第8話 幸せ
家にいる時間が増えた。ホテルにはもう行かなかったし、学校が終わると、すぐに帰ってくるようになった。
みゆと、どこかに出かけることは少ない。だいたいは近所をぶらついたり、俺の家で会ったりだった。たまに、隣町のレストランや、食堂で夕食を摂る。おいしいものを食べるとき、みゆの表情はやわらかくなる。みゆは、食べ物をおいしそうに食べる人だった。
日々は、静かに過ぎていく。バックれ続けたのを取り返すように学校に行った。授業中、寝てしまうことも多かったけれど。一度、いびきをかいてしまって、自分のいびきに驚いて目を覚ました。周りの生徒がくすくすと笑っていた。それから、挨拶をするだけの仲の人が増えた。友達は増えなかったけれど。
「びっくりだろ?学校で、人と話すことが増えてきてんだよ」
「友達作ってから言ってもらっていい?」
「お前って友達いるの?」
「朝、学校行くと、みんなに挨拶するよ」
「挨拶?」
「教室のひとりひとりに、挨拶するの。ちゃんと返してくれるよ」
「それから?」
「本を読む……」
こいつも大して変わらなかった。
その日、俺たちは駅ビルの中にあるイタリアンに来ていた。さほど値が張るわけでもなく、家族連れの客が多かった。
自由に使える、最後の金だった。少なくとも、あと一か月は。稼いだ金も尽きるけれど、生活は営み続けなければいけない。
二日前、近所に新しくオープンする居酒屋の、バイトの面接を受けた。受かったのを知ったのは、今日の午前だった。電話がかかってきて、お互いに丁寧にあいさつをした。これから、異常なことや突飛なことのない日常が始まることを予感した。
ずっとそこにあったのに、慣れなかったことはたくさんある。ごく普通の、慣れない日々は、ゆったりと続いていく。
11月になった。みゆは来月、誕生日を迎える。18歳になるのだ。みゆの十代は、少しずつ終わりに向かっていく。
入道雲も、涼しげな風もどこかに消えた。紅葉もその色を失って、道を歩く人の服は重たくなっていく。
実家のほうだと、この時期はもう真冬だった。雪だって降るし、気温は氷点下に達する。高校の頃、冷たい布団から這い出して伸びをしたことを思い出した。あっちと比べたら、東京は温かい。そこら中にあるコンクリートの建物が熱気を発して、人混みは吐息でお互いを温め合う。
俺たちも、手をつないでいた。よく、みゆの手を上着のポケットに突っ込んだ。そうすると温かかった。一緒に眠ると、その足を挟み込んで温めた。胸にみゆの頭を抱えると、俺も温かかった。みゆは、いつもいい匂いがした。髪は、信じられないぐらいに柔らかい。
たまに、全部が嘘なんじゃないかと思う。
みゆは、よく金曜日の夜に泊まりに来る。そして、次の日の昼頃までうちで過ごして、家に帰る。それから、両親と土日を過ごす。みゆの両親に会ったことはないけれど、話を聞いていると、とてもいい人なのがわかった。
俺が昼まで眠りこけても、みゆは俺が起きるまで待ってくれた。それから、二人で飯を買いに行ったり、作ったりする。作った料理は、普段食べている飯とは全く違う味がした。
みゆの髪が伸びた。もともと長かった髪は、肩甲骨よりも下まで伸びた。俺も、髪が伸びた。前髪がよく目に入る。
冬が来たのだ。
風邪をひいて寝込む季節。雪にすべてが埋もれて、身動きが取れなくなる季節。体が冷えて、起きるのが億劫で仕方がない季節。鼻水が垂れて、鼻と口元を真赤にする季節。手を握る回数が増える季節。みそ汁が異様に美味く感じる季節。二人で鍋を囲むと、幸せな気分になる季節。一緒に眠るとき、その温かさを再確認する季節。
しあわせだった。信じられないくらい。
いつしか息は白くなった。指先が冷えてじんじんとする。そう感じるたび、俺たちは手をつないだ。お互いの手をコートのポケットに突っ込んだ。みゆの、赤いマフラーに花をうずめた。コートの向こうから温かさを感じる。もしも、みゆもそう感じてくれたら、こんなにうれしいことはないだろうと思う。
飾り気のない隣町の駅前に、ささやかなイルミネーションが飾られた。町内会の人たちが取り付けた細く、小さな電飾は、確かにそのシーズンを感じさせた。夜の間だけ点滅する、小さなクリスマスツリーと、雪だるまの飾り、その明かりは見るたびに俺たちの心を温めた。
