足りない

 樫井さんが『もえしゃん』と注文した時は、一体どんな萌えメニューが来てしまうのかと脳内が混乱したが、目の前のグラスに注がれた発泡酒は店内の照明が反射してキラキラと泡の螺旋を描いており、とても美味しそうに見える。

俺と樫井さんの間に挟まる様に座った香苗は、グラスを嬉しそうに光にかざした。

3人で乾杯したあとに一口飲んでみる。

味は甘いスパークリングワインの様だが、刺激の少ない炭酸が上品な印象だった。

「ウマー・・・いつものハイボール缶の100倍うまーい・・・。」

樫井さんは天井のミラーボールを見つめて自分に言い聞かせるように呟く。

「値段が100倍だしねー♪」

香苗がそう笑って樫井さんの頬をつんつんと指で突いたとき、頭の中で200円×100を計算した俺は驚いて咳込んだ。

「ゲホッ! え・・・これで?同じようなのスーパーで3,500円だけど・・・。」

「あぁー・・・きっと、私が手渡した手数料で16,500円なんだよー!」


(・・・もう絶対来ない。)


 樫井さんがヤケになって一気飲みするので、すぐにボトルは空になった。

黒服はすかさずメニューを持ってきて香苗の横に置き、小声で話しかける。

「リンゴさん。マユさんがヘルプに付こうか?とおっしゃっていますが・・・。」

「えー?いらなーい!このお兄さん達はー、私が引っ張った客だからねぇー。

イケメンと話したいなら自分で指名入れてもらいなって言っといてー♪」

香苗がそう言って笑顔で視線を投げかけた先のテーブルを見ると、金髪をアップにまとめ上げた女性が物凄い怒りの形相で香苗を睨んでいた。

入り口に人気No,1と飾られていた輝く笑顔の写真とは、似ても似つかない表情を見てしまい、俺の背中に嫌な汗が伝う。黒服は慌てて下がって行った。

「おい・・・あんまりケンカ吹っ掛けるなよ。」

「マユたんねー、あぁ見えて暇さえあればネットゲームと掲示板に張り付いてる子なの。私、どうせ今日で終わりだし・・・もうひと炎上させとかなきゃねー!」

香苗は焼酎の水割りをクルクルかき混ぜたマドラーで、マユの方を指して話す。

そして、困ったような顔で頭を掻く樫井さんに、真剣な眼差しを投げかけた。


「・・・樫井、あのガキのパソコンで何を見たの?」

「それは・・・教えられない。勝手に見た事だから、報告書すら書けねーんだ。」

樫井さんは悔しそうにグラスを傾け、香苗が作った水割りをすぐに飲み干す。

「当てようか?そのスクショは『Angel of Hell』ってネトゲのスレッド欄を切り取ったもので、パペットマスターがアピコってキャラを尋ねまわってるの。

アピコはアプリコットをモジったもので、APRICOTは日本語であんずっていうの。

杏花はネトゲのキャラには必ずその名前を付けてる。・・・違う?」

そう話し終わると、香苗は自らもグラスのシャンパンを気怠げに飲み干した。

樫井さんは呆然としたまま彼女の瞳の奥を見つめている。

「・・・香苗って、本当はどこかの諜報機関のスパイか何かなの・・・?」

思考が止まりそうな頭をフル回転させて、やっと絞り出した俺のセリフは意味の分からない物になってしまった。


「アハハ!誠士って頭良いのにさ、時々朱莉にそっくりだよね。本当にお似合い!

・・・小賢こざかしくないと生き残れない深海にある日突然、1人で置いていかれたら、

誰でもこうなると思う。杏花も根底の部分はそうなんだよ・・・きっと。」

恥ずかしさと香苗の辛い過去を想像したショックで、俺の胃はキリキリと痛んだ。

樫井さんは何かに物凄く苛立った様子で焼酎のボトルを掴むと、自分でドボドボとグラスに手酌してから氷を突っ込む。

「あの日・・・署に行った時、服を脱がされた。もちろんTシャツ貸してくれたよ?

