第十五章・病院内の一夜

 僕が座ったままうつ伏せになってどのくらいの時間が経っただろうか、突然部屋の中にけたたましい機械音が鳴り響いた。ピーという発信音が部屋の入り口の方から聞こえてきたので、僕は驚いて顔をあげて周囲を見渡した。兄さんの機械からは安定した音しか聞こえてきていなかった。立ち上がりカーテンを開けて入り口の方を見ると、入り口から数人の老若男女が現れて、入り口脇のベットへと走り寄った。そしていくつもの悲痛な声が聞こえてきた。

「おじいちゃん、目を開けて」

「まだそっちへ行っちゃだめだよ」

「じいじ一緒に遊ぼう」

「また旅行行くんでしょ、負けちゃだめだよ」

「親父目を開けろよ」

「死んじゃやだよぉ」

「お願い戻ってきて」

 いくつもの声が聞こえる中、医者と思われる男性もベットの方に向かい何かごそごそとやっていた。何か鈍い音が聞こえたので、心臓マッサージか何か蘇生術を施しているのだと思われる。僕だけでなく、兄さんが寝ている場所の向かい側のベットのそばに座っていた、年輩の女性も不安げに騒動を見ていた。


 僕は周囲の空気が変わったのを感じ取っていた。それはどんなものなのか言葉にできないが、確かに不思議な何かを感じ取っていた。いい知れぬ不安を感じ取っていたのかもしれない。

 いくつもの涙声と慌ただしい空気がしばらく漂っていたが、すぐに機械音が収まり、いつもの規則正しい音が鳴り出した。どうやらおじいさんの体調が回復したのだろう、安堵のため息が聞こえてきた。しかし、医者と思われる男性の神妙な声が聞こえた気がした。すると、医者を先頭にして、入ってきた老若男女全員が部屋の外へと出て行った。


  僕はほっとため息を吐いてからカーテンを閉めてまた椅子に座った。心臓の鼓動が早くなっていた。呼吸が速くなっていた。知らず知らず呼吸するのも忘れていたかのように、息苦しさを感じていた。気持ちを落ち着かせるために深呼吸をしていたら、カーテンが開いて母さんが入ってきた。先ほどの機械音が聞こえて心配していたらしい。

「和也、そろそろ帰った方がいいわ。後のことは私にまかせて」

 僕は、母さんに言われて考えた。本当は雄子のこともあるし、家に戻るべきだった。しかし、兄さんのそばから離れたくない気持ちの方が大きかった。離れている間に何かあったら怖いと思った。だから、珍しくわがままを言うことにした。

「母さん、できたらこのままここにいたいんだ」

 僕がそう言うと、恵美子は首をひねって悩んでいたが、

「そうね、ちょっと頼んでみるけど、だめだったらちゃんと帰るのよ」

 と言った。

「うん、わかってる。ごめん母さん」

 僕のその言葉を聞いてから再び母さんは出て行った。


 母さんが出て行ってすぐに、またも機械の電子音が聞こえてきた。再び入り口付近が騒がしくなった。僕はまたカーテンを少し開けて入り口を見た。部屋の扉の向こう側、廊下に何人かの人に交じって母さんの姿も見えた。再び励ましの声が聞こえるかと思っていたが、今度は誰の声も聞こえず、ただ老婆と思われる人物の声が聞こえてきた。

「おじいさん、ずっと長い間頑張ってきたものね。もうゆっくりさせてあげた方がいいのでしょうね。ごめんね、ごめんね、ずっとずっと苦しかったでしょ、痛かったでしょ。もうゆっくり眠ってちょうだい」

