番外編 決断

 少ない荷物はすぐにまとめ終わり、引っ越しの準備は簡単に終わった。

借りていた6畳間を綺麗に掃除した香苗は、買ったばかりの自転車に乗って深夜の住宅街を駆け抜ける。

枯れた広葉樹の葉を冷たい風が転がして、カラカラと寂しい音が通り過ぎて行く。

20分ほどで辿り着いたコンビニは明るい光に満ち溢れ、風情のあった夜道の静けさに似つかわしくないアイドルのヒットナンバーが流れていた。


――― 10月31日 日曜日 冷たい空気の張りつめた深夜



「あ、香苗!こんな時間に一人で来たの!?

・・・ごめんね。バイト前ギリギリまで付き合わせて疲れてるのに。」

レジ前の棚で品出しの途中だった誠士は眠そうな表情を一変させ、心配そうに香苗の元へ駆け寄る。

「いや・・・こっちこそ、あんな新事実が分かった重要なタイミングで抜けちゃって悪かったよ。 バイト終わって帰ってから引っ越しの準備してたんだけど・・・

あんたの事がどうしても気になっちゃってさ。」

香苗はそう言って、温かい紅茶のペットボトルとガムテープをカゴに入れるとレジの方へ向かう。


「えーえー!香苗ちゃんどこに引っ越しちゃうの? 宮坂よりも遠いとこ?」

レジに立っていた鈴木は、カウンター横に置いてある小さなチョコレートを自腹でサービスしながら会話に割り込む。

「バイト先の居酒屋さんに近いところに住むんですー!鈴木さん、この前来てくれてありがとうございましたー!沢山飲んでくれて、本当に嬉しかったです♪」

「あぁー・・・じゃあ三軒茶屋か!また遊びに行かせてねぇー。

松宮君、せっかく香苗ちゃん来たんだし休憩してきてよ。

帰りは明るい道まで送ってあげなよー!?」

香苗が遠くへ行かない事に安心した様子の鈴木は、気前よくそう言うと誠士の背中をバックヤードへ押し込みながら笑顔を見せた。


「あの人、セクハラおやじだと思ってたけど最近いい人だよね。

飲みに来たときも騒いだりしなかったし。人は改心するもんなのねー。」

「鈴木さんは最近、本気で就活してるよ。事件の後で香苗のことニュースで知った時も、凄く心配して俺に色々聞いてきたけど『こういう人を守れるように、ちゃんと社会の一員として頑張らないといけないよな。』とか言い出してさー、それ以来めちゃくちゃ真面目になったんだよね・・・。

香苗のおかげで俺もやっと正当な休憩がもらえてます。」

香苗をパイプ椅子に座らせ、自分は積み重ねた段ボール箱の上に腰掛けた誠士は、苦笑いしながらそう言った。


 一瞬、気まずい沈黙が訪れ、香苗は少し暗い顔で俯いた誠士をじっと見つめる。

「こんな時でもバイトしてて偉いね・・・。朱莉たんとはさっきまで私の引っ越し前の女子会の話をメールしてたけど、今は寝落ちしてるっぽい。

なにも知らない彼女が幸せそうにしてるのを見るのも、もう限界なんじゃない?

・・・私はずっとバイト中も考えてたけど、これまでうちらがこっそり調べて分かった事実を、隠さず伝えて本人の気持ちを尊重するべきだと思う。」


「それは分かってる。朱莉ってさ、カレンダーに予定を書くの癖だったんだけど、家に戻ってからは一回も書かないんだ。あんなに欲しがってたキャラクターグッズも買わないし、まるで自分がいつ消えても部屋に物が残らない様にしてるみたい。

彼女は何も知らないんじゃない。

覚悟を決めたうえで、俺が傷付かないようにいつも笑ってくれてる。

・・・事故で意識不明なのは確定したけど、どこの病院に行けば身体があるのかが分かった訳でも、何の事故だったかもまだ分からない。

いま伝えた所で、朱莉が混乱して精神に負担がかかるだけの気もするんだ。」


 誠士は自分の膝を拳で叩きながらそう言って、虚ろな目のまま唇を噛んでいる。

苦しげに憐憫の目を向ける香苗は、まだ温かい紅茶のペットボトルを両手で包んで口へ運んだ。

「そうだよね・・・。5年一貫制の看護学校の二回目に選んだ所でさ、半年以上休学している子がいるって聞いた時は正直、もう当たりが来たじゃん!って思っちゃったんだけどね。家族の病気の事で精神を病んで一時的に離脱しちゃっただけなら、

体さえ見つかればすぐに戻れるかも!とか意味もなく安心してた分、私も結構キツイわ・・・。看護師目指してるようないい子が、まさか意識不明の重体とかさ。

私が樫井に連絡してる間、他の子から何か聞けた?」


「いや・・・学年が違う子だったみたいで、何年生かも分からないって言われた。

でも、見せてくれたこの写真の端に映り込んでるのは・・・間違いなく朱莉だ。

詳しく聞きたいし、鮮明な写真をデータで送ってもらおうと思って連絡先を交換しようとしたところで、先生に見つかってめちゃくちゃ怒られて追い払われた。

女子高だし、しつこくしたら怖いだろうからもう聞き込みは行けないと思う。」

デジカメで相手の携帯の画面を撮影した画像を見つめ、誠士は悔しそうに呟く。


「そりゃそうだよね・・・完全にうちらだけじゃ不審者だよ。

樫井の方も、半年以上前の事故を全部洗いだすのは時間かかるみたい。

ただ、学校名とその画像を樫井に送ればだいぶ早く分かると思う!