ちゃんと鑑識の人は、私のシャツから掌紋も取れたって言ってくれた・・・。

でも、そのあとに来た若い警察官はね、私の前科の書類を並べて言ったの。

『君はお金に困っていそうだし、正直その格好を見ても示談金目当てで、自分から

痴漢を探しているようにしか思えない。上からの指示だから鑑定はするけど、優先順位は低いから時間かかるよー。』ってね。」

グラスをかき混ぜ終えたマドラーを樫井さんが割る、バキッという音が響いた。


「な、なんだよそれ!立派なセカンドレイプじゃないか。なんで抗議しないの?」

あまりの腹立たしさに気持ち悪くなりそうだった。

そんな俺の握りしめた手を押さえる様に自分の手を被せ、香苗はまた口を開く。

「いや、私はそんなの言われ慣れてるから別にいいの。ただ、『金なんかいらない。この男が私の同居人を狙いそうで怖いから、警備くらいは増やしてくれ』って私が言った時にさ、お前が毎日その人の家に帰ってる事が狙われる原因だ!とか言って全然相手にしてもらえなかった。・・・一番許せなかったのは、杏花は酷い事件の被害者なんだよ?って食い下がった時、『そんな元々危うい精神状態の人間は、被害妄想が酷くなるから誰かと一緒に暮らさない方が良いと思うよ』だとか言いやがった事だね。もう私がおとりにでもなって死なないとダメかなって思った。」

香苗はそう話し終えると、長い溜息をついてまた酒を作り始めた。

どれだけの絶望を味わったら、大切な人の為に自分が死ぬしかないと考える様になってしまうのだろうか?

