たからもの

 慌ただしい物音に目が覚めると、まだ新しい色の朝日が窓から差し込んでいた。

一瞬、自分の部屋の様な錯覚をおこしたが、リビング奥の寝室から怒鳴る樫井さんの大きな声が聞こえて、ここが彼のマンションだと思い出す。

何か酷い事件が起きたんだとすぐに分かる、緊張感に満ちた話し方を聞く限り、

早く身支度をして帰った方が良いらしい。

すぐに昨日の服に着替えて、借りた服と布団を畳む。

怒鳴り声が消えた寝室は、急にドタドタと騒がしくなり勢いよくドアが開いた。

「樫井さんおはようございます。大丈夫ですか?」

「松宮君・・・香苗が誘拐された。」


 樫井さんはパソコンを抱えて携帯を握りしめたまま、真っ青な顔で呟く。

「えっ?な・・・どういう事ですか?」

「昨日、夜に掌紋の鑑定結果が出た。指紋が20年前の幼女誘拐事件の参考人と一致、親指の切り傷の位置が調布の事件の物とも一致した。

本庁が捜査本部を設置した後、誘拐と殺人の容疑で三上みかみ さとるを指名手配することに決めた。参考人として香苗に連絡を取ろうとした捜査員が、本人と通話出来ないと明け方に北沢署に連絡を入れて、俺に回ってきた。新宿の店の名前と住所をすぐ教えたんだが、香苗は昨日の深夜に新宿署に失踪の届けが出されていた。」

樫井さんは殆ど息もつかず、ノートパソコンを開きながら早口で話した。

「キャバクラから失踪届け・・・?あのあと一体何があったんですか?」

元気そうに『また明日ね』とメールをしてきた香苗が自分から消えるなんて想像もつかない。俺は鈍くなる頭を必死に動かして話を理解しようとした。


「辞めたいという香苗を店長が引き留めて話したせいで、だいぶ深夜になった。

家まで送る為に黒服が車を回してくる3分の間に、店の外に立っていた香苗が消えた。急いで近くにいた通行人に黒服が尋ね回ると、不審な車に押し込まれて連れていかれたとの目撃情報があったんだ。すぐに交番に届けたが、失踪届けとしてしか受理されず誘拐としてすぐに捜索はされなかったらしい。」

「どうして誘拐だとすぐに信じて貰えなかったんですか・・・?」

俺の質問に答えるのが辛そうな樫井さんは、拳を握りしめて続きを話し始める。

「・・・あそこは土地柄、急に姿を消す女の子は珍しくないそうだ。大抵の理由はその店が嫌になったとか、スポンサー見つけて自分から消えるとからしいが。

最初に話を聞いた奴も軽く考えて、上への報告を後回しにしちまって・・・香苗が参考人として危険な立場にある事すら、今の今まで知らなかったみたいだ。」


「・・・何が知らなかっただよ。違う。知ろうともしないんだ!

一度足を踏み外した人間・・・レールを真っ直ぐ歩けず逸れた落第者、この世界は・・・そいつらが必死に戻ろうとするのを拒み続ける。

拒まれても蹴られても、必死に自分の宝物を守ろうとしただけの女の子に・・・

なんでそんなに冷たく出来るんだよ。樫井さんには悪いですけど、警察はもう信じられない。俺は・・・幽霊一人一人に聞き込みしてでも香苗を探します。」

これは最低な八つ当たりだ。ノートがあんなになるまで一人で捜査していた樫井さんに一番言っちゃいけない事だ。頭では分かっているのに、怒りが抑えきれない。

「・・・。」

樫井さんは黙っていた。

彼が奥歯を強く噛むギリギリという音が静かな部屋に響く。

俺も何も話さずに帰る準備を続けていると、急に樫井さんの携帯が鳴り始めた。

「はい。樫井。・・・晴見、本庁からの連絡はどうだった?

・・・え!?サイバー課が?パソコンの掲示板?了解。確認して折り返す。」 

樫井さんは大慌てでパソコンに【AOH 掲示板 パペットマスター】と入力する。


 普段はゲームの愛好者たちが会話を楽しむための掲示板サイトなのだろうが、

今はそこにリンクされている動画について、すでに大炎上している模様だった。

フェイク乙とか、通報しました。などの煽り言葉の他に、これ新宿のリンゴちゃんじゃね?かわいそー!などの文字が並ぶ。

樫井さんは震える指で動画のURLをクリックする。

動画は定点カメラで撮影されたものだった。

8畳程の薄暗い部屋のコンクリートの床に、ピンクのドレスの女性が倒れている。

茶色い巻き髪が顔に少しかかっていて良く見えないが、香苗でほぼ間違いない。

充電式の投光器以外に何も家具の無い部屋に突然、画面の横から入り込むようにして現れたのは、足元まである長い黒マントで身を隠した細身の男だった。

ハロウィンの仮装に使いそうな、真っ白い怪人マスクを顔につけている。

「やあ・・・ボクの可愛いシンデレラ。君の偽物を捕まえたんだ。

アレが余計な事をしたから、このままだともう君に逢えないかも知れなくてね。

君がどこに居るのか教えてもらおうとしたんだけど、上手く話せなくなってしまったんだ・・・。でも君は天使と話せる子だから、きっとボクを見つけられる筈!

