思い出

彼は誰

第1話

 - 思い出 -



 今日は変な日だった。


 雨の日でもないのに駐輪場の自転車がいつもより少なかった。始業時間の10分前にクラスメイトのほとんどが教室に来ていた。しかし1番変だったのは、学校の最上階に、屋上に繋がる階段が突如現れたことだった。

 この学校には屋上に行くための階段も扉もなかった。それが突然、何の前触れも無く、元からその場所にあったかのように現れた。いや、現れている……今目の前に。放課後、提出物を出しに西館へ行った、その帰りだった。夕方の光に照らされて、空中で埃がキラキラ漂っていた。影が違和感無く伸びていて、下の階段へ落ちているものもあった。元から階段が存在していたのだと自分を納得させる方がきっと早かった。本当に、それほど自然にそこへ佇んでいたのだった。

 その階段が本当かどうか確かめようか迷って、しばらく立ち止まっていた。確かめるのが怖かった。まるで夢の中で、それが悪夢の様相を現し始める直前に感じる怖さのような気がして更に怖くなった。それに、屋上への階段に特有の、それだけで完成している世界が結界で守られているような空気感が確かにあって、足が動かなかったのだ。それでも、どんどん高鳴る心臓の音が妙に現実的だったから、怖さよりも興味が勝っていった。ゆっくりと近づいた。近くで見てみると、階段は綺麗な乳白色で塵が均等に薄くあって、掃除の担当者もいないけれど誰もそこを通らない、まさに「屋上への階段」といった様子だった。恐る恐る手摺へ触れてみた。冷たくて堅かった。他の階段の手摺と何ら違いはなかった。危ない秘密を遂行しているような感じがした。周りを確認した後、1歩昇ってみた。この1歩ほどスリリングなことはここ最近無かった。何も起こらなかった。階段が足の裏を確かに支えていた。これは夢ではない。いや、夢でないとおかしいのか? 何だか悪いことをしている気がしきりにして、気持ちが急いた。その後はただ惹かれるまま1段ずつ昇っていった。学校の中で1番夕日の光が強く注ぐ階段だったから、温度さえ感じた。

 踊り場を経て、遂に昇り切った。そこには扉があった。ありがちな普通のスチール製の扉だった。銀色のドアノブはこの学校の中で最も冷たいものだという気がした。不安になるほど静かだった。どうしようも無く鼓動が速くなった。


 屋上というものを、見たことがなかった。建物の屋上。それも、学校の。学校の屋上だからやはり柵はあるのだろうか。床は何色だろうか。下から屋上を見上げた時にはあった、給水塔のようなものの場所はこの辺だっただろうか。目の前にあるはずの景色は、その扉を開けるまでは未完成なのだと、何故か強く思った。

 現実に屋上を目にする時がもうすぐ来る。待ち望んでいたことが「今この瞬間」として感覚器官を満たす時が。立ち止まって想像する。そして、そういった経験、日々の経験が、過去のことになる時ももうすぐ来る。いずれ、遠い遠い過去のことになって、酷く懐かしいのだけれど思い出そうにも思い出せない、そんな時も必ず来る。自分が死んで、その記憶が無になる時も必ず、来る。その扉の目の前で、時が止まったように進んでいた。忘れたくない。この日を、この瞬間を、この感情を。絶対に忘れないのだと、ずっと誰かに言って欲しかった。けれども、どうしても自分の記憶に頼ることは出来なかった。だから、網膜に焼き付けよう。何度でも思い出そう。何度でも思い出そうとして、残酷にも遠くなっていく記憶を、その度にどうしようも無く希求するのだ。その過去への希求が、きっと今という時間への希求にもなるのだろう。


 そのドアノブに、手をかけた。

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