手掛かりを求めて

 自分の想像を超える幸せを感じた後は、それをどうすれば失わずに済むのかという事ばかり考える様になるらしい。

カーテンを閉め忘れて寝たせいで、眩しい朝日が顔を照らす刺激で目が覚める。

これまでも度々あった事だったが、一つだけ違うのは隣で眠る彼女の身体の温かさが心地良くて何も嫌じゃない事だ。


――― 10月11日 月曜日 青い絵の具で空が塗られた様な朝


 寝ている時までイメージは続かないのだろう。

朱莉はいつもの白いワンピース姿に戻っていた。

毛布の隙間に手を入れて、見慣れた服の上から体の線を指でなぞる。

真っ赤な頬に涙が伝っても、笑顔を絶やす事なく最後まで付き合ってくれた。

何ともいえない彼女の表情を思い出すだけで、寝起きの心臓は脈拍を早めていく。

「・・・顔洗うか・・・。」


 無心で歯ブラシを動かし続けているつもりなのに、なかなか落ち着いてくれない自分の体に呆れ果てて溜息がでる。

そういえば、フラフラする頭でベッドに辿り着いた後は何も考えられなかった。

ちゃんと(失敗したが)避妊を徹底した樫井さんを心から尊敬する。

「最速記録だったな・・・手だけと感覚違いすぎだろ。」

最低な独り言を歯磨き粉と一緒に流して再び顔を上げると、不思議そうに背後から鏡を覗き込む朱莉と目が合った。


「よ、良かったー・・・話し声するから誰か来たのかと思った!

誠士くんって、独り言多いタイプだったっけ? 初めて聞いたー。」

「え!?・・・い、いや全然言うよ? むしろ人と喋るより多いよ。」

焦った俺が良く分からない反論をして振り返ると、彼女は子首を傾げただけの薄い反応であっさりキッチンの方へ向かった。

「あ、冷凍うどんが丁度二つあったー!きのうはお肉食べ過ぎたから、とろろ昆布のうどんでサッパリなかんじの朝ご飯にしよっかねー!」

朱莉は普段と全く変わらない様子で、淡々と家事をこなしていく。

いくら意識しない様に務めても、台所に立つ後姿を見ているだけで胸騒ぎがする。

こんなに動揺を隠し切れないのが自分だけだったとは・・・意外な敗北感だ。


 温かい湯気が立ち上るお椀の中から、昆布出汁の良い香りが漂う。

朱莉が居なくなってから手付かずだった乾物が棚の奥に眠っていた様だ。

向かい合って一緒に食事をし、料理の出来栄えを褒めて彼女が喜んで笑う。

そんなどこのカップルにもありそうな、当たり前の心地よさを感じている内に変な緊張感も消えて、上辺を取り繕う必要もなくなっていった。

「朱莉は・・・杏花さんの家じゃなくてここに住むつもりかな?

お、俺は嫌とかじゃないけど・・・その、最近は仕事も増やしてるしずっと調べ物してたりしてるから、寂しく感じるかなーって。」

どこに住んでも朱莉の自由なのだが、自分の方を選んでくれるかが不安でつい遠回しな言い方になってしまう。


「もちろんここに居るよ!あっ・・・今度、携帯取って来なきゃー・・・。

お仕事何時まで入れてるのー?ちょうどご飯が出来る様にして待ってるね♪」

「・・・かわいい。」

「えっ?」

理想をはるかに越えた模範回答を向日葵の様な笑顔で返されて、胸の内の声が思わず口から洩れていたらしい。

脈絡のない言葉にきょとんとする朱莉に、俺は慌てて補足の説明を開始した。

「あっ・・・ごめん。携帯は前みたいに、俺が後で杏花さんの家に取りに行って来るよ。 コールセンターは、『もうすぐ相談サービスが縮小されるけど他の仕事も手伝ってみないか?』って言われてて、今は8時から18時まで働いてるんだ。

買い物は土曜日にまとめ買いして、何とか頑張るしかないよなー・・・。」

「へぇー・・・誠士くん頭良いからどんなお仕事でも頼られてて凄いね!

私も早く戻れるようにもっと頑張らなきゃ!