あの偽物が死んじゃう前に・・・早く会いに来てね。」

もう逃げ切る事など考えていない様で、音声などは加工されていない。

短い動画を見終えると、背筋に氷を押し当てられている様な寒気が襲ってくる。

彼がもう一度杏花さんに会えたら、その場で心中する気なのは明白だった。


「・・・顔を見せないという事は、香苗は解放するつもりでしょうか?」

「あいつは元々、捜査の目を掻い潜って杏花さんを誘拐、監禁することが目的で生きてきた。それを潰されたんだ。香苗の価値はエサ程度にしか思っていない。

・・・自分の邪魔をする奴は全員殺すのが、あいつのやり方だ。」

「高校生と調布の犯人が同一だと、なぜ昨日まで分からなかったんですか?」

俺は昨日のノートを呼んでからずっと引っかかっていた疑問をぶつけてみた。

「幼女誘拐容疑の聴取の時、奴は高校生で自分は道を案内しただけと主張した。

女児にケガもなく、DNAなどの提出までは求められなかった。

指紋だけ、交番で取られてそれで終わりだったらしい。

調布の時は、手袋をしていたんだ・・・。

思わぬ反撃でケガをした奴は咄嗟に手袋を外した。止血した際にうっかりキッチンのシンクに掌を半分付けてしまったらしい。それがあの事件での唯一の証拠だ。」

樫井さんは悔しさを隠そうともせずに、机を拳で殴りつけた。山積みのファイルがバサバサと崩れ落ちる。

「・・・香苗が証拠を提出したせいで全て繋がった。まさか警察に友人がいるとは思わないから、呼び止めるときに咄嗟に肩を掴んでしまったんですかね。」


「あぁ・・・今回も問い詰めれば杏花さんの居場所を言うと思って誘拐した。

しかし、香苗は吐く奴じゃない。それどころか、『警察が証拠をつかんだ。お前はもう終わりだ!』とでも煽ったんだろう。調布の時は・・・杏花さん以外の家族は急所を刺されてほぼ即死だったんだ。自分の好み以外には興味すらないのに、香苗をあそこまで拷問するのは、精神の破綻が近いって事だ。

何が何でも杏花さんにもう一度会う。それしかもう考えていないんだろう。」

樫井さんはそう呟くと携帯をスピーカーにして机に置き、すぐに着替え始めた。

『晴見です。あの子、先輩が連れてきた不審者に付きまとわれた子ですよね?

・・・こんな大事件になるなんて・・・何も出来ず、申し訳ありませんでした』

「いや、悪いのは上を説得できるだけの証拠を掴めなかった俺だから。

晴見、本庁に居るのか?俺もすぐに行く。今すぐに、宮坂の【西嶋 杏花】に対する保護を要請してくれ。誘拐された宮崎 香苗とは同居人だったんだ。

さっきの動画で、犯人が西嶋を誘き出す為に宮崎を誘拐したって事は証明された。

充分、保護の対象になるだろ!?」

『もうやってます!生活安全課から書類を取り寄せて、さっき会議の際に提出しました。もうすぐ許可が下ります。昼までには北沢署と本庁合同で、宮崎 香苗の一斉捜索が開始されます。・・・先輩、あとどれくらいで本庁に合流できますか?』

「さすが晴見だな。俺も1時間以内に着く。係長と課長にも報告しといてくれ!」

スーツに着替え終わった樫井さんはそう短く伝えると、通話を終わらせた。


「夜中にメール来てたんですけど・・・杏花さん、昨日遅くまで朱莉と起きていたみたいなんです。きっとまだ寝てるはず・・・俺が今から家に行って、この動画見ない様に気を逸らせておきます。警察が保護に来たら、彼女を引き渡してから朱莉と一緒に香苗を探します。それでいいですか・・・?」

