の眩しそうな表情をいつもうらやましそうにするのです。

「少し雲の後ろに隠れて、何だか恥ずかしそうにしてるよ」

「そんな姿も見てみたいものだね。昔はわしが立っている場所からでも沈んでいくお日様を悠々拝めることができたんだがね」

 時代は移り変わります。いい時もあれば悪い時もある。そうやって時は流れていくのです。

 赤らむような表情をしていた太陽はやがて山の向こう側へと消えていなくなりました。


「カランカランカランカランカラン……」

 珍しく階段を駆け上がる足音が、春の日差しにうとうとしていた私を揺り起こしました。小学生の男の子でした。彼は階段を上がり切ると、柵の陰に身を隠すようにしながら反対側の階段の方へとやって来ますが、下りようとはせず、柵の上から時々顔を出しては、何かをうかがっているようです。

 やがて少年の考えていることが私にも分かりました。歩道の向こうの方から年格好の近い男の子が歩いてきます。学校帰りなのでしょう、ランドセルを背負っています。彼が近づいてきたところで、歩道橋の上の少年は柵から顔をのぞかせて、

「健一郎!」

と、大きな声で呼びかけ、すぐさま頭を引っ込めます。歩道を歩く少年は立ち止まって辺りをきょろきょろしますが、頭上にまでは注意が及びません。その姿を上からこっそりのぞき見る少年は、作戦がうまくいったことが愉快でたまらないといった様子です。健一郎と呼ばれた男の子は不可解な表情を浮かべながらも、思い過ごしだったのかとあきらめ、再び歩き出そうとするところに、いたずら好きの少年は追い打ちをかけます。

「健一郎!」

 今度は気のせいでないと確信した健一郎は熱心に辺りを見回し、やがて思い当たったように上の方に目をやりました。

「将太!」

 歩道橋から見下ろしていた少年は慌てて頭を引っ込めますが、見とがめられてしまいます。もちろん、彼とてとことん隠れたままでいるつもりではなかったのです。

「将太! そこにいるのは分かってるぞ!」

 いらずら坊主は見つけられても得意顔です。ひょいと頭を出し、

「ばれたか!」

と、うれしそうに降参します。

「そこで待ってな! ぼくも上がるよ!」

 健一郎は私の背中で合流しようと階段の手すりに手を掛けましたが、将太に呼び止められます。

「家からおやつ持ってきたんだ! この歩道橋の真ん中に置くから、競走で取り合いっこしよう!」

 将太は手に持った紙袋を顔の前に差し上げて健一郎に見せてやりました。そして、それを歩道橋の中央に置くと、健一郎が上がろうとしていた階段とは逆の階段を一番下まで駆け下りました。

 二人の間を車が行き交います。その音に搔き消されないように、将太は大きな声で「よーい、ドン!」と掛け声を上げました。二人は一斉に階段に足を掛けます。将太の方は子犬のように勢いよく駆け上がりますが、健一郎は途中でスピードがガクンと落ちてしまい、手すりを頼りに足を運びます。決着は明らかでした。

「健一郎、お前、足遅いなあ」

「将太が早すぎるんだよ」

 健一郎は両膝に両手をついて荒い息遣いでぜいぜい言っています。二人は座って休むことにしました。勝ち負けは将太の方に軍配ですが、二人は大の仲良し。お菓子を賭けた競走のことは水に流して、袋の中のクリームパンを半分こにしました。

 二人はいつも一緒に下校する親友ですが、いたずら好きな将太は健一郎を置き去りにして先に学校を出ると、家まで一目散。おやつを取って引き返すと、健一郎を驚かしてやろうと待ち伏せする魂胆だったのです。

「どこに行ってしまったのかと思ったよ」

 健一郎は将太の姿が見えなくなってしまったことを不可解に感じていたのですが、これで合点がいきました。

 二人はパンを食べ終わっても座り込んだまま帰ろうとしません。誰も来ないのをいいことにお喋りを続け、甲高い笑い声を上げます。しかし、決して楽しい話題ばかりではありません。将太と健一郎には共通点がありました。二人ともお父さんがおらず、お母さんが一生懸命働いていることでした。大人になったらお母さんに楽をさせてあげたい、これが二人の希望であり約束でもありました。 