あっ・・・携帯ありがと。私も杏花さんに御礼言いたいし、ついて行こうかな♪」

自分で取りに行ったらポルターガイストになる事に気付き、朱莉は一緒に西嶋家へ行く事に決めたようだ。


 驚かせない様にそれぞれへ先に連絡しておこうと思った俺は、流し台へ食器を運ぶついでに携帯をチェックした。

「うわー遅かったか。」

まだ朝の9時過ぎなのだが、香苗から3回も着信が来ている。

心配そうな顔をする朱莉に『ちょっと電話して来る』と携帯を見せて態度で示し、俺は玄関の外に出た。


「もしもし・・・ごめんね、なにも連絡しないで。朱莉は家にいるし無事だよ。」

『あっ!やっとでたー。 いや、そっちに居るのは知ってるよ。

昨日、盛大に路チューかまして連れ去ったの二階から見てたもん!

無事かどうかはあんたの上手さ次第だけどさー・・・。』

「・・・。いや、なんで見てるの?」

『朱莉たんもゲーム呼ぼうと思ったら居ないんだもん。たまたま外見たら二人で話してたから、みんなで見学してた!キュンとしたわー。ごちそうさまでした!』

「・・・最低だな。で、なに?」

『怒んないでよぉー・・・で、どうでした??生霊とのセ・・・』

「いや、言わせないよ!? 暇つぶしならまた今度ねー」

『ちょ、切らないでよ! 第二の手掛かり見つけたから、今日付き合いなさい!

朱莉たんには心配させない様に、(私が不動産屋さんにぼったくられて泣いてるから助けて来る!)とでも言っとけば大丈夫だから。』

「なに、その絶対あり得ないシチュエーション・・・逆だろ?

いくら朱莉でも信じないと思うよ。」

『いいから上手い事ごまかして早く来なさい! 11時に三軒茶屋ねー!』

「はいはい・・・。」


 部屋に戻ると朱莉はもう二人分の食器を洗い終わり、紅茶を淹れて待っていた。

『会社の人ー?』と尋ねながらティーバッグを小皿に取って、自分のカップにだけ砂糖を大量に入れて混ぜている。

「いや・・・なんか、香苗が引っ越しの事で困ってるみたい。

ちょっとトラブルになる前に助けに行ってきてもいいかな?」

一緒に行きたいと言われないように、少し深刻な表情を作りながら俺が答えると

『そ、それは一大事だぁ!』と、信じ切った様子で心配そうに呟く。


 通話を終えた直後は香苗に呆れながらも、これから彼女の手掛かりを探しに行くからには絶対になにか収穫を得なければ!と変に緊張していた。

しかし、この可愛らしい態度を見ていると心がふにゃふにゃと柔らかくなり、そのうち溶けてしまうんじゃないかな?とさえ思えてくる。

「紅茶ありがとう。11時までに三軒茶屋行かないといけないから、お昼一緒に食べられないや・・・ごめんね。香苗には朱莉がここに住む事、先に言っておくよ!」

ベッドに背をもたれさせて、ちょこんと体育座りをしながら紅茶を飲む朱莉の隣に並んで座った俺は、そう伝えてそっと肩をくっつけた。

触れ合うとかすかな桃の香りが漂い、鼻の奥がつんとするような切なさを感じる。


「全然大丈夫だよー!杏花さんも夕方戻るだろうし、二人が西嶋家に帰る頃に私も飛んで行っとくねー。」

朱莉はそう言ってマグカップをテーブルに置く。

なにも邪推をせず、にこやかに答える朱莉を見ていると、とてつもない罪悪感にさいなまれる。

「・・・好き。」

その一言だけしか語彙が見つからず、笑顔の彼女を座ったまま強く抱きしめた。

少し苦しそうな吐息の漏れる音が耳元で聞こえて、本気で何も考えられなくなる。

頬を擦り合わせ、長い髪を背中に流しながら首元に唇を押し当てて吸い付く。

「んんっ・・・待って」

朱莉の泣きそうな声が頭に響く度、甘い香りが胸を満たし肩を掴む手に力が入る。

「ねぇ・・・時間がないよ。・・・うっ・・・だっ、ダメ!おしまいっ!」

最後は少し怒ったように声を上げながら、朱莉はふわりと俺の腕をすり抜けて天井近くまで浮かんでいく。


「生霊の特権を乱用するなんてずるいな。」

そう言いながら俺は頭上へ視線を向ける。

真っ赤な顔で膝を抱えるように浮かぶ彼女の脚の隙間には、絶景が広がっているのだが、教えてあげるつもりは無い。

少し離れた場所に着地して、プイっとそっぽを向いた横顔まで可愛く見えた瞬間、自分のあまりの気持ち悪さに俺は盛大に吹き出してしまった。

「え?な、なに!?」

朱莉は焦ったように身の回りの異変をキョロキョロと確認する。

俺は簡単な身支度を済ませ、『なんでもないよ。』と言いながら彼女の頭にぽんと手を置く。

このまま撫で続けたら本格的に遅刻するので、後ろ髪を引かれる思いで渋々玄関へ向かう。

靴を履いて外に出る別れ際に朱莉が見せた笑顔は、どんなに優れた報酬よりも確実に俺の原動力になる気がした。


 

