第6話 俺とセックスできる?

 次の日、大学に朝から行った。授業に出たが、すぐに眠ってしまった。途中途中、スマートフォンに通知が来て、それに返事をした。何度もそれを繰り返していたら、教員から注意されて、教室の注目が俺に向いた。俺は苦笑いして、すみません、と言った。

 昼休みになったが、昼食は取らなかった。あの混雑の中、食堂や購買に行きたいと思わなかった。コンビニもだ。人が混みあう場所はあまり好きじゃない。空き教室に行って、しばらくぼんやりとした。誰もいないことをいいことに、長机の上に仰向けに寝っ転がる。窓の外には、秋の入道雲がゆっくりと流れていた。

 その夜、仕事をしにあのホテルに行った。また、うちで働いている女の子の隣の部屋に入る。

 たまに、壁から声が漏れてくるときがあった。女だけじゃない。男の声が漏れてこともある。正直、気持ちのいいものではなかった。

 その夜も、聞こえた。女の声だ。たしか、ユノとかいう女だった。本名は忘れてしまったけれど。断続的に、声は聞こえる。作業がひと段落して、なんとなく俺は壁に耳を当てた。そうすると、よく聞こえた。 

 苦しんでいるような、何かを抑えるような声。声は繰り返す。息遣いを感じる。

その、存在感も。

 30分ほどたって、俺は廊下に出た。自分が取った部屋の前に座り込み、買った緑茶のボトルを煽っていた。口の中に苦みが広がる。それはすっ、と鼻に抜けていく。 

ドアに、また耳を当てる。シャワーの音。耳を離す。換気扇に、埃が吸い込まれていく。

 シャワールームから、出てくる気配がした。着替えているのか、間をおいて、それはドアに近づいてくる。俺は立ち上がって、壁に背を預ける。ドアが開いた。それは、出てきた者と俺の間に挟まって、壁になる。ドアが閉まって、それが姿を現す。

 何度も色素を抜いた白っぽい金髪。白い上下のスーツに包まれた、隆々と盛り上がる筋肉。Tシャツの向こうの存在感。首元に微かにのぞくタトゥー。

 「やあ、どうも」

 男は、会釈する。

 「困るなあ。タトゥーの入った人はだめなんですって」

 「視察みたいなもんですよ」

 「視察?」

 「うちも、これから同業者になるので」

 「だせえシノギ」

 「しっかり、競合させてもらいますよ」

 口元が、不器用に吊り上がる。目の形は変わらない。脱色された眉毛がぐにゃりと曲がる。

 「どうかなぁ。ブスばっかなんじゃないですか?」

 「ブスしかいなかったら、おたくから引き抜きますよ」

 「500万とか払うんだったら売りますよ。みんな、ただの道具ってわけじゃないんで」

 男は足を軽く持ち上げて、つま先を、とんと鳴らした。胸に、震えるような感触が走った。

 この男は、何かがおかしい。

 また口元が不器用にゆがむ。笑うとかじゃない。ゆがむってかんじだ。

 「名前、伺っときますよ。ブラックリストに入れるんで」

 「ぶどうです」

 「ぶどう……?」

 「果物の、葡萄」

 「そんなかわいらしいものが似合いますかね。果物だなんて」

 「果物は、上品なものですよ。では、失礼します」

 葡萄、男が歩き出す。背筋は伸びて、所作は美しい。ゆっくりと歩いているが、体が大きく、歩幅が並みのものではない。その、白い、流れるように動くシルエットはすぐに遠ざかり、廊下の曲がり角に消えていく。

 葡萄。その名前を、口の中で繰り返した。

 ドアをノックして、部屋に入る。ドアの向こうには、冷ややかな空気が流れていた。

 電気の消えた部屋、月明かりと微かな電工が、暗闇を照らす中。

 ベッドの真ん中で、女の子は体を縮めていた。


 あの、体のタトゥーがやけに頭から離れない。鱗のない、黒々とした、蛇。太い幹のようなそれは曲線を描いてあの男の体に絡みついていた。

 ムカデが、体を這うような嫌悪感。話すだけで鳥肌を立たせる禍々しさが、あの男にはあった。

 その日、アイコが部屋に来た。俺たちは二人で夕食を作った。二人とも食欲がなかったので、ハムエッグを作って二人で食べた。ハムエッグと、近くのコンビニで買ってきたキャベツの千切りと、インスタントの味噌汁。

 「朝飯みたい」

 そういうと、アイコは笑った。アイコの笑った顔はかわいい。顔いっぱいに笑いが広がる。

 「アイコ」

 「ん?」

 「仕事、やめようかな」

 「どうしたの」

 アイコは、本気で訝しんでいた。アイコは、色々な表情を作ってみせる。この頃では、それのどれが本当で、どれが作りものなのかの区別がつくようになっていた。

 「好きな子でもできた?」

 口の端が、微かにつり上がる。

 アイコの髪は短い。そして、少し赤っぽい。その髪の間から突き出た耳は白くて、そこに蛍光灯の光が映っている。

 アイコの匂いは、よく覚えている。

 「かも」

 「子供か」

 「子供だろ」

 ほんの少しだけよそったご飯も、すぐに食べ終わった。アイコも食べ終わったので、食器を運んで、シンクで洗い始めた。水道の音はうるさい。小さい声だったらかき消されるぐらいに。

 「アイコ」

 聞こえるだろうか。背を向けたまま話しかける。

「俺の名前、呼んでみて」

 たまに、自分でも忘れそうになる自分の名前。あいつが久しぶりに読んでくれて、はっきりと思い出した俺の名前。

 聞こえなかったのか、答えはない。俺は、もっと声を小さくする。

 「ねえ、アイコ」

 アイコは、立ち上がらないまま、かったるそうに赤子がはいはいをするように、こちらに寄ってきた。そして、俺の横に座り込んだ。包丁だの皿だのが入った棚に背を預ける。そして、俺の膝にぴたりと頭を寄せた。

