第15話 兄と妹 後話
◇
「相手の力量をはかるために、最初は観察だ。できるだけ相手の良く見えるところから、しかし自身の気配が察せられないように」
そう言いながら、徐次郎は陽光の届かない場所の空気の流れに意識を向けていく。
「太陽光は、敏感な者ならその満ちる気配を察することができる。だからそれを避ける」
風の流れが淀む箇所。徐次郎はそれを感じとろうとしている。
「風がある場所では、風の流れから身を隠す。何故なら空気の層は多くの場で多弁だからだ」
どこにもそれらしい気配がない。となると……
「そうして、それらのない場所から観察して得るのは、相手の内在するエネルギー。生命力の迸り」
かつて生まれた里で九年間、習い覚えた基礎を繰り返し唱えていく徐次郎。ロビー内をくまなく探り、今言った場所には他者の気配がないことを察知し終えている。
「生命力とはすなわち、生きる力のことである。若くあれば青白く燃えるように感じられ、成人すれば橙色の輝きが灯る。老いて次第に輝きは薄れるが、厚みを帯び白く輝いていくように見える」
そこまで教本の基礎を語り終えたとき、徐次郎と同じ高さの前方数メートルの位置に、陽光と風の揺らぎが生じた。
「青から赤へ。赤から橙へ。橙が次第に黄色く黄昏ていき、いずれ白へ……」
そう徐次郎が言葉にするのに合わせるように、揺らぎは形を取り始めていく。
「兄様、あなたは『たそがれ』で返り討ちにあったのですか?それで魂だけが戻ってきたのですか?」
若い女の声が、そう聞こえた。
「白はゆっくりと霧となり、次第に霞となり、やがて空となる」
徐次郎の声が、女の問いかけに応えるように響いた。
次の瞬間、白刃が甲高い音を響かせ、徐次郎と女の間に火花を散らす。
「兄様、正気が少しでも残っているのでしたら、どうか安らかに空となってください」
徐次郎の目にようやく、目の前の中空に立つ女の姿が視認できた。どうやら徐次郎と同じタイプの忍び装束を纏っているようだ。
「ったく。お前か、陽炎。いったいなんだってこんなことになってる?」
女の顔を見て徐次郎の集中が途切れる。幼い頃から養父の元で共に育ってきた、義理の妹の陽炎だ。陽炎も徐次郎と一緒で、ある日突然に両親を失っている。そのせいで養父の元に来たのが、徐次郎が五歳、陽炎はまだ一歳にも満たないころのことだった。
「兄様、まだ意識があるのですね。でしたらどうか抵抗などせず、このまま空へとお帰りください」
そう言いながら手にした小太刀に力を加える陽炎の、その表情は悲壮だ。
「まさか兄様ほどの人が……。やはり『たそかれ』とは魔界そのものなのでしょうか。こうして再会できたのは嬉しく思いますが、もはや魔に侵されたその身は兄様とは呼べませぬ。どうか、抵抗なく空へと……」
陽炎がそう言いかけた直後、ガンっと鈍い音が響いた。音と同時に強い衝撃が陽炎の頭頂部を襲う。目から火花が散るようなその衝撃に、しまったという表情を陽炎は浮かべた。
陽炎が小太刀を構え力任せに押し切ろうとするその背後に、徐次郎が拳を握りしめて立っていた。
「なんで魔に侵されてまで、そのように冴えた術を駆使できるんですか……」
そう尋ねる陽炎は、眼前に苦無を手に小太刀を受け止めている徐次郎の姿を見ながら唇を噛む。
「侵されてなんかねえよ!なに勘違いしてんだ、この馬鹿!」
もう一度ゴンっと音が鳴り響いた。今度も陽炎の頭頂部に鈍い痛みが走る。
「ああ、懐かしい痛み……。これぞまさに、兄様の拳骨……」
「思い出したか?まったく、この早とちりが。大方、間抜けな情報に踊らされたんだろうが。エリーだけなら仕方ねえって話だが、なんだってお前まで、ちゃんと確認もせずに思い込んだ?」
「確認なら、現地の調査員が行っています。サハラ砂漠にてあなたの生んだ砂嵐の映像と、それから特殊魔障を生んだ現場も撮影されていました」
「特殊魔障?なんだそりゃ?それに砂嵐って、ありゃ俺じゃねえぞ。クロウの奴だ」
「クロウ?それってあのクロウですか?錬金の族長だった?」
「ああ。錬金術を伝える一族の長な。族長って呼ぶと怒るぞ、あいつ」
「しかし、特殊魔障の兵器を……」
「そいつはたまたま、ここへ来る途中で出くわしたから退治しといた奴だ。なんだ俺が生んだって。どうやったらそんなのが生めるのか教えて欲しいくらいだ!」
再びゴンっと音が響く。それでもまだ小太刀に力を込めながら、陽炎が尋ねる。
「ロシア製の戦闘ヘリに模した魔障なんて、誰か魔人と化した者にしか生み出せないものでしょうに。そんなことができそうな人と言ったら、私にはお兄様しかいません。なのでお兄様、そろそろ空へと戻りましょう」
