第19話 肌色に焼けた甘い魚 後話



 「兄様!いったい何が?」

 陽炎の叫ぶ声が、アレキサンドリアの細い路地裏にこだまする。肩口に細長く切り裂かれた黒装束の奥に、うっすらと赤い線が覗いていた。

 「徐次郎兄様!気をしっかり!」

 そう叫び、飛んでくる手裏剣を手にした小刀でさばく。足元の茸がいくつも踏みつぶされ、黒い胞子が周囲を囲んだ。その胞子の向こう側に、徐次郎がいた。

 「兄様!」


 「煩い、煩い煩い煩い!黙れ、黙れ、黙れ!」

 いったい何が起こったのか、徐次郎は先程までと違い、荒れ果てた声で怨嗟の言葉を吐き出している。

 「全部全部全部全部!全部俺が悪いんだ!お前の手など借りねえ、お前はとっととここから離れやがれ!」

 そう叫びながら、徐次郎の目に涙が浮かぶのが見える。陽炎は唇を噛みしめると、確認をするかのように言葉を告げた。

 「兄様……、やはり、魔を患っていたのですね。」

 そう言って小刀を構える。その様子は先ほどまでの、どこか浮ついた感じがすっかりと抜け落ち、一人の退魔者としての佇まいを見せている。

 「影井陽炎、……魔障滅殺、参ります。」

 そうつぶやくように吐いた。今にも泣き出しそうな表情を浮かべて……。


 ほんの少し前の事だ。変わらずに兄様を慕う陽炎に、呆れたように笑う徐次郎。その笑顔を見て、相変わらず素敵な兄様だと、そう感じていた陽炎の目の前で、小さな黒い胞子がふわっと徐次郎の背に浮かぶ。

 胞子に限らず、魔障を患ったモノからは黒い輝きを放つ何かが出る。わずかであればそれは、触れたところで何の支障も起こさず、少しばかり気怠くなるくらいのものだ。実際に先ほどは陽炎自身が、指先でその黒い胞子をかすめている。徐次郎は大げさに「憑かれる」と言ったが、その後に徐次郎自身がして見せてくれたように、わずかであれば取り出すこともそう難しいことではない。


 それを理解しているから、陽炎は決意した。ほんのわずかな魔に触れて、ここまで取り乱すということは、つまりそういうことなのだ。まさかとは思っていたが、兄様がそうなってしまったことは抗いようもない。

 兄様は、魔障に侵されている。

 そうなると陽炎が選べる選択肢はひとつしかない。


 正面から対峙し、目の前に兄様を見ながら、そこら中に生えた茸の群生を恨めしく思う。兄様が無造作に歩くたびに、茸がはじけ黒い胞子が舞う。その胞子は兄様の目の前に煙のように浮かび、それを体内に取り込んでいくかのように兄様はまた動いていく。


 「ひかり、ひかり……。すまなかった。俺が悪かった。もっとお前の傍にいてやればよかった。俺がいけねえんだ……」

 重く、苦しみがにじみ出すような声だ。絞り出すような自責の念が、陽炎の耳を埋めていく。

 「賢王、どうしてお前が。……俺がもっとしっかりしてりゃ、お前もあんなことはしなかったろう。そうすりゃあんなこと、しないでいただろうに…。すまん、すまん、すまん、すまん」


 「兄様……、もう過ぎたことです。もう責めないでください。」

 「うるせぇ。陽炎、お前には関係のないことだ。」

 「関係はあります!私は兄様の妹ですから!」

 「うるせえ!とっととこっから離れろ!俺の目に映るな!」

 「……そうは、いかない。兄様が、『たそかれ』から戻ってきて魔障に侵されていると判断したら、『マルアハ』は全力で兄様の討伐をしなきゃいけなくなる。父様に次いで兄様までそうなったら、残された兄様の子供たちはどうなる?」

 「知らん!そんなのは!」

 「知らないふりはやめて!まだ二人、兄様には子がいるんだ。」

 「そんなのは知らん!あの二人はもう俺とは関係のない二人だ!」

 「そんなわけない!兄様はあの子らを遠ざけようとしているだけだ!なんでそういうことになる?ひかり姉様のことも、賢王のことも、どっちも兄様に原因はない!」

 「そんなわけない……ひかりも、賢王も、二人とも俺が殺した。俺が魔を刈りすぎて、あいつらの怨嗟がこびりついているんだ。」

 「そんなことない!」

 「……こびりついた魔障の怨嗟が、俺の声に、俺の指に、染み付いてるんだよ。その手でひかりに触れた。そうしたら、あいつは逝っちまった。俺の声を聞いた。そうして苦しんで逝っちまったんだ。」

 「そんなことない!ひかり姉様の最後は安らかだったって、看取った里の医師に聞いた。」

 「そんなはずはねえ!俺がこの手で葬ってきた連中の最後のように、苦しそうな顔に涙浮かべて、悔しそうにしていたはずだ。……夢に出るんだ、ひかりがそうして苦しんで逝った顔が。あんたのせいだって、そう言いたげな目で俺を見やがる。あんたが里を留守にして、あちこちで獣を刈ったからだって、恨めしそうに見やがる……」

 「そんなのは自責の念からくる兄様の思い込みだ!そんな事実、どこにもない!」

 「……目に、いっぱいに涙ためて、俺を見るんだ。あんたがもっと傍にいてくれたら、外行って獣を殺さなくて済んだだろう。そうすりゃ怨嗟を背負うこともなかった。そうすりゃ私ももっと長く生きてられた。賢王が学校でイジメに関わることもなかった。明郎が引っ込み思案になることもなかった。掴夢にちゃんと母乳だってあげられた。……そう言うんだ。」

