select.5 日本人留学生と買い物帰り
等間隔に設置された街灯により、月明かりのないロンドンは一定の明るさを保っていた。人はまばらで、流石に出店の方は見当たらない。民家や店を構える建物からは明かりが漏れている。
そんな薄暗いロンドン市内を歩く大和撫子が一人――咲崎如姫は買い物の帰りだった。買い物かごの中には野菜や果物、魚などの食材が入っていた。
現在アイによってコーディネートされた黒のゴシック服を身につけている。
(まさか最先端の先進国である英国のご飯があんなに美味しくないだなんて……)
如姫は少々嘆いていた。料理の好きな彼女は、先進国の料理というものはどれほど美味しいものなのだろうか、と胸に期待を膨らませていた。しかし蓋を開けてみれば非常に不味い――控え目に言って日本人の口には合わない、そういった印象だった。
味見なんてしていないのではないのか、それとも英国人全体の舌が狂っているのか、と様々な憶測を立ててみたが、結局のところそういう文化、と納得した。産業革命にて男どころか女まで駆り出されたほどの歴史背景を持つイギリスにおいて、料理というものは手早く作れ、食せるものが好まれたのだろう。
産業の発展の裏で料理が発展することはなく、むしろ衰退している。
食事は文化であり、現在のイギリス全土に活気が少し足りないと感じるのは、おそらくそこにあるのでは、と如姫は考える。
そもそも先にイギリスの文化を学び、予備知識を講師してくれた先達者に食事のことを聞いたとき、苦笑していたことを如姫は思い出した。つまりはそういうことだったのかと今では納得している。
「しかし、上流階級の方々が食べているものはまだまし、でしたね」
貴族様の食べ物でも『まだまし』と表せてしまうほどに食文化については落ちぶれている。
そのままではダメだと、このままでは自分の舌が枯れ果ててしまうと、如姫は考え、イギリス国内に売られている材料のみでどうにか美味しいものを作れないものかと、頭の中でレシピを作成しては捨て、作成しては捨てを繰り返していた。
頭の中がレシピのことでいっぱいになっている如姫だったが、ほんの微かな違和感を抱く。後ろからつけられているかの用な感覚だった。
人が都合よくいない街中を、同じ方向へ歩いているというには少々偶然が過ぎる。それに、非常に興奮しているかのような視線も感じ、まるで犬でも相手しているかのような感覚である。
如姫は後ろを歩くのは尾行者と判断し、少々広い路地裏へと入り込む。そして少し進んだところで振り返る。
如姫が目を向けるとそこには、中性的な顔立ちの女性がいた。
「何用か。と、問うところだが。貴様はこの前路地裏にいた黒づくめの一人か」
「……へぇ。私を覚えてたんだ。なら話が早い。あの時路地裏にいた少女はどこにいる?」
相手の質問の意図を考えてみるが、出てくるものは『黒づくめ元々は路地裏の少女を拐うつもりだった』という回答だった。
「所在を聞いているのなら知らない、と答えよう。あの日から一度も会ってはいないし、見かけてもいない」
「それはおかしいだろう。あなたはとても正義感の強い人間と判断しています。そんな人間がか弱い少女を置き去りにするとは思えませんが。どこかでかくまっているのではありませんか?」
「できるならばそうしたかったのだが、生憎蒸気のように消えてしまった」
言いつつ、如姫は路地の壁に買い物かごを置き、再び黒づくめを見る。
黒づくめの女性は少々イラついているようだった。
(おかしい、尻尾を出す気配がない)
レティシアは少々苛立っていた。路地裏で遭遇したアジア人の少女(服装はまるっきり違うが)を見つけて、尾行し、路地裏で二人きりになるまでは良かった。だが、肝心の路地裏の少女の情報が出てこない。
拷問――その言葉が頭の表層に浮かんでくる。
拷問という選択は最終手段である。なにせ一歩間違えれば死体が一つでき上がるのが問題だ。
しかしなぜか右手は懐のナイフの柄に手をかけている。ナイフの柄に手をかけた瞬間、衝動が駆け巡る――面倒だから、拐おう。
ナイフを抜き、身を屈め、如姫へと仕掛ける。
如姫が腰に差した刀の柄に手を伸ばしたところまで捉え、ナイフを左から右へ振り抜く。狙いは脇腹――軽い傷を負わせて戦意を喪失させる作戦だった。
「遅い!」
つい、らしくなく叫んでしまう。興奮が熱に変わり、体中に駆け巡る。
だが、手応えがなかった。
血の匂いがしない――そう思い、目線だけナイフの切っ先に向けるが、刃が根元からなかった。
(いつ抜いたんだ!?)