道を一度踏み外してしまった21歳の女の子に、世界はあまりにも冷たかった。

「・・・たとえ、それでやっと捜査が本格的になって犯人が捕まったとしても、

杏花さんの心は死んでしまうと思うよ。生霊に戻るかも知れない・・・。

なにより、俺は・・・香苗だけがこの腐った世界の犠牲になるなんて許せない。」

俺は彼女の手をぎゅっと握って、生きてて欲しいと必死に想いを込める。


「・・・科捜研の鑑定、やっと順番来て今日中には終わるそうだ。

調布の事件の物と、合わせて鑑定する様に依頼したから時間がかかったんだ。

これで世田谷付近にあいつが来た事を証明できるし、杏花さん宅の警備も増やしてもらえると思う。香苗のくれた人相書きが活用されるから、きっと犯人の行動範囲

も制限される様になると思う。柳瀬家の少年も退院したから、きっと情報提供してもらえる。知能犯係にIPアドレスの特定を依頼してみるよ。

・・・香苗ごめんな。長い間一人きりで戦わせてしまって申し訳なかった。」

樫井さんがそう言って真っ直ぐ香苗を見つめると、香苗は照れたように下を向く。

「へ、へぇー。警察もやればできんじゃん。・・・あのガキ、元気になったの?」


「うーん・・・足が動かないって知ったときはかなり落ち込んでたらしいけど、

母親が保釈された後はずっと一緒にいて元気だし、捜査にも協力的だよ。

宗教団体の方にも、事件を知った他の被害者から訴訟が殺到してるらしくてな、

そのうちきっちり詐欺や虐待で捜査の手が入るって噂だ。

ただ・・・少年は、生霊になってからの記憶は無いんだ。

ひきこもりの時のネトゲの事については話を聞けると思うけど、朱莉ちゃんの身体の居場所の事は、もう聞けそうにない・・・。松宮君、本当に残念だよ。」

そう落ち込んで語る樫井さんの言葉は、俺もどこかで予想していた物だった。

自分でどうにかするつもりなのには変わらないので、何も問題はない・・・筈だ。

なぜか胸の奥がザワザワと音を立て、締め付ける様な痛みが押し寄せる。

しかし、俺がその先の答えに辿り着くのを阻むかのように、甲高い声と共に強烈な薔薇の香りが襲ってきた。

「こんばんは!マユでーす!」

香苗を見下ろす様に立っているマユの後ろから、黒服は『すみません・・・リンゴさん、他のお客様から御指名です。』と申し訳無さそうに声をかける。

香苗は軽く返事をしてソファから立ち上がると、颯爽と店の奥に消えて行った。


 マユは細身の体の線にピタッとくっついたブルーのドレスを着ているのに、かなり深めにソファに腰かける。

太もものスリットがギリギリまで捲れ、目のやり場に困ってしまった。

俺の左半身は薔薇の花壇に押し付けられているかの様な、濃厚な匂いに包まれる。

樫井さんの隣もすでに、馴れ馴れしくボディタッチをしまくる、もう一名の女の子に占拠されていた。

「えー!IT企業の社長さんなんて、ぜーったい嘘でしょー!

・・・この硬くて大きな背中はぁー、普通の筋トレだけじゃ作れないですよぉー。

100%格闘技を使う仕事ですね!ナナの筋肉を見る目を侮らないでくださいっ!」

自分が考えた設定を軽く見破られてショックなのか、背中を撫でられてくすぐったいのか、樫井さんはずっと身をよじって苦笑いしていた。

「でもぉー最近の社長さんは時間の有効活用をされるから、きっとパーソナルジムに通われてるんじゃないかしら?お兄さん達は大学の先輩後輩なんですか?」

マユは樫井さんと俺を見て、交互に微笑みかけながら手早く酒を作る。

「え・・・っと俺は東工大ですから、樫井さんとは勉強したかった分野は別なんです。新社会人向けの就活パーティーでお誘い頂いたのがきっかけで・・・。」

我ながらスマートな回答だったんじゃないかな?と思いながら、チラッと隣のマユを横目で見ると・・・想像以上の目の輝きをしており、俺はやり過ぎたと悟った。

「えー!物凄ーく、頭良い大学ですよね!?お二人は良いご縁だったんですねー!

素敵な御関係でいらっしゃいますね♪マユ、繊細そうな天才肌の人が凄いタイプなんですー!お兄さんの事、もっと教えて欲しいなぁー。」

「・・・。」

マユは言葉に詰まる俺にはお構いなしに、勝手に俺の腕に絡まってギュウギュウと胸を押し付けてくる。


 学歴社会の現実を痛感させられ、思ってたよりも落ち込む。

樫井さんと目が合ったが、これ以上人生を盛れるメンタルは持ち合わせていない。

むせ返る様な香水の匂いからも、打算にまみれた偽物の笑顔からも、一刻も早く逃げ出したかった。

「俺は研究のレポートがあるのでそ・・・そろそろ失礼します。

・・・という訳で、マユさんすみません。樫井さん、お釣りはいりませんので!」

用意していた2万円をテーブルに置いて、一気に俺がそう言うと女の子2人はなぜか怪訝な顔でテーブルと俺の顔を見比べる。

「松宮君、たり・・・うん、俺も払ったら行くから向かいのコンビニで待ってて!

