第十四章・鳴動

 僕たちがいた猪谷付近には大きな病院がなかったため、一番近い宝塚の病院に兄さんは緊急搬送されることとなった。

 兄さんの傷はそれほど深くはなかったものの、出血量が多く、しかも搬送完了するまでに一時間もかかったために、容態は危険な状態であった。


 救急車に乗り込んですぐに、僕たちの住んでる町の主治医に連絡してもらって、保管しておいた兄さんと同じ血液型の輸血用の血を持って、搬送先に来てもらうように頼んでおいたことが幸いして、搬送されてすぐに輸血用の血が届いたことで、輸血が足りない状態にはならなかった。輸血用の血は主治医である山仲やまなか医師が自分の車に積んで走ってきた。かなり飛ばしていたようで、危うく警察に捕まりそうになっていたらしいが、事情を話したら協力してもらえたらしい。このとき、大樹夫婦と母さんも乗ってきていた。妹たちは地元に戻る山仲医師とともに帰っていったが、僕は残った。

「和也君大丈夫、本当に戻らなくていいの」

 花子さんにそう言われて僕は無言で頷いて、病室のベットの上で寝ている兄さんの姿を見つめていた。


 兄さんは今、いくつかのキューブを体のあちこちに指されたまま、ベットの上で寝ていた。寝息は小さく、ともすれば途絶えてるのではないかと錯覚するほどだった。兄さんの傷は確かに浅かったし、輸血もなんとか間にあっていたのだが、兄さんは今、点滴以外にも心電図のような機械からつながったキューブやら、頭に何かのひもがついていて別の機械につながっていたりと、なんだかよくわからない状態にされていた。医者の話では急激な血液の減少とか血液中の酸素の減少などで、脳に障害を受けた可能性があるとかなんとか、よくわからない説明をしていた。よくわからないと言うよりは、僕自身無意識にわかりたくなかったんだと思った。

 こんな状態になってる原因は他にもあって、血液検査で異常な数値が見つかったのも原因だった。ついこないだまで不良たちと一緒に酒を飲んだりたばこを吸っていたりしてたのが原因なのだろうが、誰一人、気を遣ってくれたのか、医者さえも原因を知ろうとはしなかった。

 大樹夫婦と母さんの三人は医者に呼ばれて病室を出て行った。この病室は六人部屋で、兄さんは一番奥の窓際のベッドに寝かされていた。黄色いカーテンで仕切られていて、小さな棚と小さなテレビがあり、椅子が一脚あるだけの簡単な状態だった。僕は、その一脚だけの椅子に座ったまま、兄さんの寝顔を見つめていた。


 兄さんが血を流して倒れたあのとき、僕の頭の中は真っ白になって、なんと叫んだのかはわからないが、何かを叫んでいた。雄子が帰るときに雄子にそっと聞いてみたら、大丈夫だよと言っていた。何が大丈夫なのかわからなかったが、僕はそれ以上追求できなかった。多分礼子ちゃんに自分たちが兄弟だと気づかれていない、という意味なのだろうと思った。


 今椅子に座って兄さんを見つめてみて、僕は兄さんを誰よりも大事に思っていたことに、今更気づいた。

 僕は昔とても暗い子供だった。母一人子一人の環境で、祖母によく面倒を見てもらっていたが、自分の母には嫌われているのではないかと思っていた。母親の仕事柄朝いつも早く出勤しているため、僕が目を覚ましたときにはいつも母がいなかった。二階建ての家が、とてつもなく広い檻のように思えて、一人泣いていたときもあった。小学生に上がるか上がらないかした頃に、急に現れた妹の雄子によって、少しは変わるかと思ったが、全く変わらなかった。それどころかむしろ、唯一甘えられた母親の休日に、母が赤子の雄子にばかりかまったことで、僕の寂しさはさらに高まっていた。そのこともあって以前からの趣味であり、寂しさからの現実逃避からしていた読書にますますのめり込んでいっていた。


 僕にとっての友人は本の中の登場人物たちだけだった。本の中の登場人物は、いつも自分がしてもらいたいことを周りにしていた。それが僕にはとても誇らしく思え尊敬すらしていた。周りの現実の同級生たちにはないものが、その本の中の登場人物にはあった。いつもわがままを言ったり親に甘えてばかりいる周りの同級生たちとは違って、本の登場人物たちは自分の意思をしっかり持っていて、責任感のある人たちだった。そのため僕は現実の人間には目もくれず、ひたすら自分の世界に入っていった。その過程で、勉強の面白さに目覚めて、勉強ばかりするようになっていた。勉強は自分を裏切らない、それが僕の座右の銘となるほどに勉強に集中していた。そんな僕を変えたのが、兄さんだった。