 将太と健一郎は誰にも邪魔されないこの場所が気に入ったとみえ、「また来よう」と言いながら階段を下りていきました。

「仲睦まじい二人だったね」

 上から少年たちの様子を見ていたイチョウの木がしみじみと言いました。

「ぼくの背中に子供が集うなんて、久しぶりのことだよ。本当にまた来てくれるといいなあ」


 私たち歩道橋は利用者が減ってしまっただけではありません。町の景観を壊すということでやがて邪魔者扱いされるようになりました。メンテナンスにはお金がかかりますし、いざ地震が起これば倒壊してしまう可能性もあります。そのせいで、「撤去」という二文字があちこちから耳に入るようになりました。通りがかりの人々や私のところへ休息にやってくる小鳥たちが口々のその言葉を発するのです。どこそこの駅の前の歩道橋は撤去された……そんな具合です。

 私は自分にも同じ運命が待っているのではないかと覚悟を決めていました。誰の役にも立てない現状を考えると、明るい未来を思い描くことなど到底できません。

 あるときついに町役場の人たちが私のもとへやって来ました。とうとう……と思っただけで、驚きはありません。むしろ、役目は終えたという思いで心は満たされていました。

 ただ一つ気になるのが、あれっきり姿を見せない二人の少年のことでした。「また来よう」と言っていましたが、どうしたのでしょう。子供なんて気まぐれなもの。そんな約束などとうに忘れてしまったのかもしれません。

 町役場の人たちが帰っていくと、長老のいたたまれない気持ちがその沈黙から察せられました。

「おじいさん、いよいよ来てしまった、お別れのときが。悪い時もあったけど、いい時もたくさんあったよ」

 私の方がむしろ長老を励まさなくていけないありさまでした。

「長生きするというのはありがたいことだが、その分つらいことにもたくさん耐えなければならん。また一人友達をなくさなくてはいけないとは……」

「きっと、またいい友達に巡り会えるよ」

「友達の代わりになる友達なんて、この世に存在しないさ」

 私は黙り込みました。自分がいなくなることよりも長老に寂しい思いをさせる方がよっぽどつらく感じられました。代わりの利かない友達――将太と健一郎もお互いにとってそんな存在であればいい、私はそう願いました。

 二人が再び姿を現す前に自分は撤去されてしまうかもしれない……そんなことを考えていたある日、私は一緒にこちらへ近づく将太と健一郎の姿に気がつきました。ところが、二人は前と様子が違っていました。健一郎は車椅子に座り、それを将太が後ろから押していました。彼らがクリームパンを巡って競走した際、健一郎の方がやけに息を乱していたのが気になっていましたが、そういうことだったのです。

 二人はやがて私の階段のたもとまでやって来て、そこで立ち止まりました。健一郎は近くの病院に入院しているのでしょう、水色のパジャマ姿でした。彼が座る車椅子を押す将太は、学校が終わるや校門を飛び出してきたようで、ランドセルを背負ったままでした。

「あのときのクリームパン、おいしかったね」

 まだひと月ほど前のことなのに健一郎は懐かしそうに言いました。

「健一郎が元気になったら、また勝負しよう。次も負けないよ」 

 私はあのときの二人の足音が耳の奥でよみがえるようでした。

「うん、走れるようなったらね。自由に動けないってつらいことだね。この歩道橋は最初からずっと今のままじっとしているんだね。つらくないのかなあ」

 面白いことを言う子だな、と私は思いました。案の定、将太はそれをからかって、

「何をおかしなこと言ってるんだよ。じっと動かないのが歩道橋の仕事なんだ。動かれちゃ困るよ」

と、もっともな返事をしました。

「仕事かあ……。じゃあ、その仕事中にまた一緒に上がりたいね」

 こちらを見上げる健一郎の眼差しは、まるで私に憧れているかのようで、少々照れくさい思いを感じさせます。私は久しぶりに胸が熱くなりました。将太の方も「必ず」と言って、健一郎と固い約束を結びます。長らく誰からも見向きもされなかった私は、自分が撤去されてしまうことをいともたやすく受け入れていましたが、そのとき初めて将太と健一郎のためにこの場にもう少し居続けたいと思いました。