「いい加減にしろ!何度空蝉で頭を小突かなきゃなんねえんだ!そろそろ面倒臭くなってきたぞ、こら!」
そう徐次郎の声の響きと共に、またゴンっと音が鳴る。
「空蝉に実体を持たせられるなど、ほとんど分身ではないですか。そんなことができるのですから、あなたは間違いなく兄様。その兄様の犯した罪の尻ぬぐいは妹の私の役目です」
「だから、いい加減に理解しろ!俺は別に『たそがれ』でやられてなんかねえ!本当に本当の本人だ!」
「偽物ほど自分のことを本物だと言い張るのです」
「くどい!」
徐次郎はそろそろ面倒になっていた。昔っからこうだ、こうと決めたらそれが合ってようが間違っていようが構わずに邁進する。本来は小太刀などより弓の方が才能があると言われたのに、兄がそうだからと迷わずに小太刀を習う。筋力に頼るよりは頭を使う方が伸びると言われても、猪突猛進で筋力を鍛え続ける。思い込みの強さも激しい所があり、要は信頼のおける相手が言った言葉が全て正しいとしてしまうところもある。
今回はそのあたりを、例のエリーあたりに上手いこと利用されているといったところであろう。エリザベート・シュタイン・マーカス、彼女はどういうわけか現場一辺倒の徐次郎を毛嫌いするところがある。ひょっとすると以前に、『マルアハ』上層部に呼ばれて出た会議の席で、現場を知らない管理者について持論をぶちまけたせいかもしれない。あの席にエリーはいなかったはずだが、人の口に戸など建てられぬものでもない。
眼前の陽炎は、流石に鍛え続けてきた筋力にものをいわせ、徐々に徐次郎の苦無を押し切ろうと圧し掛かってきている。ここ数年見ない間に、ひょっとしたら里の秘術も伝授されているのかもしれない。そう考えて徐次郎の顔に焦りが浮かぶ。
「なあ、おい、陽炎。とりあえず話をしないか?たぶんいろいろと行き違いがあるのかもしれん。このままじゃお前、無実の兄を切り捨てて一生苦しむことになるぞ」
額に焦りの色を浮かべ、徐次郎がそう話しかけた。すると陽炎は、即座にこう答えた。
「その咎は生涯背負い続けていくつもりです。このまま兄の姿を真似た魔を放置すれば、草葉の陰で実の兄に後で怒鳴られて蹴り飛ばされることになります。それだけは嫌。何度頭を小突かれても、兄様はいつも笑って私を迎えてくれました。そんな兄様のためにも、その首もらい受けます!」
このブラコンめ。と、徐次郎は言葉に出さずつぶやく。どういうわけかこうした性癖の女ばかりが周りに集う。ひかりはやおいとか言っていたし、妹はこれだ。知り合ったばかりのお嬢ちゃんはショタとかいう奴だし、勘弁してくれよとため息をついた。
そうしている間に陽炎の小太刀が、徐次郎の苦無を押し切って肩にザクッと食い込むのを感じた。その瞬間、徐次郎はふっと陽炎を見て笑顔を浮かべると言った。
「なかなか、強くなった。たいしたものだ、陽炎」
そう言われて陽炎は、頬を赤く染めて目をまんまるに見開く。小太刀にかかっていた圧がすう―っと抜けていくのを感じる。
「そ、そんな……。まがい物とは言え、兄様に……褒められるだなんて……」
徐次郎の目の前で、陽炎の顔がどんどんと赤くなっていく。ついに小太刀を手から落とすと、その両手を自分の頬にあて、ひざまづくように中空に座り込む。
「ありえないことです。けれど、嬉しい。ようやく褒めらえた。長かった……」
そのつぶやきと相まって、まるで何か大きな事業でも成し遂げたかのような様相だ。徐次郎はこれほど効果的なのかと、半ば呆れ気味に陽炎の様子を見下ろすように見つめている。
「サージェス!どこかで見ているんだろう?出てきて説明してくれ。あと、子供向けの気付け薬が欲しい!」
暫くの間、達成感に酔いしれる陽炎の横で頭を撫でてやりながら過ごしていた徐次郎だが、その陽炎が満面の笑みを浮かべながら涙を流しだすのを見ると、声を荒げて言った。
「あと、うちの妹に何か術がかけられている可能性がある。これもなんとかしてくれ」
徐次郎の声がロビーに響き暫くして、どこからかサージェスの声が響いた。
「どれもOKだ。警報は解除したのであがってきてくれ」
「警報の解除はありがたいが、こっちの新しい建物はどこに何が仕込まれているんだか探るのも手間だ。昨日の場所で待ってる。旧アレキサンドリア支部の方だ。ちゃんと来いよ」
「OK、気付け薬だな。持って急いで向かう」
サージェスのその言葉を聞き、徐次郎は未だに呆けた顔をしている妹を肩に担ぐと、宙を蹴った。同時に下の方でシュッと自動ドアの開いた音がする。そうしてその時には既に、徐次郎と陽炎の姿はアレキサンドリア支部の建物から霞のように消え去っていた。
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