番外編 心の迷宮
宮の坂駅を車で通過してから数分もしないうちに、都心とは思えない程の
樫井は眠気では無く、緊張からくる欠伸を噛み殺しながらハンドルを握る。
セダンの広くないトランクと助手席は私物で埋め尽くされているので、普段は知り合いを乗せる場合、後部座席に案内していた。
しかし、本当に1人で持って電車移動していたのか、
「杏花さん、家はこの辺?マンションとかなのかー?」
樫井は隣に座る女を横目で見ながら尋ねる。
杏花は少し寒いのか、緑色のローブを身体に巻き付ける様にして腕を組んでいた。
「・・・はい。あの先の一軒家です。」
先程までの明るさは引き潮の様に消え去り、俯きながら答える。
樫井が2階建ての家の前に車を横付けしようとした時だった。
「駐車場に入れていいです。私車持ってないので空いてます。」
杏花は少し顔を上げてそう言った。
樫井は言われた通りに、玄関先の敷地の空きスペースに車を停める。
荷物を運ぶ手伝いをしようとしていたが、一瞬、動きを止めた。
玄関を開けようとしていた杏花はそれに気が付いたのか、振り向いて少し微笑む。
「あ、心配しないでください。ここは事件現場ではないです。
私が買った中古のお家ですから・・・。」
良く考えてみればここは調布ではないのだから当然の事だったのだが、そんなことも分からない程に動揺している様子で、樫井は軽く頭を掻いた。
「デカイ家だな。一人暮らしって言ってなかったか?」
玄関先で樫井は荷物を置きながら尋ねた。
「一人暮らしですよ。私以外、生霊1人だって住んでません。
あ、どうぞ中へ上がってください。
送ってもらったお礼にお茶ぐらい出したいですし、少しお話があるので・・・。」
杏花は樫井が置いた荷物を玄関奥のスペースに放り込むと、彼のスーツの袖を引っ張って案内する。
「分かった分かった!・・・入りますよ。」
若い女性の一軒家に上がる事には、とてつもない抵抗を感じる。
樫井は手の甲で額の汗を拭った。
一人暮らしにしては物が多い一軒家だった。
玄関から奥の部屋へ続く廊下は段ボールが積み上がり、簡易テーブルや占い道具も所狭しと並べられている。
その様子から一転して広々としたリビングは、モデルルームのように生活感がなかった。
4人掛けのダイニングテーブル、大きめのソファーなどは、どう見ても一人暮らしには不釣り合いで、物悲しい雰囲気を醸し出している。
「テーブルの椅子どこでも良いので座って下さいね!コーヒー淹れますから。」
杏花はそう言ってカウンターキッチンに向かう。
料理が趣味なのだろうか?と樫井はダイニングを見回して思った。
清潔な見た目の青いタイル張りのシンクの周りには、様々なハーブやオイルの小瓶が並んでいる。
「おう!サンキューな!・・・なぁ、あっちの壁は何なんだ?」
樫井は、普通ならテレビ台などが置かれそうなソファー前の壁一面を見渡すと、
ゆったりとした動作でドリップをしていた杏花に尋ねる。
「見ての通り、本棚ですよー!」
あれが『本棚』と言えるのだろうか?壁を這うようにアルミラックが天井まで届いており、6段に分かれている。建設現場の足場を思い出させる棚にはびっしりと、
分厚い心理学と法医学の専門書や六法全書、スピリチュアル関連の月刊誌などが、
脈絡もなく置かれていた。
「難しいもんばっかりだな・・・。俺には題名の意味すらわからねーのばっかりだ!そんな頭持っててなんで路上の占い師なんてやってんだー?」
興味が
「小さい時から本は大好きだったんですー。自由に読んで良いですよ。
占い師は特技を生かせる素晴らしい世界なんです。勉強の出来る出来ないは関係ないですよー!」
樫井も一応は大卒なのだが、ここにある書籍はどれも院生や学者が手元に置きそうなモノばかりで、到底最後まで読めそうにない。
所々に題名の見出しがない大きなファイルが差し込まれている。
重そうなファイルをゆっくり開いた樫井の手がピタッと止まった。
「これは・・・。」
―― 調布一家惨殺事件・・・生き残りの少女は依然、意識不明
―― 警察の初動捜査ミスか? いまだ犯人像掴めず
1枚づつ丁寧に切り抜かれ画用紙に張り付けた新聞は、分厚いファイルの隅々まで埋め尽くしている。
所々の余白には、丁寧な字でニュースのコメンテーターのセリフまで書き込まれていた。
「・・・コーヒー温かいうちに飲みませんか?・・・どうぞ座って下さい。」
この家は迷宮なのだ・・・そう樫井は思った。
乱雑な廊下、何もないリビング、本に埋め尽くされた壁、彼女以外は座らない大きな食卓。
そのどれ一つを取っても、彼女の心が迷子なのだと訴えている。
時間が止まったままの世界。執念だけで生きてきた青春時代。
ふと、香苗の事も思い出して、樫井は苦虫を嚙み潰したような顔になる。
「ここは、なんか落ち着くな・・・。ゆっくりしてっても良いか?」
樫井は溜息をつきながら着席した。
良い香りのドリップコーヒーは揃いのマグカップに注がれている。
「・・・樫井さんはそう言ってくれると思ってました。」
杏花は、先ほど集まっていた全員に見せた様な、作り物の笑顔でそう答えた。
彼女の心を迷宮から救い出すには、この夜は短すぎるのかも知れない。
湯気の向こうの虚ろな目の杏花を見つめて、樫井はカップの持ち手を指でなぞる。
古い本と、コーヒーの香り。時計の無いリビングはゆっくりと時間が過ぎていく。
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