目線を戻し、如姫の手元を見た瞬間に出た心の声だった。如姫の右手には鞘から抜かれた脇差が握られていた。
その一拍の隙――レティシアの右肩に激痛が走る。右腕が伸び、まるで動かせそうにない。関節を外されたようだった。
そして足を払われ、膝が地面につき、首筋には冷たい刃が触れる。
「他愛なし――
背後からそう声がした。
苦痛に歪む表情でレティシアは前を見ていた。ふとレティシアの目にキラリと光るものが入ってくる。
それはレティシアの使っているナイフの刃だった。ちょうど切っ先が奥を向き、根元の部分がレティシアの目にとまったのだが、それは異常なものだった。
断面が宝石を研磨した後のようにツルツルしたものになっていた。
折れたわけでも、柄から抜けたわけでもない。それは紛れもなく、斬られた
他愛ない。それが如姫の感想だった。戦闘らしい戦闘にもならず、相手をただ制圧するだけの簡単な動作をした――そんな軽い思いしか抱いていない。
「なぜ襲う。わたしから見れば、貴様は冷静で、とても簡単に人を襲うような雰囲気はなかったが。むしろ相方の方が戦闘狂の目をしていたぞ」
ナイフの刃を切断し、掌底で肩の関節を外して無力化はさせたが、まだ攻撃する意欲を持っているかもしれない。しかし、膝を地面に付かせたあとは興奮も覚め気味になっているようには見える。
「さて、貴様も相手をして欲しいのか?」
今の如姫はレティシアの後ろに回り込み、脇差の刃を首筋に当てている状態だった。
そして本日二度目の振り返りをする。レティシアが襲ってきてナイフを切断した辺りから感じていた視線――その正体を目撃する。
それはもう一人の黒づくめ、そして金髪の女性だった。
「……やり合いたいのは山々だが、謝罪が先のようだな。相方が粗相をした。すまなかった」
「いや、気にする必要はない。それにこちらも謝罪する。肩の関節を外してしまった。医者に見せてやったほうがいいだろう」
「そうか」
如姫は脇差を納刀し、レティシアの肩をまるで手馴れたように嵌める。断りもなく治療されたレティシアからは苦痛のこもった呻き声が漏れる。
そして置いておいた買い物かごを取り、金髪の女性へと近づく。黒づくめの男とは擦れ違いざまに軽く会釈だけにとどめた。正当防衛とは言え、流石に大胆不敵とはいかない。礼儀を仕損じれば自国の品が下がるため、とはいえ相手は表立って動く人間ではない、と察してはいる。
「やあ、お嬢さん。初めまして」
「初めまして、だな。アイの言っていた容姿に似ているな」
「君こそ話に聞いた通りの美人さんだ。俺はアラン=エヴァンス。軍人だ。アランとでも呼んでくれ」
「キサキ=サキザキだ。好きに呼んでくれ」
「ま、色々聞きたいことはあるだろうけれど、今は戻ろう。そこで君の料理でも食べながら話そう」
社交的でテイコのようだ、という印象をアランに抱いた。
なにはともあれ、黒づくめの男と一緒にいたことは少し気になるところだったので、如姫は帰りにつく。
きっと開口一番私服を褒めちぎるであろうアイの待つ家に。
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