「本当に、よろしいのですね」

「はい。おじいさんを楽にしてあげてください」

「わかりました」

 老婆と医者の言葉は非常に小さくて、よくは聞き取れていなかったが、大体のことはわかった。医者と思われる人の「わかりました」と言う言葉と同時に機械の音が完全に消えて、何かゴソゴソとした音が聞こえた。そして、現在の日時を告げて、医者が「ご臨終です」とつぶやいた。なんだか、力なくつぶやいたように聞こえた。あちこちから涙声が聞こえてきた。数人思わず部屋から出て行った。おそらくさっきの騒動の後に医者から何かしら打ち明けられて、覚悟しないといけない選択肢があったのだろうと思った。


 老婆の声が再び聞こえてきた。

「おじいさん、しばらくそっちで待っててくださいね。すぐ私も向かいますから」

 その老婆の言葉を皮切りに、残っていた人たちからも鼻水をすする音が聞こえてきた。ただ、小さな子供と思われる声だけが、不思議そうに大人たちに話しかけていたのが、どこか痛々しかった。僕は思わずカーテンを閉め椅子に座って、兄さんの顔をじっと見つめていた。

 兄さんがもし死んだら自分はどうするだろうかと、自問自答した。それどころか、生命維持装置を外すか外さないかの判断をしなければならなくなったら、自分はどうするだろうか。逆に自分の生き死にを、兄さんや家族にさせるとしたら、どんな気持ちになるだろうか、そんなことを考えていた。


 母さんの交渉術が良かったのか、僕は病院に泊まることができた。母さんと交代で兄さんの元にいることになった。仮眠はナースステーションの仮眠室を借りられた。仮眠室も含めて異例中の異例だった。母さんは笑顔で運が良かったと言っていたが、母さんが地元の病院で看護婦婦長しているのと関係あるんじゃないかと思った。

――なんにせよ兄さんのそばにいられて良かった。

 母さんと一緒に来ていた花子さんの存在を忘れていたが、一応花子さんも残ることになった。大樹家の他の兄弟には、まだ兄さんの出生のことは話してないため、便座上残らないといけなかったが、それとは別に花子さんも兄さんの容態が心配だったようだ。それもまた異例中の異例で許可がおりたので、ますます僕は怪しんでいたが、深く追求しないでおくことにした。あまり追求すると帰らされそうだったからだった。

 大樹太郎さんは家に戻ることになった。雄子は礼子ちゃんが心配だからと適当に理由をつけて、大樹家に泊めてもらうことにしたらしい。僕は正直ほっとした。おそらく母さんもそうだったろう。あの日、雄子自身が、自分が誰とも血がつながっていないと知ったあの日からちょっとの間、雄子がボーッとしていたことがあった。台所で火を扱っていたときにもフライパンを焦がすこともあったので、一時期心配していた。最近は落ち着いたようだったが、家に一人にさせて大丈夫か少し心配であった。しかし、大樹家に泊まりに行くのなら大丈夫だろうと思った。母さんが雄子に念押しして何度も聞いたので、泊まりに行くのは間違いなさそうだった。


 夜二十時になり消灯の時間となり、部屋の天井の電気が消された。僕は椅子に腰掛け、壁際の棚を背もたれのようにして、営業中に一階で買ってきた文庫本を読みだした。すると、隣のベットからとても大きな声が聞こえてきた。

「おかあさーん、おかあさーん」

 おじいさんの声だった。ここには少し前に年配の女性が来ていた。夕方ぐらいから、今日は具合どうとか、昨日は眠れたかとか聞いている声が聞こえてきていた。おじいさんは「ああ」とか「うん」ぐらいしか言っていなかったが、なぜか年配の女性と話が通じているような感じだった。


 ついさっき年配女性は、用事があると言って出て行ったはずだった。すると、入り口から場違いな高い声の、女性の声が聞こえてきた。

「おじいちゃーん、眠れないの、眠れないの」

 足音が近づいてきて隣のベットに向かっていくのが、彼女の持つライトの明かりでわかった。スリッパのペタペタという音が早かった。おじいさんの声が再び聞こえてきた。

「お母さんはどこですかー、お母さんは」

「奥さん?ああ、お母さんは今ちょっと用事でいないの。ちょっと待っててねぇ」

 なんだか看護婦とは思えない、むしろ幼い感じの話し方で、その女性はおじいさんに話しかけているようだった。

「ああ、看護婦さん、ずっと歩いていたんだけど、ここはいいところですねぇ」

――?