誕生日の前日、みゆは家に泊まりに来た。近くのスーパーで具材を買って、鍋を炊いた。狭い部屋はあっという間にあたたかくなった。
「高校、終わっちゃうな」
「ほんとね。一月になると登校日も少ないし」
「もう制服着ないよな」
「そうだよ。高校生じゃなくなっちゃうんだもん」
きっと、高校生活で一番自由な時期だろう。みゆはもう受験も終わらせていた。授業も少なく、課題もそんなに多いわけじゃない。
「恋しい?」
「ううん」
鍋を食べ終わって、片付けも終わって、部屋を暗くして、二人で床に横になった。寒いから布団を引いて、二人で一つの毛布にくるまっていた。
「後悔はないからね」
「そっか」
みゆの小さな体を抱き寄せた。鼓動が静かになっているのを感じていた。
額に、キスをした。頬にキスをして、唇に小さくキスをした。深くして、舌を絡める。抱き寄せると、息が上がった。体が、そこにある。こんな小さいものの中に、俺たちは詰まっているのだ。
好きだ。
俺たちは一つに絡み合う。みゆには痛みがあった。その細い体が震えた。首筋に顔をうずめた時、みゆの存在を強く感じた。この小さな体が、俺を包んでくれているのだ。
少しの血が、静かに流れた。痛みがましになるまで、抱き合っていた。小さな嵐をしのぐようだった。俺たちの中に、様々なものが渦巻く。出会ったときのことを思い出していた。そのポケットに隠されていたナイフ。くたばったような目で、みゆを見つめていたこと。
そのすべてが、今は祝福だった。
動くたびに体温が上がって俺たちは沸騰する。最後には一つになる。溶鉱炉に投げられた鉄片のように、俺たちは溶け合って、いつしか大きなマグマになる。冷えて固まっても、熱が与えられれば、何度でも元の姿に戻ることができる。俺たちは、どこにだって流れていける。
手を、繋いでいた。二人で、窓から月の光が流れ込むのを感じていた。こんなにも、青かったのか、と思う。暗い夜ほど、その存在感を強く感じる。電気も消えてるのに、みゆの頬にその光が青白く当たっているのがはっきりとわかる。それを、この世で最も美しい光景のように感じた。
「俺さ」
「なに?」
「笑うなよ」
「笑わないよ」
「もう笑ってんじゃん」
楽しかった。なにか、楽しいことや劇的なことが起こるわけではない、ささやかな時間。凪いだ海のように、涼しく、心地よい。
「俺さ、一回したセックスしたことない」
「なにそれ」
「だから笑うなって」
指を絡めあって、力を込めた。そうすると、みゆも同じようにした。月の光の及ばないところで、しばらくそうした。
「優しいと思ったよ」
「優しくできたならよかった」
「私もさ」
指から、力が引いた。もっと握っていてほしくて、俺はまた力を籠める。
「私も、私、うまく、言えない……。ナイフのこと、覚えてる?」
「うん」
みゆが持っていた、小さな凶器。
「お守りだったんだ。あれがあれば、私はいつでも人生を終わらせられたし、どんなことだって壊すことができた。友達だって、家族だって、知らない人だって、そうできた。いつだって、どこにだって逃げ出すことができたんだ」
俺は、黙って聞いていた。言葉と言葉の間にある息遣いさえも、聞き逃すことはなかった。
「私、誰かを傷つけたいなんて思わなかった。でも、あれが、必要だった。いつでも、どこかに行けるように」
「そばにいて」
みゆの首筋に、顔をうずめた。温かかった。
「どこにもいかないで……」
指に、力が戻ってきた。強く、繋がった気がした。髪が撫でられた。ひどく心地よかった。そのまま、眠ってしまいそうなぐらいに。
何をするでもなく、そうやって時間を過ごした。まるで、あの日みたいだった。学校まで、みゆを迎えに行った日。この時間は、世界で一番平和な時間だ。どんな争いも、どんな痛みも存在しない。
先に、みゆが眠った。その耳元で、少しだけ囁いた。手を握ったまま、俺も目を閉じた。
隣で、誰かが眠っていること、隣で、誰かが目覚めること。その幸せを知ったのは、その夜だった。
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