番外編 別れの言葉 (後編)

 二人の刑事に追いかけられながら、全速力が続く犯人は少ない。

神野は羽根木公園へ入ると、生い茂る木々に紛れながら逃げ回っていった。

「樫井!あの廃工場へ向かいながら応援要請。俺はこの公園に緊急配備の連絡した後そっちに向かう!」

梅沢は携帯を取り出して立ち止まると、肩で息をしつつ右手で合図を送った。

林を抜けて住宅街へ戻った樫井は北沢署に応援要請をし、息を切らしながら公園の外れにある廃工場を目指す。

犯罪者の深層心理では、焦っている時ほど自分が通い慣れた場所に身を隠したくなるようで、通行人に確認した神野の足跡も案の定、工場へと向かっていた。


 両肩に感じている重みのせいか、かなり体力が削られている様子で通話を終えた

樫井は、工場付近の住宅のブロック塀に身を隠した。

廃工場の方を確認すると、入り口を封鎖するチェーン内側の赤土に真新しい靴跡が残されており、それはガラスの割れた薄暗い施設内へと続いている。

応援が来るまで待機の指示を受けた樫井は、膝に両手をついて深呼吸をした。


 不意に、肩の重みが無くなって呼吸が楽になる。

それから30秒もしないうちに、廃工場内の施設から梯子が倒れたかの様な騒音が聞こえてきた。

『!?施設の裏に抜け道でもあんのか・・・』慌てて工場の裏手へ向かおうとして、

樫井は突然立ち止まる。

軽く息を吐いて軽くなった肩に右手を当てると、静かに目を閉じて考えを巡らす。

再び前を向いた樫井は、迷わずに入り口のチェーンを飛び越えて行った。


 外が曇りの為、電気の全て消えている廃工場の施設内は真昼でも薄暗い。

スクラップ類はもう殆ど残っていないが、ロープや様々な工具が放置され、物陰が多くなっていた。

先程の大きな音の原因と思われる、壁から倒された鉄製の収納ラックが建物の中央で土埃を舞い上がらせている。

樫井は物音を立てない様にそっと歩いて進む。フォークリフトの裏側と座席の下、

2メートル四方の巨大な鉄屑の保管容器の中を順に確認していった。

横の壁際を見ると、若者がパーティーに興じた痕跡のロケット花火やラッカースプレーの残骸が散らかっており、コンクリートが剥がれた壁は卑猥な落書きに埋め尽くされている。


 建物の奥まで進んだ頃、急にパキッという鋭い音が聞こえて足元に目を落とす。

樫井のボロボロの革靴が、割れて砕けたビール瓶の欠片を踏んでしまったようだ。

ハッとして周りを見回そうとした瞬間、何かに強く背中を押され突き飛ばされた。

同時に金属が地面に叩きつけられる嫌な音が響く。

振り向くと、先程まで自分が立っていた場所に落ちた足場用の長い鉄パイプと、

その後ろの空間にフワフワと浮かぶ赤い消火器が視界に飛び込んできた。


 咄嗟に樫井は二階の天井クレーンの足場を見上げて目を凝らす。

そこにはもう一本の鉄パイプを握りしめたまま唖然とする神野が、あまりの驚きで隠れることも忘れて突っ立っていた。

樫井は何も言葉を掛けずに手の汗と土埃をズボンで拭き、非常階段を駆け上がる。


 クレーン作業用の足場の端に追い詰められた神野は、震える両手で鉄パイプを掴み、先端を樫井に向けて構えていた。

「お前、本当に警察か?さっきの意味わかんねー現象は何なんだよ!?」

「落ち着け、こんな所でそんなもん振り回したらお前も落ちるぞ。

神野 征臣かみのまさおみだな?今、手帳を見せるからな・・・取り敢えずそれは下に落とせ。」

相手の震えが止まるまで待ってから、樫井はゆっくりと話しかける。

胸ポケットから警察手帳を出して見せると、神野は薄ら笑いを浮かべながらあっさりと鉄パイプを1階へ投げ捨てた。

「自分からリスクは負わない・・・か。よし・・・そのまま手を出せ。」

樫井は湧き上がる怒りを必死に抑える様に拳を握り、少しづつ神野に近づく。


「ねー!あんた1人でここに来たの?頼むよー・・・見逃してくれたらヤクザの情報いくらでも教えるし、刑事さんの数年分の給料くらいの金はすぐ用意できるよ?

あー・・・もし可愛いペットがご希望なら、調教済の良いのが揃ってるよー!

ねぇ?どーかな!?旨い話乗ってかない?」

そう言って神野は両手をポケットに入れて、片方から金文字の悪趣味な名刺と数十枚の札束を掴んで樫井の足元に放り投げた。

 

