はじめてのケンカ
いつも通りコールセンターでのバイトを終えた俺は、疲れた顔の事務員の女性から日当を受け取った。
夕暮れの街並みを歩きながら、同居人が朝の見送り時に食べたがっていた夕食の材料について考えを巡らす。
――― 4月28日 水曜日 雲の合間から夕陽が差す帰り道
生霊の同居人である
今朝は訳の分からないスパイスを使ったタイ料理が紹介されていたようで、寝起きのハッキリしない頭の俺に、『誠士くん!スイートチリソースとパクチー、ナンプラー買ってきてね!』と呪文のような調味料名を早口で注文した。
居候しているからと家事を進んでやってくれるのは助かるのだが、男の一人暮らしとは到底思えない食費がかかるのが、最近の俺の悩みの一つだ。
だったら正社員を目指して沢山稼げばいいんじゃないか?と普通は思うのだろうが・・・結婚するつもりで始めた同棲でもなければ、そもそも付き合ってもいないので、どういう覚悟をしたらいいのかすらよく分からない。
まぁ、そんな理由は後付けで、前から高卒ドロップアウトして進学も就職もしていない自分の現状にはストレスを感じていた。
独りきりの時はそんな状況にも目を
最近は浪費傾向にある朱莉と毎日一緒にいる他、杏花さんや樫井さんなどの金銭的余裕のある社会人と関わる事が多くなった分、余計に焦燥感に駆られてしまう。
コンビニで済みそうにないので、遠回りしてスーパーへ行かなければいけない事を少し面倒に感じていると、急に携帯のメッセージの着信音が立て続けに鳴った。
『樫井です。今日のニュースを添付するので見てね。』
『ということで、清田総合病院に杏花さんが居るんだけど、俺は色々あって行けないんだ。松宮君、仕事が終わったら代わりに迎えに行ってくれないかな?』
『あ、女物の服、なんでもいいから上下とスニーカー1つ買って行ってくれる?』
『お金は今度返すね。』
『杏花さんは家の前まで送るだけでい』
相当、忙しくて焦っていたのだろうか?一分置きくらいに細切れにメッセージが送られており、最後の文章は書きかけのままで送信されていた。
只事ではない雰囲気を感じ、慌てて添付の共有ファイルを開く。
そこには渋谷の不良グループの一斉摘発のニュースと、それに伴う逃走車の暴走、
人身事故の模様を捉えた視聴者提供の動画がアップされていた。
良く見えなかったので、自分でネットニュースの動画掲示板を開く。
物凄いクラクションに驚いた人が慌ててスマホで録画を開始する映像から始まった動画は、黒いドレスの女性が立ち止まり、突然車の前から消える様子、その後に背の高いスーツの男がその女性を抱えて助け出す様子が記録されていた。
コメント欄はヒーローを称えるスラングに溢れ、真面目な分析も書き込まれている。樫井さんはもう特定されていて、女性ユーザーの熱狂的なラブコールとそれを揶揄して煽る者たちの舌戦まで繰り広げられていた。
関連動画にも樫井さんはタグ付けされていて、女子大生やOLがホストの様な男に掴みかかろうと大騒ぎして連行される様子を映した動画には、気分の悪くなるような辛辣なコメントが付け加えられる編集がされている。
重苦しく沈んだ気持ちを立て直そうと、夕日が隠れる手前の綺麗な群青色の空を見上げた。
もし、朱莉に出会わなければ・・・
薄暗い部屋でパソコンを弄り、他者をバカにしながら現状から目を背けている自分を想像し、胸の奥が痛む。
呆れた顔の樫井さんに、あの場でたしなめられていたのは俺だったかも知れない。
そんな、嫉妬するのも馬鹿らしい本物のヒーローの動画を見せつけられた後で、
もう一度メッセージを読み返した。
焦った様な短絡的な文章の最後に、書き切れなかった言葉。
そんな心配をしなくても、彼女の気持ちは揺るがないと思うのだが・・・。
案外、可愛い所があるヒーローの始末書に埋もれた姿を想像すると、不思議と心が軽くなり、自然に笑みがこぼれる。
疲れた目を少しこすった後で、俺は駅の近くのカジュアルな服屋へと向かった。
樫井さんが話を通していたのか、俺が身分証明をするとすぐに病室へ通された。
医師の診察も警察の事情聴取も終わったのだろうか?小さな個室には眠っている杏花さん以外の人影は無い。
会計を済ませれば今日は帰って構わないと受付で説明されたので、少し様子を見てから起こそうと思い、取り敢えずベッド脇のパイプ椅子に腰を下ろした。
その微かな音に気付いたのか、杏花さんはうなされる様に動いて目を覚ます。
声を掛けようと近づいた俺の顔を見て一瞬、恐怖の色を浮かべた杏花さんは、