・・・あ、すみませんチェックで。」

樫井さんは何か言いかけたが、黒服を呼びながら俺に手を振った。


 コンビニで瓶に入っている胃薬を選んでいると、香苗から『ワンセット持たないなんて流石だね!明日からまた宜しくー。』と良く分からないメールが届く。

後から走ってきた樫井さんは、まだ酔う程の量ではない筈なのに少し顔色が悪い。

「松宮君、今日は夜勤って言って家を出たんだよね?・・・まだ21時だし、時間潰すのも大変なら家に泊まって行く?シャワー貸すよ!匂い、キツイんでしょ?」

「えー!悪いですよ・・・朱莉は杏花さんの家に居るみたいなんで、自宅帰っても大丈夫そうですけど・・・あ、でも確かに匂い部屋に移るかも。」

そう言って俺が悩んでいると、樫井さんは『俺も明日は香苗の事迎えに行くから早めに寝るつもりだし、部屋自由に使って良いから気にしないでね!』と笑う。

お言葉に甘えて、俺はこの年になって初めてのお泊り会をさせて貰う事に決めた。



 樫井さんのマンションは警察署からは少し離れた場所にあった。

割と綺麗な外観なのだが、意外にも賃貸なのだという。

部屋は・・・空き巣の帰った後のような状態だったが、水回りは綺麗に掃除されていた。

「おじゃまします・・・あれ?バスルームとキッチンだけ新築みたいですね。」

「ごめんねー汚くて!・・・え?あぁー!これね、ウチの親父さー部屋はどうでも良いけど、風呂トイレ台所を汚すと女はマジでキレる!って持論があったみたいで、子供の頃からそこの掃除だけは徹底して覚えさせられたんだよね・・・。」

「・・・なるほど。勉強になります。」

1LDKの間取りは俺のボロアパートより全然広い。(普通に使用すれば)

寝室はドアを隔てて完全に個室になっていて、バスとトイレも分かれていた。

しかし、学生が使うような勉強机はファイルや本で埋め尽くされていて、隣にあるカラーボックスやラックも殆どが仕事の関係の物で溢れている。

せっかくたっぷりとある収納棚も、扉が少し開くほど何かが詰まっていた。

クローゼットもスーツや私服でパンパンで、閉まらないのか面倒なだけかは不明だが、扉は開けっぱなしになっている。


(・・・か、片付けたい。)


「先に風呂入って来ていーよ!服はコレで何とかなるかな?寝間着はジャージしかねーけど!」

そう言って樫井さんは消臭スプレーとジャージを手渡してくる。

「わー!本当にありがとうございます!」

一刻も早く薔薇の匂いから逃げたい。俺は感謝を伝えてすぐ風呂場へ駆け込んだ。


 大きすぎる借りた服を鏡で見て、彼女かよ・・・と自分の貧弱な身体に呆れる。

部屋に戻ると、樫井さんは机に向かって何かの書類を読んでいた。

すでに食事をする机は壁に寄せられ、布団セットが置かれている。

「すみません、色々ありがとうございます。」

俺がそう言うと『俺も入って来よー!あ、冷蔵庫のお茶勝手に飲んでね!』とキッチンを指差して行ってしまった。

言われた通り冷蔵庫を開けてみる。何も調味料がない台所を見る限り、飲み物しか入ってないだろうな・・・と思っていたのだが、意外にも節約主婦の様なタッパーで一杯だった。

1つ1つの箱に付箋が貼られていて、丁寧な字で日付とメニュー名が書いてある。

荒れ放題の部屋の状態をかんがみるに、この作業をしたのは彼ではない。

小さなペットボトルのお茶を一つ貰い、リビングに戻る。


 古紙置き場の様な机から、ファイルが落ちそうな音がしたので駆け寄って直す。

中央の開いたままのノートを見てしまい、心臓が止まりそうな程の衝撃を受けた。

様々な容疑者の名前と罪状、前科の履歴がびっしり書かれていて、そのどれもが幼女に対する暴行や誘拐、わいせつの類だ。

その中の一つに大きく線を引いてあるものを見つけ、思わず手に取ってしまう。

内容は、(20年前に都内の写真スタジオに家族で七五三の記念写真を撮りに訪れていた、7歳の少女がドレス姿のまま一時行方不明になり、5時間後に2キロ離れた公園で見つかった。マスク姿の男子高校生と一緒にいたという目撃情報から、1人に事情を聴いたが証拠がなく未解決)というものだった。

樫井さんの字で(現場は調布市)と書き足されている。

少女の証言として『大きくなって、シンデレラになれたら迎えに来ると言っていた。』とも書いてあった。

香苗の証言を思い出し、鼓動が制御できない程に速さを増す。

(推定年齢、思想、嗜好、行動範囲、全て合致・・・証拠が足りない。)


 樫井さんの書き込んだ文章からは、もどかしさに苦しんでいる様子が痛いほどに伝わってくる。

書き終わった後でずっとペンを押し当てていたのだろうか?

足りない。という字の最後はインクが滲み、紙に穴が開いていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る