 おじいさんの突然のその言葉に、意味がわからず首をかしげていた。するとカーテンがゆっくりと開いて、向かい側にいた女性が話しかけてきた。この女性はそろそろ帰ろうとしていたところだったらしい。

「お隣のおじいさん、ずっと眠ることができないらしいんだけど、自分はずっと歩き続けているつもりでいるらしいの。すぐに正気に戻るんだけどね。ちょっと騒がしくなるけど、悪い人ではないから心配しないで」

 そう小さくつぶやくと立ち去っていった。

――緊急病棟だってのは知ってたけど、なんちゅう部屋だ。

 僕はそう思いながら本を読むことにした。また看護婦の女性と思われる、やたらとキーの高い女性の声が響いた。

「今眠れる薬持ってきてあげるからね、待っててねー」

 そういう声が聞こえると、パタパタというスリッパの音が部屋の外へと消えていった。すると、おじいさんが今度は何やら歌を歌っているかのように吠えだした。

「人生ー、じんせぇいぃーーー」

 よくわからない歌が聞こえてきてすぐに、おじいさんの元に年配の女性が戻ってきたらしく、歌をやめさせた。

「お父さん、お歌はそれぐらいにしてフルーツでも食べませんか。さっき切ってきたんですよ」

「そうだね、食べようか」

 夕方ぐらいと違って、元気に返事をするおじいさんだった。向こう側でシャリシャリと何かを食べてる音が聞こえてきた。僕はようやく落ち着いて本が読めると思い、本を読み出した。


 どのくらい時間が過ぎただろう、先ほどまでたわいない会話をしていた隣の年輩二人から、驚きの会話が始まった。きっかけはおじいさんの一言からだった。

「なぁ、ここを出て行こうと思うんだ」

「ここを?散歩でしたら明日のお昼にでも行きましょう」

「そうじゃなくて、ここを出てどこか遠くへ行くんだ。誰も知らないところへ」

「あら、勝手に出て行けないですよ」

「だからこっそり出て行くんだ」

「そう、それはいいかもしれないですね」

――えっ!?

 僕は思わず本を落としそうになった。

「富士山とかいろいろ行こうと思うんだ」

「あら、富士山いいですね。私も楽しみですわ」

「あんたは出て行くまででいい。これ以上私につきあわなくていい」

――あれ、あの二人夫婦じゃないのか、それとも夫婦であることもわからなくなっているのか。

「あんたにはいつも世話になっている。こんな私なんかのために」

「そんなことないですよ」

「いいや、私は罪深き者だから」

――ええっ!?

 今度は椅子から滑り落ちそうになった。

「私は多くの罪を犯した。そんな私にあんたがいつまでも付き合うことはない」

「人生いろいろってやつですね」

「そう、人生山あり谷ありというのは本当のことだよ」

「フルーツでも食べて聞かせてくださいな」

 女性の言葉の後、またシャリシャリという音とともに、またたわいない会話が始まった。 過去の話が少し続いていたが、その後は何の関係もない話になっていた。

――あれ、あのおばさん、おじいさんをうまくリードして、別の話題にすり替えたんじゃ?

 その推察が正しいかどうか確かめる気はなかった。そもそもその直後に母さんがやってきたので、確かめようがなかった。

 母さんと交代して部屋を出ようとしたとき、問題のベットの方を見ると、小さくカーテンが開かれていて、中からお金持ちそうな年配の女性が顔を出して、口の前に人差し指をたてて不器用にウインクしてきた。

 僕はその仕草がなんともかわいかったので、思わず笑いそうになるのを我慢して、会釈だけして部屋を出て行った。

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