 しかし、数日後のお昼過ぎ、再び町役場の人たちがやって来ました。今度は単なる様子見ではなく、工事関係者と一緒。図面を見ながら私の足元で打ち合わせをします。専門的なやりとりもあり、会話の全てを理解することはできませんでしたが、明日から私を閉鎖し、歩行者の往来を中止するということだけは分かりました。何十年もの間ひとところに留まり、私なりの勤めを果たしてきたつもりですが、最後はあっという間に決まってしまうものです。

 町役場と工事関係の人々が話す内容をイチョウの長老も一緒なって聞いていました。長老は風もないのに葉をざわつかせます。彼なりのため息でした。

 私はもうじき最期を迎えることになります。様々な記憶があれこれとよみがえります。しかし、その端々で私はあの少年たちのことがやはり気にかかりました。もう会うことはないかもしれません。たとえ会えたとしても、そのときには私の階段は鉄柵で通行止めになっていることでしょう。今日のうちにやって来てくれないだろうか……私はそう願いました。しかし、学校の授業が終わる時間、そして、下校の時間を過ぎても二人が姿を現す気配はありません。刻一刻と太陽が西の空に傾いていきます。私は半ばあきらめかけていました。

 すると、夕暮れ時が迫ろうというときになって、あの二人の姿が目に留まりました。しかし、健一郎はまだ車椅子の上。それを将太が後ろから押します。二人に会うことはできましたが、私は、だめだ、と思いました。二人の約束、私の背中の上で二人だけの時間を過ごすという計画を私の都合で果たして上げられないことは明らかでした。

 健一郎と将太は私の足元までやって来ると、前の同じようなことをお互いに語り合いました。二人には私を待ち構えている運命のことなど知る由もありません。「元気になったらまた上がろうね」――と空しくなってしまった約束を新たにするだけで、二人はそのまま散歩を続けようとしました。

 ところが、そのときです。やはり風もないのにイチョウの木が若い葉をこすり合わせて、ざわざわと揺れ始めました。その音があんまり大きかったものだから、将太は健一郎の車椅子を押すのをやめ耳を澄ませます。もちろん、彼らに長老の言葉が分かるはずがありません。しかし、急に将太が言い出しました。

「おんぶしてあげるから、歩道橋に上がってみよう」

 それには健一郎も感激です。将太は健一郎を背負って、階段を一段一段ゆっくり上がっていきます。私は途中で転んでしまうのでないかとひやひやしながら見守りましたが、二人は立派にやり遂げました。健一郎はまだ病気の身ですが、二人はかつて交わした約束をきちんと果たしたのです。

 ちょうど太陽が山の稜線に鼻先をつけようとしているところで、その赤く火照った表情に応えるように、空はオレンジ色のようなピンク色のような、そんな複雑な色に染まっていました。

「きれいな夕日だね」

 負われている健一郎がそう言えば、背負う将太も友達の体の重みを忘れたかのように、

「ぼくたちだけの景色だね」

と言いました。まるで二人が私に話しかけてくれているかのようでした。

 健一郎が元気になる頃、そして、それを将太が飛び上がって喜ぶ頃、私はもうここにはいません。二人の少年が大人になって思い出すのは私のことではなく、遠くに見えた美しい夕日の色かもしれせん。それでも構わない、ここに立っていた甲斐があった――私は胸の奥底からそう思うことができました。

 二人が帰った後、私はイチョウの長老にしみじみとお礼をいいました。

「おや、わたるくん、泣いているのかい? そんなにしんみりするなよ」

「泣いてなんかいないよ。ぼくには涙なんてないんだから」

「二人がわたるくんに上ってくれて、わしもうれしかったよ」

「いい時もあれば悪い時もある。そして、今日は本当にいい日だったよ」

 山の向こうに姿を消した太陽の光を受けてほんのり輝く雲の切れ端を見ながら、私はかすかに笑っていました。

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