 怒りに引き攣る表情で名刺を踏みつけて進んでいた樫井は、神野の2メートル手前でハッとして立ち止まる。

「もう片方の手にあるもコッチヘ投げてくれるかな?」

樫井が笑顔でそう伝えると、神野は舌打ちをしてバタフライナイフを投げ捨てた。

「はい。両手出して膝をついてね。13時23分、公務執行妨害で現逮します。」


 手錠を掛けられて一緒に非常階段を降りる間も、神野はあまり焦った様子は見せなかった。

「あんた本当に何なんだ?エスパー的ななにか?」

「・・・運が良いんだ。天使にあんまり怒るなって言われたの守ったからかな?」

神野は意味が分からないといった表情で、床に唾を吐いてまた話し出す。

「まぁー俺もそこそこ運が良いんだけどね。どうせ決定的な証拠なんて出てこねーだろうし、可愛い羊たちはよぉーなぜか俺の前じゃ言葉が上手く喋れねーんだ。」

そう言って隣でせせら笑う男の顔は、美しく整っているのに酷く醜く歪んでいく。

直視に堪えなくなった樫井は、ふと出口付近の壁に視線を移す。

なぜか地上から4m程の高さに、真新しい落書きが増えていた。

『仲間でも居たのか?』と聞きながら樫井は辺りを見回すが、どこにも人の気配はない。

そもそもあの微妙な高さは梯子などがない限り、人の手は絶対に届かない位置だ。


微かなスプレーの匂いが鼻を突いたのか、神野も同じ方角に顔を向ける。

そこに書かれていた真っ赤で歪んだ文字は、血を塗りたくって描いた様に見えた。

【かみさま、ジゴクヘおちろ】

「あぁ・・・そうか。なかなかカッコいい別れの言葉だな!最高じゃねーか!」

樫井は吹き出しそうな笑いを噛み殺しながら神野の肩を軽く叩いた。

神野は肩を揺すって手を振り払い、『意味分かんねー事言ってんじゃねえーよ!』

と言いながら樫井を睨む。


「ゆっくり意味を考える時間はあるだろ。今まで不幸にした全ての人間に懺悔しながら裁きを待つんだ。」

樫井はそう呟くと、何台ものパトカーのサイレンが近づく音が聞こえる施設の入り口の方を向き直した。ちょうどそこへ腰縄を持った梅沢が駆け込んでくる。

顔見知りなのか、流れる汗を笑顔で拭う梅沢を見た神野は、あからさまに嫌そうな顔をして目を逸らした。

「よー!さすが非番デカだなぁー!たった一人でホンボシ捕まえちゃうとは!

おーおー神野ちゃん!今日もオシャレだね!外にお迎えの車をご用意しときましたよ。そういえば、本当にお前を助けようと迎えに来てた女の子達ねー、さっき外で捕まえたらお前に言いたい事あるって騒いでたよ!いやぁーモテるねー!」

梅沢に笑われて苦虫を嚙み潰したような顔になった神野は、促されるまま外に出ていく。


 民家から出てきた野次馬だらけになった為、工場前には規制線が張られていた。

無数のパトカーの他に、軽のワゴン車と赤いスポーツカーも停車しており、傍らにはそれぞれ若い女が立っている。数名の警察官に囲まれて話を聞かれていた女は、

神野の姿を確認すると、烈火の如く怒りを投げつけてくる。

「まーくん!この女誰なの!?頼りになるのはお前だけだよって言ってたじゃない・・・今日だって仕事のトラブルだから車出してって言われて来ただけなのに、

いきなり警察に捕まったんですけど!?どういう事か説明してよ!!」

ワゴン車の女子大生風の女は、突然手を振り上げて甲高い金切り声で喚き散らす。すぐに慌てた警察官にパトカーへと押し込められた。

キャリアウーマン風のスーツの女は、泣き叫びながら神野の方へ近づこうとして、

前者と同じように取り押さえられると、『全部バラしてやる!地獄へ落ちろ!』

と大声で怒鳴って中指を立てた。

まるで珍しいショーを楽しむかのようにスマホで動画を撮る若者達を、呆れた様子で見回した樫井は、『撮るのを止めて頂かないと内容を確認させてもらいます!』と片手を振って制止した。


「闇を感じるよなー樫井。」

神野を他の警察官に引き渡した梅沢は、そう言って樫井の肩に手を置いた。

疲れ果てた様子の上司を見て、樫井は『色々面倒かけて申し訳ありませんでした。』と頭を下げる。

「ほんとさー・・・非番デカじゃなくて、始末書デカって呼ぼうかな!」

『いやぁー・・・それは』と頭を掻きながら樫井が項垂れた所へ、『お疲れ様です!』と威勢のいい挨拶が飛び込んできた。

1台のパトカーの隣にいた若い警察官が、『駅前の覆面までお送りします!』と二人に敬礼しながら車のドアを開ける。

軽く手を挙げて先に乗った上司に続いて、樫井は運転手に礼を伝えて乗り込む。


 ゆっくり人の波を掻き分けて進む車の後部座席で、樫井はぼんやりと窓の外を眺めていた。

不意に、梅沢が樫井の肩を叩いて折り畳んだメモを渡す。

不思議そうに樫井が紙を開くと、【清田総合病院 救急2番 女性は無事】という

文章と電話番号の走り書きが書いてあった。

「お前みたいな真面目な男がルールを破る理由は・・・しかねーからな!」

樫井が口を開こうとするのを手で制した梅沢は、笑顔で腕を組んでそう呟く。

「あ、ありがとうございます。」

呆気にとられながらも上司に深く頭を下げた樫井は、メモを大事そうにポケットにしまった。


 現場検証が続く駅前のロータリーは鑑識や警察官などで一杯だが、すでに通行人の興味は薄れたようで、立ち止まる者は少ない。

シルバーの覆面パトカーの助手席に梅沢を乗せた後、運転席に戻る前に樫井はふと空を見上げた。

ビルの間から見える曇り空を割って、少し傾いた日差しが天使の梯子の様に降りてくる。

樫井は柔らかな表情で『またな・・・香苗。』と呟くと静かに車のドアを開けた。

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