・・・でもさ、あんたの覚悟はどうなの?

謎が解明して、良い事ばかりじゃないかもしれない。あの子がもし・・・」

香苗は途中まで言いかけた言葉の先を躊躇するように、視線を誠士から逸らした。


「杏花さんは外傷の集中治療が終わったタイミングで戻った。

香苗は意識のみが離脱していたのを自分で戻した。

護はショックを受けて不整脈で倒れたのを、樫井さんが蘇生してすぐ戻った。

・・・ここから導かれる答えはもう分かってるんだ。

全員、脳の機能は正常で身体も健康だったし、治療が成功した後にすぐ戻れてる。

朱莉だけが長期で入院していて、記憶喪失もあるって事がどういうことか・・・」

「・・・で、でもそれは憶測だし・・・」

香苗がそう誠士の言葉を遮ろうとすると、誠士は静かに首を横に振った。


「樫井さんにはもう画像を送った。正確な朱莉の状況が分かり次第、本人にも伝えるつもりなんだ。・・・香苗、心配してくれて本当にありがとう。

俺も夕方家に帰った後さ、試験の勉強する振りしてずっと『事故と後遺症』っていう論文を読んでたんだ。それによると、脳に何らかのダメージをおって昏睡状態になった場合、無事に目覚めてそのあと健康に暮らせる可能性って結構低いらしい。

元気になった例も沢山あるし、そのこと自体には絶望してはいないよ。

・・・俺が一番怖いのは、病院も分かっていざ朱莉をその場に連れて行ったとして、ちゃんと戻れるのか?って事だけ。

あんなに戻りたいって思って頑張ってる朱莉が、自分の身体を目の前にして戻れないなんて事になったら、可哀想どころの話じゃないだろって思うんだ。」


「・・・確かにね。戻りたくても戻れずに、衰弱していく自分を外側から見てるだけなんて、悲劇にしても酷すぎる話だよ。

それを傍で支えていく人間だってさ、自分の身を切られる以上の地獄だと思う。

でも御影が前に、脳波がなければ生霊を形作るイメージの力も湧き得ないとか言ってた気がする。脳が生きてるなら、意識を本体に戻すチャンスはあるよね?」

香苗は祈る様に指を組みながら、額にそっと押し当てて呟く。

その様子を悲しそうな瞳で見ていた誠士は『そう・・・チャンスはある。』とだけ囁くと、ゆっくり立ち上がってロッカーにかかっている上着を羽織った。

「杏花さん家まで送るね。外寒いでしょ?マフラー貸そうか?」

「・・・だ、大丈夫。ありがと。」

急に俯いて断った香苗を不思議そうに見ながら、誠士は薄手のコートのポケットに財布を突っ込んだ。


 さっきよりも冷えた風が、暖かいコンビニから出た二人の頬を撫でていく。

部屋着兼用のニットワンピースにパーカーを着ただけの香苗が、重いっきり顔をしかめて首をすくめながら震えた。

小走りで自転車置き場へ向かってハンドルを握った香苗に、誠士は無言でマフラーを巻き付ける。

「明日・・・もう今日だね、女子会。 朱莉、楽しみにしてたから宜しくね。」

零れそうな夜空の星を見上げた誠士は泣きそうな顔でそう言うと、さっと自転車に乗って先に走り出していく。

慌てて追走を始めた香苗は誰にも聞こえない様な声で『わかった』とだけ呟いた。

 


――― 同時刻 豪徳寺 樫井の賃貸マンション


 多忙な職業の独り暮らしの男性の部屋にしては、少し違和感を感じるくらい綺麗に片付いているリビングは、深夜にも関わらず明るい蛍光灯の光に満ちていた。

カタカタと微かな音を立てて、テーブルが揺れる。

「不満だ・・・。もう一回お願いします。」

「もう疲れました・・・明日は女子会なのに。クマだらけにするつもりですか?」

杏花は眠そうな目を擦りながら、溜息交じりに寄り掛かった彼の肩を軽くつねる。

彼女の柔らかい栗色の髪を撫でながら『あちぃ・・・』と呟いた樫井は、キッチンへ向かい冷蔵庫を開けてペットボトルを取り出した。

散らかったテーブルの上を片付けて寝る準備を始めた杏花を、冷たい水を勢いよく飲み干した樫井は寂しそうに見つめる。


「あのさ・・・ポーカーと将棋とババ抜きが一生勝てないのは納得できるよ。

ラッキーすぎて誰とやっても1抜けしてた俺がさ、なんで人生ゲームまで負ける日が来てしまったのか・・・。そこが納得できないの。

ま・・・まさか、杏花さんは運すら操る特殊能力者だとでもいうのか・・・?」

理不尽な結果に納得がいかない興奮を隠そうともせず、樫井はボードゲームを畳む杏花の背中をじっと見つめてそう問いかけた。


「単純に・・・今は私の方がラッキーなだけじゃないんですか?