 小学二年生になるかならないかのある日、すでに知り合ってはいたが、兄さんをずっと無視していた僕の心の中に土足で入り込んだ、まさにそんな感じで兄さんが僕を変えた。以前兄さんに当時のことを聞いた。すると、変えるつもりはなかったが、なんだかほっとけなかったのだという。まさに、今回の怪我の原因となった風太雷太兄弟に対して想った感情そのままだった。僕は、兄さんのそんな想いに応えた。なるべく努力していた。思えば、兄さんがいなければ変わろうともしなかっただろうし、母親がどんな想いで自分たちを産み、自分と雄子を育てようとしていたのか考えなかっただろう。何よりまるで本の登場人物が出てきたかのように、兄さんは僕にとって尊敬に値する人間だった。自分にはないものを兄さんは持っていた。


 兄さんに出会って僕は変わった。変わったように見られていた。しかし、中身はほとんど変わっていなかった。本という存在から、兄さんに変わっただけで、本質的には同じだった。兄さんの影響で友人ができていっていたが、それらは表向きのものばかりだった。本気で友達を作ろうとは思っていなかった。僕にとっての友達は兄さんだけだと思っていた。少し前に兄さんと仲直りするきっかけを作った卓真君に対しても、実際のところ強く思っていたわけではなかった。ただ、その後ある出来事がきっかけで、卓真君のことも本当に友達と思えるようになっていたし、他にも友達といえる人間はできた。ただそれは特別であった。僕にとっての一番の友達は兄さんなんだと、今回の一件で再認識していた。


 僕が兄さんのことを考えていると、突然仕切られていたカーテンが開けられた。その開けられた方を見ると、見慣れないようなどこかで見たことがあるような青年が、泣きそうな顔で立っていた。その後ろに見慣れない男性とともに、母さんも立っていた。男性がおずおず話しかけてきた。

「このたびは、うちの息子が本当に迷惑をかけて、すいませんでした」

 僕は青年の顔を思い出した。

「雷太」

 自分でもびっくりするほど小さくか細い声で、その一言だけが絞り出せた。

「あっ、それ兄の方です。僕は風太と言います。兄は母と口論になって、母を包丁で刺してそのまま家を飛び出して、そのときにあんなことに」

 風太という青年は震える声で、必死で説明していた。目に涙がたまっていた。僕はそんな姿を見るのが嫌で、視線を外して、今も眠り続けている兄さんを見つめた。

「雷太はその後地元の警察に捕まって、今警察にいます」

 風太と名乗った青年は、そう小さくつぶやいた。それでも僕は振り返らなかった。

「和也」

 母さんの言葉を最後まで聞かずに、僕はつぶやいた。

「それで、何?」

「何って、その、謝罪を」

 僕は風太の言葉を遮って、振り返りざまに叫んだ。

「そんな言葉を言ってなんになるのさ。兄さんは危うく死にかけたんだ。医者が言うにはこのまま起きるかどうか五分五分だって言っていた。あんたたちが謝ったって、兄さんが起きるとは限らないんだ。兄さんは雷太って奴と仲良くしたいって言っていたんだ。あんたのことも友人だと言っていた。それなのに、それなのに、」

 僕は胸が締めつけられるように苦しくなってうつむいて、今にも泣き出しそうなのをこらえてうなった。

「本当に悪いと思ってるんなら本人連れてきたらいいだろ。そして、謝ったんならとっとと出て行けばいいんだ。どうせ謝られても許すわけないんだから、そんなとこにいたって邪魔なだけだ」

 そう言って僕は風太をにらみつけた。母さんが何かを言おうとしたのを父親と思われる男性が止めて、二人はその場を立ち去っていった。二人共最後に深々とお辞儀をしてから、もう一度兄さんを見て立ち去った。


「和也……」

 母さんはなんともいえない悲しそうな表情をして、何かを言おうとしてやめた。カーテンを閉めて母さんも部屋を出て行った。僕は椅子に座り直し、兄さんの体の上に顔をうずめて静かに泣いた。

 僕は、時間が経つにつれて自分がとんでもないことを言ってしまったことに気づいて、自分の行動と発言に驚いていた。そして複雑な気持ちになり、今はただ兄さんがまた起きるのを、ひたすらに待ち続けていた。

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