最終話 君が好き

迎えた朝は、息も凍るようだった。毛布の間から冷気がしみ込んできた。俺は先に起きて、服を着た。それから、ベランダに出た。できるだけ冷たい空気が入らないように気を付けていた。みゆが起きないように、できるだけ静かに。

 深く吸い込んだ冬の空気はまだ眠たい体を目覚めさせていく。血が通いきってないような、青白くなった指先で手すりに触れた。爪の奥のほうから静かに震えるようだった。

 空は、燃え尽きたような色をしている。雲一つないくせして、色なんて一つもなくて、全部がモノクロームだ。アスファルト、タイル、吐息、全部が真っ白だった。

 それを美しく思うことも、今日という日まではなかった。

 その男の金髪は、その中によく溶け込んでいた。薄く、薄く、銀杏の色を混ぜたような、モノトーンの男。あいつは、アスファルトに根を張ったようにじっと、俺の部屋を見上げていた。

 目が合っても、瞬き一つしない。石像のように、時間が止まったように、葡萄は俺を見上げていた。

 ため息をつく。白く昇っていく。俺は部屋の中に入った。みゆの鞄を開けて、その中からナイフを見つけた。鞘に収まった、鈍い重たさ。俺は足音を立てないように外に向かった。

 「こんにちは」

 葡萄は、アパートの入り口に出ると、まるで客を案内するレストランの従業員のように、慇懃に振る舞った。高く壁のように構えられた肩は子供に接するようにすくめられ、その上で、彫りの浅い顔がくしゃっ、と笑った。

 「もう、足は洗ったんですね。困ったな……」

 「いつまでもやる仕事じゃないんで」

 この男と会うのは三度目だった。その一回一回がやたらに心に残る。少しの間一緒にいるだけで、心がざらつくような圧倒的な冷たさ。

 「さいきん、ずっと見てました。俺、あなたたちのこと」

 「そうか」

 葡萄は薄着だった。ブラウンの太く編まれたセーターと、青いデニムだけ。それでも、寒さなど微塵も感じないかのように、木のように立っている。

 「俺、果物が好きなんですよ。動物も、植物もみんな好きです。ね、これ」

 セーターの左袖をめくる。手首に、大きく葡萄のタトゥーが入っていた。青紫のそれは、他の巻き付く蛇のような形のものとは違って、絵画のような気品を感じさせた。

 「俺は、生まれ変わったら、木になりたい……」

 その左手は、人差し指と親指以外の指が失われていた。

 「無理だね。ピストルみたいだ」

 葡萄は、静かに近づいてくる。右足を引きずっている。震えるようないびつな動き。それが、ゆっくり、ゆっくりと近づいてくる。

 ポケットに手を突っ込んだ。ナイフの柄に、強く力を込めた。肘のあたりから入った力は、握りつぶしそうなくらいに強く震える。それが、外の空気に触れる。白い空と、アスファルトと、溶け合う。

 「トモキ」

 鮮明に聞こえた。どんな音も押しのけて。振り返ると、みゆがいた。昨日来ていたのと同じ服を着て、そこに立っていた。何も言わないまま時間は過ぎる。背中に、温度を感じた。振り返ると、葡萄が手を伸ばせば届くような距離にいた。振りかぶって、ナイフを振り下ろした。葡萄の左手をめがけて振り下ろしたそれは、長い軌道を描いて、その手の甲に突き刺さって貫通した。どくどくと血が流れて、大きく震える。

 葡萄は、何も持っていなかった。ボロボロの体と、新しく増えた傷だけ。それだけで、この男は俺たちの前に立っている。

 「ためらわないんですね」

 葡萄は、そう言った。

 振り返って、みゆの手を取った。葡萄はそれ以上追ってこなかった。俺たちは歩き出す。行先も決めないまま。

 みゆの手は冷たかった。強く握った。ポケットに入れると、少しずつ温まる。みゆは、そうするのが好きだった。そうすると、うれしそうに笑ってくれた。

 コートを着た人たちに混ざる。午前中の街は正午に向けて、その活気を取り戻していく。その中に紛れ込む。薄着で、どこまでも場違いな俺たちが。

 寒くて、身を寄せ合った。二人とも青白い顔をしていた。温め合おうとした。震えは少しずつ、体温に変わっていく。

 「なあ」

 「なに?」

 「俺、みゆのことが好き」

 照れくさくて笑ってしまう。横を向くと、みゆの髪の匂いがした。

 みゆも、笑っていた。

 「私たち、いつまで一緒にいようか?いくつまで?どんな仕事につくまで?」

 「いつまででも。……なあ、もうちょっとだけ歩いたら、帰ろう。そんで、コーヒーかスープでも飲もう。寒いよ」

 「うん。寒いね」

 人目もはばからず、身を寄せ合った。その頭を抱き寄せて、転びそうなぐらいによたよたと歩く。街の音が聞こえる。車が走る音、人の声、足音、ため息をつくときの小さな音。

 ふと、みゆを見下ろした。少しの間、じっと見ていた。

 みゆは、にまにまと笑っていた。

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