 指定された駅の近くに良くある賃貸仲介ショップに向かうと、沢山の間取り図のチラシの貼られたガラス窓の奥に香苗の姿を見つけた。

担当者らしき40代の男性は、困り果てた様子で印刷した間取り図を見つめている。

また香苗が何かゴネてるのかと思った俺は店内に入り、『いらっしゃいませ!』と近寄って来た受付の女性に『あの人の友人です。』と伝えた。

俺が指で示した先の香苗をチラッと見遣った受付係は、『は、はい・・・お隣へどうぞ。』と俯き加減で俺を案内する。

「あっ!誠士やっと来たー!ねぇー聞いてよー!この人、内見行くまで事故物件の事黙ってたし、私が気にしすぎだとか言うんだよ? 本当に幽霊居たのに。」

香苗は膨れっ面でそう言うと、俺のダウンベストの裾を引っ張って無理矢理に隣の椅子へ座らせた。

鮮やかなオレンジ色のガウチョパンツの上に、胸の目立ちにくい柔らかなリブセーターを着た香苗は、黙っていれば綺麗な女子大生にしか見えない。

「わかったから、ちょっと大人しくして?」

背中を軽く叩いて落ち着くように声を掛けると、彼女は口を尖らせて腕を組んだ。


「あ・・・同居予定の方ですか?」

「いえ・・・ただの付き添いの友人です。どうかしましたか?」

「瑕疵があったのはご案内した隣の部屋でしたので、告知の義務は無いんです。

間取りは気に入って頂けた様ですので、宮崎様にご納得いただきたいのですが。」

店員は額の汗をハンカチで拭いながら、縋るような目で俺を見つめた。

「隣って言っても同じフロアなんだから、少しは安くして欲しいんですけど。」

香苗は本当は臆病でオバケが怖いだけだなんて絶対にバレたくないのか、震える手を机の下に隠して精一杯の虚勢を張っている様子だ。


「事故のあった部屋は同じ間取りですか? 現在誰か借りてる状態ですか? 家賃はいくらの差があります?」

「ご紹介したこの¥88,000のお部屋と全く同じ作りです。・・・事故以来どなたもご入居されておりません。家賃は¥65,000まで下げていますが・・・」

店員はこんなに香苗が拒絶しているのに、なぜその部屋の事を詳しく聞くのか分からないといった怪訝な表情を浮かべ、苦笑いで言葉を濁した。

「え・・・やっすい!香苗、三茶で2DKだよ?俺が朱莉と住みたいくらいだよ。」

「で、でもさぁ・・・。自殺した引きこもりのおじさんなんだよ?」

香苗はその悪霊に何か言われたのだろうか?不安げに俺の顔を見つめ、シャツの袖を掴んでくる。

「住所は・・・ここか。よし!今度、俺と杏花さんで始末しに行ってくるよ。

上手くいったら、また香苗はここに契約しにくればいい。」

俺が携帯のメモに住所を入力しながらそう言うと、香苗は困惑したような顔で『そ、その手があったか・・・』と手を頬に当てながら頷いた。


「あ・・・あのぉー、本当にこちらのお部屋になさるんですか?」

「はい。また後日来るので予約にしておいていただけますか?」

香苗の表情を確認した俺が代わりにそう伝えると、店員は『そ、それは構いませんが・・・』と言って流れる額の汗を拭う。

混乱の極みに達したのか店員はそれ以上なにも話すことは無くなり、カウンター奥のパソコンで香苗の個人情報を入力して予約表を作成し始める。

白い封筒に書類を詰めて香苗に手早く渡した店員は、俺達が店を出るとすぐに固まった笑顔で見送る受付の女性を捉まえ、思いっきりこちらを睨みながら何やら話を始めていた。


「完全に不審者扱いだったなー・・・。ま、杏花さんに相談してからになるけど、香苗が安心して契約出来る様に、ちゃんと除霊しとくねー。」

「誠士・・・なんか色々ありがと。安く借りれそうで助かるよ!