初期のステータスがズタボロに最悪だったんですから、25歳過ぎて幸運に恵まれる事くらいは許されると思うけど。」

杏花は綺麗になったテーブルに肘をついて呟くと、彼の方を振り返って微笑む。

しばらく何かを考えていた樫井は、ついに観念したように溜息をついた。

ゆっくり杏花に近寄って背中から抱き上げると、彼は真っ直ぐ寝室へと向かい片足でドアを押して閉める。

「もう俺の幸運は全部、杏花さんと一緒に居られる事に使っちまったらしい。」

「そういうこと、計算無しで言える所がズルいですよね。」

杏花はベッドの上に仰向けに寝かされると、恥ずかしそうに頬を染めて掌を天井にかざした。

薬指の指輪は薄暗い間接照明の中で鈍く輝いている。

いつの間にか服を脱ぎ捨て自分もベッドに上がった樫井は、彼女の手を掴んで指輪に口付けをすると『計算なんてしたってすぐバレるしな。』と言って笑った。


 杏花の弾む吐息が落ち着いてから静かな寝息に変わるまでの間、ずっと隣で髪を撫で続けていた樫井は、彼女の深い眠りを確認すると素肌を厳重に毛布で包んだ。

自分も服を着て横になろうとしたが、ベッド下に落としたままの携帯が目について拾い上げる。

丁度メッセージを受信した携帯は、暗がりの中で緑色のランプを点滅させた。

「マジか・・・そんな・・・。」

苦々しい表情で暫く固まっていた樫井は、床に散らかしてあるジャージではなく、ハンガーからシャツとセーターを選んで着始めた。


【夕方の香苗の引っ越しまでには家に行きます。ランチ会楽しんでね。】


 少し乱れた字の書置きと合鍵をリビングに残した刑事は、夜の闇の中へと静かに車を走らせて行った。


 警察署内は受付すらも閑散としていたが、せわしなく走り回る数人の夜勤の署員たちは、真夜中にフラッと現れた大男を見ても誰一人驚く者はいなかった。

「お疲れ様です!」

書類を抱えた地域課らしき制服の新人は、当たり前の様にそう言って敬礼をする。

『夜勤ご苦労さまです。』そう言って丁寧に挨拶を返す樫井を、受付の奥で電話の前に座る女性警察官2名がチラチラ見遣って話し出す。

『え!?本当に?』

『うん、指輪してんじゃん。泣ける・・・。』と言った二人は盛大に項垂れた。


「うっわ・・・先輩、フェロモン全開で来ちゃダメですよ。」

頭を掻きながら刑事課のドアを開けた樫井を見た晴見は、そう言ってキャスター付きの椅子に座ったまま気怠そうに一回転する。

「なんの事やらさっぱりだけど。晴見、暇ならちょっと手伝ってくれる?」

「僕が暇なのは・・・たっぷり仮眠をして、明日の夕方からの明け非番を全力で引っ越しの手伝いに捧げる為に、速攻で仕事終わらせたからなんですけどね。」

晴見はぼーっと遠くを見つめ、ほうけた表情を隠しもせずそう呟いた。


「香苗の大切な友達が行方不明なんだけど、その手掛かりが見つかったんだ。

・・・まぁ、無理はさせられないし俺だけで探すから大丈夫だよ。」

そう言って樫井は自分の席へ座り、ノートパソコンの電源を入れる。

携帯の画像を見ながら、朱莉の通っているとされる高校を検索していく。

事故がニュースになっていないのか、なかなか引っかからず樫井は頭を抱えた。


「えっ!・・・先輩、俺・・・この子知ってます。」

いつの間にか音もなく樫井の背後に回っていた晴見が、彼の携帯をじっと見つめて急に驚きの声を漏らした。

「はぁ!?なんだって!? ・・・あ、すみません。」

思わず叫んで立ち上がった樫井は、他のデスクで驚いた表情を浮かべる捜査員に慌てて頭を下げつつ静かに着席する。

「・・・先輩、また凄いヤマ引いてきましたね。

事故のデータベースに記録は無いですよ。・・・僕がこの子の顔を知ってるのは、

嫌疑不十分で打ち切られた事件記録の、被害者写真で見たからなんですから。」

「・・・。」


 樫井の長い沈黙の間も、隣に座った晴見はパソコンをカタカタと打ち続ける。

次々と画面に映し出される衝撃の内容を、樫井は手で口を押さえながらずっと見つめていた。

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