 「ひかり姉様はそんなこと言わない!姉様はそんなふうに、兄様に責任を押し付けたりしない!」

 「それにな……、賢王が、いつも学校の屋上で俺を待ってるんだ。俺は急いで駆けつけて、大声で呼ぶ。賢王!って……。でも、いつも、届かない。あいつはこっちに振り向きもしないで、屋上の柵を越えてくんだ。やめろって飛び込んで手を捕まえようとするんだが、……届かねえんだ。指先に触れるのに、届かねえんだ。」

 「兄様!もうやめて!兄様はその時そこにいなかった。それは兄様の思い込み!」

 「落ちてく賢王が振り返って俺を見て、言うんだ。……お前のせいだ、って」

 そう言うと徐次郎の姿が、蜃気楼のように揺れた。そうして蹴りが陽炎の右側頭部に音もたてず叩き込まれる。陽炎はその蹴りを、小刀の峰で受け、構える。

 「全部、全部、俺が悪い。だからなぁ、陽炎、頼むよ、お前の手で、今ここで、俺を楽にしてくれ。そこらの魔障相手じゃ死ねなくなっちまった。だから『たそかれ』の魔王に殺してもらおうと思ったのに、なんでだ?せっかく二年もかけて入り込むところまで行けたのに、なんで戻されちまうんだ。自分で死のうとすりゃ、親父様の顔がちらついてうまくいかねえ。なんでだ?なんで死ねねえ?何がいけねえんだ?なあ、何が悪いんだ?なあ、陽炎……。」

 徐次郎の目からついに黒い涙があふれ出はじめた。それを見て陽炎は悔しそうな顔になる。対峙した二人の目は互いを睨みつけるように鋭くなり、そうして徐次郎が、また口を開く。

 「俺は、だから……内側から壊そうと思って、魔を取り込んで、飼いならそうとした。」

 「な!」

 「けれどな、陽炎、うまくいかねえんだ。里である程度は、魔使いの修行もしたんだぜ。丹田の奥に囲いもつくって、少量だけど扱える程度には慣れたと思ってた。けど、違った……。」

 「兄様!」

 陽炎の鼻先を徐次郎の小太刀がかすめる。苦しそうに右手で小太刀を持ち、徐次郎の顔が陽炎を向く。その表情に先ほどとは違う憂いが浮かぶのを陽炎は捉えた。

 「魔は、体よりも先に、心を壊そうとしやがる。こいつら、俺が他の誰かのせいにして、暴れるようにってしやがるんだ。」

 そう言いながら徐次郎の手は、小太刀を真上から振り下ろした。陽炎がそれを避けて後ろへと飛ぶ。また茸が弾けた。黒い胞子が舞い上がり、徐次郎の頭上に集まっていく。

 「誰が悪いんでもねえ、だから全部俺が悪い!親父様が最後に、魔に侵されて、自分で自分の命を絶った。そん時に俺に言ったんだ、他人のせいにするなって。こいつらは自分の中に、生きていく理由を無くした奴らの、心の集合体だってよ」

 徐次郎の動きが停まる。何かに抗うように、その口元だけが動いていく。

 「生きるのには、すがれる希望ってやつが必要だ。生きるには、喜びってのも大事だ。誰かの傍らで世話を焼いたり焼かれたり、口喧嘩したり、そういうものも、大事なんだ……」

 陽炎は、必死に何かを伝えようとする徐次郎の言葉を待った。目の前で黒い涙を流しながら、内側の魔による浸食に抗おうとしている。そう見えた。

 「ひかりが逝って、俺はそうした大事なものの、ひとつを失った。それを補おうとして、仕事に希望を求めすぎちまった。だから賢王の悩みだとか、抱えこんだ腹の中のもんとか、そういうのを疎かにしちまった。下の二人だってそうだ。掴夢の顔なんて、数えるくらいしか見にいってねえ。」

 腕が、小太刀をカランと落とした。上を見上げ、そこに集まる黒い胞子を、睨むように見ている。

 「戦うことしか知らねえから、だからそうやって、間違っちまうんだろうな。だから、こうして、お前に嫌な思い、させちまう……」

 すると、徐次郎の頭上に水の橋がかかった。陽炎が再び水流の術を指先から繰り出して言う。

 「兄様、大丈夫です。私は、大丈夫です……」

 水流の橋が徐次郎の頭上から、黒い胞子を綺麗に洗い流していく。周囲に群生していた茸の群れも、一緒に洗い流されていく。

 「……そうか、大丈夫か。よかった……」

 「兄様……」

 徐次郎の目が再び陽炎の顔に向く。そうしてゆっくりと二回、瞬きをした。それからたどたどしく、こう告げた。

 「……もう、そろそろやばい。すまん、陽炎」

 「後のことは、任せてください。……一緒にいたあの子らのことも、私がしっかりと引き継ぎます」

 「そうか……、そうしてくれたら、助かる」

 そう言い切り、徐次郎の肩がガクンと下がる。

 陽炎はそこで決意も新たに構えなおすと、右手に小刀、左手に苦無、左手首に備えられた黒装束のスイッチも調整しなおし、立ったままの徐次郎に向けて冷ややかな殺意を飛ばした。

 徐次郎の顔が、がくんと項垂れる。そうして次に、ゆっくりと起き上がってくる。その目はおぞましく黒い光を放ち、足元に落ちた小太刀をゆっくりと拾い上げた。


 陽炎がすかさず、体重を十分の一まで落し空に舞った。それと同時に左手の苦無が、音もなく徐次郎に向かい空を切る。


 ここエジプトのアレキサンドリアにて、兄と妹の命がけの死闘が、再びはじまろうとしている。



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