『なんだ松宮さんか・・・』と呟いて、ゆっくり身体を起こした。
「すみません俺で・・・樫井さん署に缶詰めみたいで、おつかい頼まれました。」
そう言って俺が服の入った紙袋と受付で預かった彼女の私物を渡すと、杏花さんは
『あ・・・そういう意味じゃなくて・・・。すみません。』と俯いた。
「これ、量販店の服を適当に買ったやつなんで、帰るまで着てサイズ合わなかったら捨てちゃってくださいね。あと、猫缶と杏花さんのバッグです。」
『杏花さんの身支度が終わるまでロビーで待ちます』と伝えた俺が部屋から出ていくのを、彼女はなぜか微妙な苦笑いで頭を下げて見送る。
結局、家に着くまで杏花さんは事件の話も、樫井さんの話もしなかった。
ひたすら感謝したかと思えば、『この服ピッタリですね!』と突然喜んだりして、
掴みどころがない様子のまま、別れを告げて玄関の中へ入って行こうとする。
荷物を部屋まで運びますと言いかけて、俺は樫井さんの重要な言葉を思い出す。
「杏花さん!ちょっとこれ見て!」
そう言って携帯の樫井さんのメッセージを開いて見せる。
「ヒーローに怒られたくないので、荷物は玄関の中に置いてこのまま帰ります!」
俺が冗談めかしてそう言うと、杏花さんは少し恥ずかしそうに微笑んだあとで、
『本当にありがとうございました!』と深々と頭を下げてから玄関の扉を閉めた。
――― 午後9時過ぎの静まり返ったボロアパート
俺が二人分のコンビニ弁当を持って帰宅した時、部屋の明りは点いていたが・・・同居人の朱莉はテーブルに突っ伏して眠っていた。
肩を揺り動かして起こし、すぐに遅くなったことを謝ったのだが、パニック気味の彼女は『え!?大丈夫?事故かと思って心配したんだよ!どこ行ってたの?』と、
早口で捲し立ててくる。
「ちょっと落ち着いて・・・色々あって、樫井さんの代わりに杏花さんの事を家まで送って来たから遅くなったんだよ。ほら、こんな感じで・・・今日の、」
「えー!杏花さんのお家に一人で行ったの!?朝は何も言って・・・」
俺が樫井さんのメッセージと動画を見せようとするよりも先に、何も話が耳に入らない様子の朱莉が口を挟んだ為、先程から感じていたイライラと疲れはピークに達した。
「あのさぁ、俺は機械みたいに働いて朱莉の言う通りの買い物して、真っ直ぐ帰るしか選択肢無いわけ?なんで杏花さんの家に一人で行くのダメなの?
俺は朱莉の所有物でもないし、逆に、そっちの普段の行動に口を出した覚えもないけど!?」
言い過ぎた・・・そう思った瞬間にはもう、彼女のテンションは海の底の様な静けさに変わっていて、真ん丸の目にはうっすら涙を浮かべていた。
「ご・・・ごめんなさい。連絡手段がないの・・・なんか、その・・・不安で。
誠士くんが居なくちゃ、私は買い物も出来ないし・・・誰とも話せない。」
(・・・それはずるいよ・・・。)
普通の人と違うことの不安感を訴えられてしまったら、何を言い合ったってコッチが悪者になる。
よくよく考えてみれば、小さい子が母親と一緒に居る時間を他者に奪われた時に、
大泣きして抗議するのと同じだ。
自分を守ってくれる立場の者が、目の前から居なくなる可能性を潰したいだけ。
心のどこかで俺は、『あなたが好きだから取られたくないの』とでも言われることを期待していたのかも知れない。
しかし結果は・・・朱莉の自分に対する独占欲が、愛情から来るもので無いことを再確認しただけだった。
自分の浅はかさと幼さに嫌気がさす。でも、泣きたいのは俺の方だ・・・。
そんな考えがグルグル巡って、彼女の言葉へ何も反応を返せずに黙っていると、
朱莉は肩を落として落ち込んだまま、玄関をすり抜けて出て行こうとし始める。
「俺は出ていけなんて言ってないからね!」
焦って口を
掴んだ細い腕はひんやりと冷たくなっていた。
最近は投げやりに歩んで来た人生に疑問を持ち、樫井さんに憧れて誰かを助けたいだなんて思ったりもしていた。杏花さんに余計なお節介をする余裕すらあった。
自分は確実に成長出来ていると、変な自信があったが楽観的過ぎたようだ・・・。
いつまでたっても朱莉の気持ちだけが良く分からない。
自分の気持ちを素直に伝えもしない癖に、理解して欲しいだなんてズルい考えだ。
そう頭では痛い程分かっているのに、結局言葉になって出てきてくれない。
今どき、中学生でもメールで言えてしまうような想いは、彼女の表情を見るのも恐くて目を逸らしている俺には、とても言えそうになかった。
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