第7話 離別

 飯を食っているとき、みゆは、俺が食べ物を頬張る姿を見て、くすくすと笑っていた。みゆはあんまり多く食べるほうではない。俺は、何品も料理を注文して、ご飯もお替りした。その日は三杯食べた。俺たちは向かい合わせに座っていて、みゆは黄色のシートに背を持たせて、笑っている。 

 すべてが、夢なのではないかと感じた。

 眠らないまま学校に行った。授業は全部眠りこけた。みゆも着替えに帰ってから学校に行った。きっと、彼女も同じように眠っていた。学校からまっすぐに家に帰って、少しの間ぼんやりとしていた。やることは決まっていた。すぐにそれを始める。今日分の仕事をすべて終えて、それから、女の子たちにメッセージを打った。

 すべて、終わりにしたのだ。

 みゆが、家に来た。チャイムが鳴って、俺は玄関口まで行く。制服のローファーを脱いで、みゆは家に上がってくる。

 「男の部屋ってかんじだね」

 と言った。こいつは男の部屋に上がったことがあるのだろうか。

 「終わったの?」

 「うん、全部終わった」

 こんなにも、呆気ないものだったのだ。俺が持っていた人とのわずかなつながりは、一瞬ですべて無に帰した。

 また、始まるのだろう。残されたものは、それだけなのだ。

「言いたいことは残ってるんだ」

「そうだよな」

 みゆは、黙り込む。

「俺のこと、どう思ってる」

「クズだと思ってる。正真正銘の。人生の中でなかなか出会わないレベルの」

「だよな」

「だから、みそぎをします」

「みそぎ」

 みゆは、立ち上がる。俺は正座して、背筋を正す。子供のようにみゆを見上げる。

「この一発に、私が思ってることのすべてをかけます」

「おう……」

俺は目を閉じる。

「目を閉じるなんて許されるわけない。あなたはいろんな人が、いけないことをすることをする手伝いをしたの。体を売るのが悪いことなんじゃない。そういうことだってあるかもしれない」

「あるかもしれないってお前」

「人が法に触れる手伝い、人生にそれが残るようにする手伝いを、あなたはしてた」

 逆光になってみゆの表情は見えない。黒い塔のようになったその顔の前に、足が振り上げられる。ギロチンみたいだ。

「全部否定してあげるよ。もし、弁解するなら」

「弁解なんてしない」

「そう」

 俺は、弁解の余地もなくさばかれたかったんだ。悪いことをしてるんだから、怒ってほしかった。怒鳴り散らされて、ボコボコにされたかった。叱ってほしかった。

「いくよ」

 深く、息を吸い込んだ。

 少し間を置いて、衝撃が頭部を襲った。みゆの踵が、顔の中央めがけて振り下ろされたのだ。鈍い、あまりにも強い痛みが顔に走る。それは脳を揺らして、痺れさせた。鼻血が出た。生ぬるいそれは唇に向かって流れる。俺はせき込んで、倒れる。顔を抑えて横を向く。どくどくと流れて、指先が赤く染まる。

 「謝るんだよ」

 「ごめん」

 「私にじゃないよ」

 涙が沸いてきて、前がうまく見えなかった。みゆの足だけがかろうじて見えている。

 「ごめんなさい……」

 俺は、まともになれるのだろうか。

 人と同じように、暮らせるのだろうか。

 そうしたかったんだろうか。

 みそぎは、こうして幕を閉じた。初めて、人から罪を裁かれた。それは、まぎれもなくするべきことだった。

 みゆは、俺が自分の手当てをし終えるまで黙って迎えに座っていた。行儀よく膝をそろえて、俺の顔から鼻血が拭き取られ、ティッシュのこよりが鼻の穴につめこまれるのを見ていた。しわが寄り、きりりと眉の挙げられた眉間には、怒りが刻まれていた。

 こいつが、遠慮のないやつで本当によかった。

 そのときに、アイコの連絡先も消した。実感がないまま、喪失感じみたものを感じた。

 時間は過ぎていく。それまで停滞していた分を解消するように、早回しのように過ぎていく。あっという間に日が暮れて、月がのぼった。みゆは家に帰り、また一人になった。母に電話をかけようと思って、やめた。少しだけ、先延ばしにしたい問題だった。