俺は、もどかしそうに携帯をポケットにしまう樫井さんを呼び止めて問いかける。

あの酷い動画を見てからは警察への怒りよりも、早く杏花さんを安全に避難させて香苗を助けなければ・・・という気持ちで一杯になっていた。

「・・・松宮君。本当にありがとう・・・助かるよ。

杏花さんが、もし・・・このことに気付いたら、絶対に自分を責めるだろう。

・・・一緒に居られなくて申し訳ないと、伝えてくれるかな?」

腹を裂かれた様な悲痛な面持ちで、樫井さんはそう言って俯いていた。



――― 7月19日 月曜日 時刻 9:20 宮坂の西嶋家


 祝日の月曜の静かな住宅街に、輝くような朝日が降り注ぐ。

駅に置いておいた自転車に乗り、急いで走って来た俺はハンカチで額の汗を拭う。

家の前で杏花さんに電話をすると、すぐに電子ロックが解除された。

「松宮さん、夜勤お疲れ様でした。・・・あれ?何かありました?」

眠そうに玄関で出迎えてくれた杏花さんは、怪訝な顔で部屋へと案内する。

フワフワの栗毛は部屋用の艶のあるロングドレスの上でさらさらと揺れた。

杏花さんは何かを感じ取った様な表情で、胸の前で白くて細い手を組んだ。

「いや・・・自転車暑かったから疲れちゃって。朱莉はまだ寝てますか?」

俺はそう言ってごまかして、彼女の目を見ずにリビングへ進む。

ダイニングテーブルにはコップに注がれたミルクが二つ置かれ、端の席ではジャムトーストを嬉しそうに頬張る朱莉の姿があった。

艶のある黒髪は窓から差し込む光を浴びて、天使の輪が出来ている。

いつもと変わらないその笑顔に、安心感が溢れて涙が出そうになった。


「朱莉・・・おはよう。朝から甘いもの食えて凄いな・・・。」

「誠士くんお疲れ様ー!昨日は樫井さんと久しぶりに会えてどうだったー?」

何も知らない朱莉が樫井さんの名前を出した瞬間、あの辛そうな顔が頭をよぎって言葉に詰まってしまう。

上手く誤魔化そうと口を開きかけたが、駆け寄ってきた杏花さんに肩を強く掴まれて心臓が跳ね上がった。

「・・・松宮さん?あの人に何かありました?」

「何もないですよ。昨日一緒に食事をして、彼は忙しそうに・・・」

笑顔で肩を掴む杏花さんの手を下ろして、振り返って続きを説明しようとする俺を見る彼女の目は、今までに見た事のない鋭さだった。

「私がそんな感情の揺れを見抜けないとは思ってないですよね?

・・・あなた達は朝まで一体何をしていたんですか?」


「えっ!?誠士くんバイトって嘘なの?樫井さんと二人でって・・・えーーー!」

「い、いや・・・違うから。朱莉はちょっと黙ってて・・・お願いだから。」

とんでもない勘違いをしてそうな朱莉が騒ぐのを、俺は両手を振ってやめさせた。

「・・・実はバイトは休みで、樫井さんの仕事の話を聞いてました。久しぶりに話が盛り上がって飲み過ぎて、ちょっと家に泊まらせてもらってただけですよ。」

杏花さんは俺の言葉を殆ど聞いてはいなかった。

遠くを見るような目でキッチンのハーブの鉢植えを見つめている。

「松宮さんに香苗さんの感情がまとわりついてます。それにあの人の悲しみも。」

「・・・。」

頭の回路が止まりそうだ。人を騙すことがこんなに苦しいなんて、友達すらいなかった頃は知りもしなかった。

「ちょっとトイレに行ってきます。」

杏花さんは意外にそれ以上の追及はせずに、廊下の方へフラフラと出て行った。

俺も膝から崩れそうになり、食卓の椅子に倒れる様に座る。


「ちょっと!誠士くん・・・今のはどーいうことなのかな!?

私たちに内緒で樫井さんと一緒に香苗さんを探して、会って来たってこと?」

困惑した顔の朱莉は俺の隣に来ると、テーブルに手をついて顔を覗き込んできた。

フワッと桃の香りが漂い、張り詰めていた心の糸がぷつっと切れる。

気付けば俺は、座ったまま彼女の腰に抱き着いて嗚咽を漏らしていた。

甘い匂いと柔らかい胸のぬくもりを感じて、幸せを感じたかった訳ではない。

『・・・何があったの?』そっと頭を撫でながら、朱莉は俺の耳元で囁く。

「俺は・・・最低だ。香苗が死ぬかも知れないのに、あの床に転がってたのがお前じゃなくて良かったって、どうしても考える。・・・こんな考え方しか出来ないから、樫井さんが一番守りたかった杏花さんを安心させる事すら出来ないんだ。」

もう、逃げ出したい。楽な方へ流れて朱莉だけを傍に置いておけたら・・・どれほど安らげるだろうか?事件も、悲しみも、人が死ぬのも、もうたくさんだ。

「頑張ったね。・・・もう大丈夫、一緒に戦うから。」

慌てる事も騒ぐこともせず、朱莉は俺の背を撫でながら力強い言葉を口にした。


「大切なモノ、守るべき宝物を一つに選べぬと言うのなら、重荷は皆で分け合おう。・・・全員でまた笑えるように、もう一度だけ頑張ってみないか?誠士。」

朱莉から手を離し、声のした方へ顔を向けてみる。


 御影は優しい薄緑の瞳で真っ直ぐに俺を見ていた。

アメとウカの宝玉をはめ込んだ首輪を巻き、二人の白狐を従えている。

ずっと一人だと思って生きていた人間にも、やり直すチャンスがあるのだろうか?

途切れた心の糸を繋ぐことが出来るのは、人との絆だけなのかも知れない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る