番外編 杏花の願い

 コーヒーの眠気覚ましとストレスの緩和作用は、刑事という多忙な職業にとっても、樫井という一人の人間にとっても重要なものだった。

しかし面倒な事を極端に嫌う性格の為、わざわざ喫茶店などに出向くことは無い。

いつしか署内でもコーヒーメーカーを触る事も無くなり、缶コーヒーばかり買って済ませていた。


「これ、甘くて良い香りじゃないですか?グアテマラ産のブレンドなんです。

安いやつですけどねー!」

杏花はカップを小さく揺らして香りを楽しんでいる。

「本当にうめーな!喫茶店なんかやったらどうだ?

毎日夜に歩き回る仕事ってーのも、いい加減危ないだろー?

杏花さん、料理も好きみたいだし。」

樫井は小綺麗なキッチンを眺めながらそう問いかけた。


「料理は・・・お母さんが大好きだったんです。」

予想外の回答に、コーヒーを口に運ぼうとしていた手を止めて樫井は沈黙する。


「・・・この家は、親戚が格安で譲ってくれたんです。子沢山な家族で、

4人目が産まれるのを機に、千葉の田舎に広い土地を買ったそうです。

私が施設に入る時は、『最初の子供が産まれたばかりだから私を引き取れない』

とか言っていたので笑っちゃいますよね。まぁ、施設の方が気が楽だったし・・・

そんなに気にしなくて良かったのに。ここの土地もぜーんぶで1200万です!

破格ですよね!」

杏花は、時折笑顔を見せながら飄々ひょうひょうと語り続ける。

「お父さんの生命保険で賄えたので、施設出てからはずっとここに一人で住んでるんですよー!家持ちの大人の女です♪」


 保険金目的でない殺人だった事が認められ、母親も弟も同時に失った杏花は、

10歳にして多額の保険金を1人で受け取ったらしい。

しかし、その当時の傷付き、独りきりで残されたの子供の姿を想像したら、

『生活に困らなくて良かったね。』など、とても言えた物じゃない。

返答に困る樫井に先程から振りまいている張り付いた様な笑顔も、これまでに彼女が培ってきた防衛手段なのだろう。


「占いとか人生相談ってのは、食っていけるもんなのか?」

樫井は出来るだけ平然を装い、素朴な疑問を投げかけた。

「同じ20代のOLの平均くらいは稼げますよ。あっ!言っておきますけど、

悪徳なグッズの押し売りはしてないですからね!

この世からが無くならない限り、私に相談してくれる人も居なくなりませんから・・・。一時間で三千円の良心的な価格です!」

彼女の癖なのか、また人差し指を立てて自信ありげに説明する。

先生が子供にお説教する時の仕草になってしまっているが、杏花は全く気付く様子もない。


「そんなご立派な先生さんがよー、なんで土曜は俺の事置いて逃げちまったんだー?・・・あとさー、俺の身内が死んでんのは何で気付いた・・・?

杏花さんは・・・幽霊だけじゃなくて、まさか人の心の中まで見えちまうのか?」

樫井はコーヒーを飲み切り、出来るだけ落ち着いて質問した。


「幽霊は物心つく前から、見えていたんです・・・。理由は分かりません。

私・・・感が鋭いって言うんですかね。人の感情が強すぎる時なんかはその気持ちが流れ込んで来るんです。親戚や施設の人はとても気味悪がってましたね。

そのままで良い。人の気持ちが解ってあげられる優しさなのだ。

・・・そう言ってくれたのは家族だけでした。・・・あ、ちょっとすみません。」

杏花はテーブルの上の丸い缶の中から、1粒づつ包装されているチョコレートを出して齧り始めた。顔は青ざめているのにお菓子を食べている違和感のある行動。

強い不安を感じて甘いものを欲する様な精神状態は、やはり健全とは言い難い。


「んっ・・・ごめんなさい。生霊は・・・生きてる人間の感情そのものなんです。

香苗さんを初めて見た時、私の心に氷みたいな冷たさが押し寄せて来て・・・

一瞬で、樫井さんが危ない、狙われてる。というのは分かったんですけど・・・

その・・・あのまま会話してたら彼女に引っ張られるままに、恨みや悲しみが全て溢れて止まらなくなりそうだったので・・・。

すみません。色々対策を考えたり、彼女の事件を調べたりして、ちゃんと対話を出来る様になってからじゃないと、樫井さんの助けにならないと思って・・・。」


「そうか・・・分かった。もー大丈夫だ!香苗の事は自分でなんとかするしよー、

杏花さんは気にしなくて良いからね!」

短い返事をした樫井はそろそろ帰ろうかと腕時計を見る。


「待って!今日、松宮さん・・・朱莉ちゃんと寄り添う二人を見て思ったんです。

怖がってるだけじゃダメだって・・・私、私も皆さんに協力したいです。

・・・樫井さんの心は、自分で思っているよりずっとボロボロじゃないですか。

私に・・・美桜みおさんを救わせていただけませんか?」


「あぁーーー。もういい。ホントに俺の事はもう良いって!

松宮君と朱莉ちゃんの事は協力してやってね!

きっとスゲー理解者が居ると安心だろーからさ。」

樫井は急用を思い出したかのように椅子から立ち上がった。

声に若干の苛立ちが表れている。


「被害者を救う仕事を選んでるのに、自分の心は救いたくないんですか?」

杏花も後を追うように立ち上がる。緑のローブが肩からずり落ち、

白くて細い腕が露わになった。

茶色い髪で肩は隠れているが、二の腕や鎖骨周辺にもピンク色のすじの様な傷跡が、

無数に広がっている。


「被害者・・・ちゃんと救えてないってーの。

お前は、俺がちゃーんと捜査して御家族を殺害した犯人を必ず捕まえるから、

あのファイル全部捨てて復讐なんて今すぐやめろ!って言ったら納得できんのか?

お前がそんな悲しい顔してんのに、自分だけ助けて下さいなんて言いたくねーよ!

人には・・・自分で納得して自分で乗り越えるしかない事ってのがあるんだよ。」

樫井は思わず口調が荒れた事を詫びて、そのまま玄関へ向かう。


「・・・。私は・・・もう誰も死んでほしくないです。」

杏花は靴を履く樫井に意志の強い眼差しを向けている。


「あぁ・・・俺も同じだ。」

少し間をおいて振り返ると樫井はそう杏花に告げ、扉を開けた。


 彼女の願いを叶えるのはとても難しい。

この悲しい世界では、毎日のようにどこかで誰かが泣いているのだろう。

深夜の住宅街はひっそりと静まり返っていた。

月明かりと街灯が競うように道を照らす中を、グレーのセダンはゆっくりと走り去っていく。

杏花はじっと見つめていたが、『じゃあ助けてよ。』と小さく呟くと、

静かに玄関の扉を閉めた。

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