 煙草に火をつけようとして、やめる。みゆの匂いを思い出した。清潔な、安心するような匂い。石鹸と、洗剤の匂い。生活感、そこにある匂い。

 家の家事を一人でやり始めて、みゆを思い出した。さっきまでこの部屋で一緒にいたのに、もう何年もこの部屋に一人でいるような気がした。

 すべては、正しい場所に納まっていく。きっと、これから少しずつ。

 

 俺は腑抜けになっていく。最後に、20万そこらの金を手にして、何もしなくなった。だらだらと眠り、起きて学校に行った。夕方になって、みゆの学校のほうに向かった。地下鉄の出口で待っていると、みゆが来た。二人でアパートに向かう。日が落ちるのはすっかり早くなっていた。

 アパートに着き、薄暗い廊下を歩いて、鍵をドアに差し込んだ。部屋の中から生暖かい空気が漏れる。

 俺たちは、何も言わなかった。

 部屋にはアイコがいて、煙草をふかしていた。手首には赤い、腕輪のような痕がある。

 アイコは何も言わずにこちらを見た。そして、静かに煙を吐き出す。

 「なあ」

 「ううん」

 振り返って声をかけると、みゆは首を振った。靴を脱いで上がると、床に座り。アイコはみゆを見て、浅いため息をついた。

 「この前、そいつ、私にキスしてきたよ」

 窓は開いていた。俺たちの声は部屋を漂って、そこに吸い込まれていく。二秒もすれば、全部、なかったことのようになってしまう。俺は、途方に暮れる。

 みゆは、強い。

 「ならあたしは、これからセックスするよ」

 強い子だ。

 「なあ、アイコ」

 俺はアイコの前にしゃがみ込む。目の前にアイコの顔が来る。目が、唇が触れられる距離にある。

 「ありがとう」

 「やめてよ」

 平坦な調子で、アイコは言う。俺たちは向かい合ったまま、時間が止まったみたいにじとしている。

 「ううん、ありがとう」

 本当に、そう思っていた。

 俺にもし、アイコを満たすことができていたら。もし、一緒にいて、感情を分かち合えるような二人だったら。

 そう思わせてくれたことが、ありがたかった。

 アイコは立ち上がる。床に放ってあった鞄を肩にかけ、振り返らずに玄関に向かう。俺は、そのあとをついていく。

 下足口には、アイコの、赤いハイヒールがあった。その足を締め付けるような形。履くだけで食い込むような、きわどい構造。

 アイコはそれを履いて、玄関の前に立ち尽くす。

 「アイコ」

 「何も言わないでよ」

 アイコはこちらを向かない。二人して、同じ方向を見て立ち尽くしている。ドアスコープから漏れる、靄のような明かりが、アイコに遮られている。電気のつけられていない玄関口は寒々としている。

 「じゃあ」

 「うん」

 かけるべき言葉なんて、きっと何もない。何を言っても蛇足になる。

 俺たちはきっと、二度と会わない。

 アイコが、ドアを開けた。曇り空だった。街や、微かな陽光やすべての光がそこに反射しようと向かっていく。ほとんどが、ドアの向こうに吸い込まれて消えてしまう。アイコは、その中に歩いていく。

 消えないでくれ、と思う。たとえ、もう二度と会うことがなくても。何一つ、なかったことになんかしたくない。何一つ、忘れたくなんてない。

 手を振ることも、しなかった。玄関から出て、見えなくなるまで見送ることもしなかった。

 俺は、玄関口に立ち尽くす。後ろに、みゆが立っているのがわかった。しばらくそのまま立ち尽くしていると、みゆが肩に手を置いた。それが心地よくて、俺は呆けたように、じっとしている。 

 いま振り返ったら、みゆはどんな顔をしているだろうか。こういうときの人の表情が、まったく想像できない。きっと、みゆは優しい。強い。それが、その顔にもしっかりと表れているのだろうか。

 振り返れないまま、そうしていた。肩に置かれた手は、ただただ温かかった。

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