第9話 ゲーム開始 3

 この時アタシは、いったいどんな表情をしていたのだろう。鏡が無いから分からないけど、それはそれはもの凄い形相をしていたのではないかと思われる。

 その証拠に声を上げて駆けだしたアタシを見た人達は、ビックリした様子でみんな距離をとっていく。まるでモーゼのように人が割れ、アタシの前に道が出来ていく。

 意図したわけでは無かったけれど、これは嬉しい誤算。おかげで最短ルートで琴音ちゃんの下へと向かえる。


 丁度その時、大きく暴れたホースの水が宙を舞った。これだ、これこそ待ち望んでいた瞬間だ!

 さて、ここであな恋において、琴音ちゃんはいかにして旭様や壮一と運命的な出会いを果たしたのかを語っておこう。化学部のパフォーマンス中に暴れるホース。すると運悪く噴き出した水が、琴音ちゃんを襲うのだ。だけど。


(そこをアタシが助ける!)


 このままではずぶ濡れになる。そう思った瞬間、偶然近くにいた人がとっさに琴音ちゃんを抱きしめ、身を挺して守ってくれると言うのが、あな恋であった展開。そしてその人こそが、我が思考の王子キャラ、旭様なのである。

 初回プレイでこのシーンを見た時は水を滴らせながら『大丈夫?』と問いかける旭様を見た途端、アタシの心は射抜かれた。

 自分の方がはるかに濡れて大変な状態であるにもかかわらず、ほんのわずかに水が飛んだだけの琴音ちゃんを見て『ごめん、少し濡れちゃったね』と言った時の興奮たるや、何回部屋の中をゴロゴロと転がりまわったか分からない。

 さらにそれが、この直後にある壮一との出会いにも繋がっていく。


(それを、その素晴らしいシーンを、今こそ再現させるんだ―――!)


 ゲームと同じように、ホースから噴出された水は琴音ちゃんへと向かって行く。しかし当の本人はいきなりの出来事に驚くばかりで動けない。

 だけどここで突っ走ってきたアタシは噴射される水から琴音ちゃんを守るため、意気揚々とその体を抱きしめた。


「危ない!」

「きゃあ⁉」


 琴音ちゃんの短い悲鳴が耳に入る。ああ、なんて可愛らしい声。

 だけど感動に浸る間も無く、背中に冷たい感覚が広がっていった。体を張って琴音ちゃんを庇ったのだから、代わりにアタシが濡れるのは当然だ。だけどそんな事はどうでもよかった。それよりも琴音ちゃんを抱きしめている事の方がずっと重要だった。

 抱きしめた琴音ちゃんの体は想像していたよりもずっと細くて柔らかだった。髪の毛が頬をくすぐり、何だかいい匂いがする。


「グフフフフ」


 おっといけない。今のアタシは旭様。たとえどんなに嬉しくても、こんな不気味な笑い声を発しちゃいけない。

 ゲームではこの後琴音ちゃんは旭様に庇ってくれたことを申し訳なく思うのだけどとんでもない。むしろ合法的に抱きしめる事が出来てありがとうございますと言いたかった。


 少しの間そうしていると、ホースを押さえたのか、それとも大元の水道を止めたのか、ようやくかかってきていた水の冷たい感触が無くなっていく。できればこのままもう少し琴音ちゃんを抱きしめてその感触を堪能したいところだけど、そこをグッと堪えてその体を引き離す。

 あとはゲームと同じように、大丈夫と気遣うセリフを言うだけだ。ところが……


「だいじょう……ぶ……?」


 改めて琴音ちゃんを見たアタシは言葉に詰まった。どう見たって彼女は大丈夫な状態じゃなかったからだ。

 ゲームでは旭様に助けてもらった琴音ちゃんは、ほんの少し制服を濡らしただけだった。しかし今目の前にいる琴音ちゃんは頭から胸元にかけてガッツリ水がかかってしまっていたのである。これってやっぱり、アタシが上手く庇えなかったってこと?


(失敗した?そんな、旭様はちゃんと守ってあげられたのに)


 これがアタシと旭様との差という事か。上手く助けられたと思っていたのに、自分のポンコツ具合を怨めしく思いながら、ガックリと肩を落とす。

 本当ならこの後「ごめん、少し濡れちゃったね」とセリフを続けるのだけど、とてもそんな事を言える状態じゃなかった。だってどう見たって少しどころじゃないもの。


「ごっ……ごめん!」


 慌てて謝まったけど、それは琴音ちゃんも同じだった。琴音ちゃんは自分を庇ってずぶ濡れになったアタシの姿を見るなり、オロオロしながら謝ってくる。


「こっちこそごめんなさい!私のせいでアナタまで」


 あ、これは細部こそ違うけど、ゲームとほぼ同じセリフだ。こんな状況だというのに一々反応してしまう。だけど庇うのに失敗したせいで、状況は大きく違ってしまっている。

 二人とも水に濡れたまま互いに御免なさいと頭を下げあうという、何とも居たたまれない光景となってしまった。

 するとそこに、慌てた顔の壮一が駆け寄ってきた。


「なにやってるんだ⁉」


 そう言って壮一は着ていたブレザーのボタンを外していく。

 そうだ、まだこれから壮一と琴音ちゃんの出会いが、そして見せ場が残っていたんだった。沈んでいた心に、一筋の光が差してきた。

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