さぁーて!それじゃー今日のメインイベントにさっさと行きますかー!

・・・と、その前にご飯だね。ねぇ王子様ー!童貞卒業記念にランチ奢ってー!」

「なっ・・・なんでだよ!香苗に何の関係もない上になぜ奢る必要が!?」

「いーじゃん!幸せの御裾分け位しなさいよ! 私なんて万年かませ犬の要求不満を押し殺して、あんた達の未来の為に協力しまくってるんだからっ!

ラーメンの一杯も食べさせてくれないって言うなら、身体で支払って貰うぞ!?」

「えっ、わ・・・わかった、分かったからケツを揉むな!」

本気なのか冗談なのか全く分からない、怪しい目の色と手つきで繰り出される香苗のセクハラから逃れるように、近くのラーメン屋に駆け込む。

ここぞとばかりにトッピングをモリモリにした肉食獣は、満足のいくまで根掘り葉掘り他人の情事に首を突っ込み、呆れて俺が答える度に勝手に胸躍らせていた。


 今日の目的地は埼玉県だと駅に向かう途中で言われ、二回も電車を乗り継ぎながら向かう。

乗り換えの際に運よく席に並んで座れた。満腹になってウトウトしだした香苗は、やがて俺の肩にもたれる様に額を預けて眠ってしまったようだ。

黙っていれば本当に可愛らしい香苗のせいで、先程から他の男性乗客の視線が痛い程に突き刺さってくる。

しかし彼女の本性を知りもせず振り回され、骨抜きにされた挙句に色んな意味で枯れ果てて累々と積み重なる男たちの山を想像してしまった俺は、30分間も必死に笑いを堪える羽目になった。

「・・・なに笑ってんのよ。」

「あ、起きた。もうすぐ着くみたいだけど。」

俺がそう言って携帯を確認すると、香苗はゆっくり頭を持ち上げて髪をかす。


「あんたの匂い、安心するなぁー。すっごい朱莉が羨ましいけど、恋愛の好きとかじゃなくて混乱する。兄貴とかいたらこんな感じなのかな・・・?」


「・・・ごめん。なんて答えが正解か分かんない。でも、俺も同じだよ。

俺、いじめられてた時・・・クラスの全員の男が敵だった。教師ですら見ないフリを決め込む中、仲良くしてくれようとした女の子が一人だけいたんだ。でも・・・

その子にも危害が及ぶんじゃないかって心配になって、最低な言い方で拒絶した。

香苗はその子にどこか似てる。自分を持って、いつも人の為に行動してる所とか。

こんな風に性格拗れる前に出会ってたら、たぶん普通に好きになってたと思う。

・・・でも、朱莉を好きになった事を後悔はしてないし、樫井さんより本音を言える女の子の友達が出来た事は、俺にとっては信じられない位の奇跡だと思う。」

俺は気持ちを隠すことなくそう伝える。


 思い出すのも辛い過去を人に話したのは初めてだったし、初恋の人に似ているなんて言われた女の子が引く事を想像してしまって、話している途中から吐きそうな位の羞恥心だった。

それでも、目の前にいる大切な友達に自分の全てを伝えられて良かったと思う。

「・・・次、降りるよ。 私も、誠士に出会えて本当に良かった。

私、あの子が大好きだよ。 朱莉に生きてて欲しい・・・あんたと一緒に。」

「ありがとう。絶対、諦めない。香苗の大切な仲間を失わせたりしないから。」

涙を堪えながら背中を押してくれる香苗に感謝して、俺はそう笑顔で誓った。


 人の流れに乗って慌ただしく電車から降りる。

俺達の旅が何を変えるのか、どこへ向かうのが正解なのかはまだ分からない。

携帯で道を調べながら看板の地図を見た後、香苗はどんどん先へ進んで行く。

目的地へ近づく度に感じる重圧は、一人きりだったら耐えられなかっただろう。

朱莉がくれた小さな変化は、どれだけ俺を変えてきただろうか?

守りたいものが多くなりすぎた分、少しづつ増えて行った宝物の一人は、元気よく振り返りながら手招きしている。

駆け出して近づく俺を見た彼女は、そのまま手を大空へと伸ばすと輝く様な青空を見つめて微笑んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る