 水を、止めた。しゃがみ込んで、キスをした。

 アイコとキスをするのは、二度目だった。誰かに話したら、たったそれだけと、言うかもしれない。でも、そうしたかったことをできたという事実は、心を満たしてくれる。

 「ねえ」

 アイコは、何も言わないで俺の顔を見ている。

 「俺と、セックスできる?」

 アイコは、答えない。また、キスをする。俺たちは床に座り込んだまま、何度もキスをする。触れるようにしたそれは、だんだんと絡みつくようになる。二人とも能動的になる。口の中をそれが這いまわり、息が荒くなる。アイコの肩をつかんで、床に押し倒す。また、唇と舌を絡める。

 そこに、無言の拒否を感じる。

 腕や、足に触れる。そして、キスをする。アイコも、俺の首筋や耳に触れる。またキスをする。ただ、それだけ。それを何十回、何百回と繰り返していく。

 俺たちは、ぐるぐると回る。仰向けになったり、うつ伏せになったり。洗濯機に詰め込まれたタオルみたいだ。どこかから、大量の水がなだれ込んできて、俺たちは溺れる。酸素を求めあって、唇を重ねる。それでも、俺たちの体の中にある酸素の量なんて、たかが知れている。すぐに、息が止まってしまう。溺れてしまう。

 だんだんと洗濯機の中は広くなる。狭い中で壁に打ち付けられていた俺たちは、いつの間にか広い、大きな場所の水底にいる。シンクロナイズドスイミングで使われるプールのような、巨大な湖のような、海のような。味のしない水、粘っこいそれで俺たちは溺れる。酸素を求めようとして、唇を重ねる。そこからわずかに漏れる息で俺たちは生き返る。

 違う。

 溺れているのは、俺だけだ。こいつは、魚なんだ。俺は巨大な魚に抱き着いて、この海を渡ろうとしている。でも、それは無理なんだ。アイコは、海の住人なんだ。海の底に帰ることはあっても、俺を海の向こうに連れて行ってくれるわけじゃない。

 唇を冷たく感じた。ひどく、痛いぐらいに冷たく感じた。

 唇を離すと、短く、細い糸が伸びて、切れた。俺たちは、汗と唾にまみれている。何千キロも走ったみたいに疲れて、さっきまで水の底にいたかのように濡れて、息が切れている。

 アイコは立ち上がり、上着を着る。俺は、その裾にすがる。

 そして、合鍵を差し出した。アイコは、黙ってそれを見つめて、それから受け取った。

 「じゃあ」

 「うん」

 もう少しだけ、と言おうとしたが、間に合わない。アイコは、水底に帰っていく。ドアがきい、と音を立てる。また、部屋に一人になる。

 部屋は、冷たく冷えていく。

 

 「あれ、なんですか?」

 「ああ、あれはね、吊り床って言うです」

 「つりどこ?」

 「まあ、見たことないですよね」

 「何をするんですか?」

 「フックがあるでしょう?人が縛られるところ、AVとかで見たことがあるんじゃないかな。それに引っ掛けてね、釣り上げるんです、人を。まあ、そういうプレイです」

 「へえ……」

 それは、ラウンジの一番奥の小部屋にあった。ドアがなく、ぽっかりと入り口の開いたその部屋には、その、吊り床があった。重たい、赤っぽい色の床と壁で出来た部屋。薄暗い照明は、その色彩を際立たせる。その部屋の真ん中に、それはあった。まるで、処刑道具のような、異質なスペース。てらてらと光る無機質な床と、フックと、それを支える土台。

 「やってみたければ、言ってください」

 主催者の男が言う。男は、金色の淵の丸眼鏡をかけていた。黒い、パーマのかかった髪の毛を顔の周りで遊ばせている。黒いセーターとスキニーパンツに包まれた、細身の体は、叩けば壊れそうなもろさを感じさせる。

 男がラウンジの中央に戻って、俺は手持ち部沙汰になった。

 黒い無機質な床、赤やオレンジのカーテン、天蓋付きのベッド、丸テーブル。そこら中に人がいて、思い思いにその場を楽しんでいる。思った以上に、それはパーティー然としている。

 細身のスーツを着た男が、部屋の隅でシーシャを吸っていた。口から大量の水蒸気を噴き出して、恍惚とした表情をする。その前を、ランジェリー姿の女が通りかかる。テーブルの近くで、また誰かが一枚服を脱いだ。

 俺は、丸テーブルのひとつについた。テーブルには、俺のほかに二人の男と、一人の女がいた。一人の男は、高そうなスーツと、複雑な柄のネクタイをしていて、もう一人の男は、チェックのシャツを着ている。女は黒縁メガネの向こうで大人しそうな目を爛々と輝かせて、パーティーの空気に浸っている。

 「ここは、初めてですか」

 スーツを着た男の言葉は、俺に向けられていた。

 「はい……。すごいですね、ここ」

 「そうですよね。普段、触れない世界でしょう。お仕事は?」

 「学生です。大学生」

 「刺激的だ?」

 女が、そう言った。その目は、楽し気に細められる。

 「いろんな人がいるよ、ほんと。ここは、自由なんです」

スーツの男は、チェックのシャツの男の手を握っていた。チェックの男は、はにかむような愛想笑いを浮かべて、スーツの男に体を任せきっているようだった。

 「さあ、では」

 そう言って、チェックの男の手をぐっと抑える。

 「あなたの体はどんどんリラックスしてくる。体は椅子に沈み込むようで、腰がぐー、っと重くなる。そうです、肩、胴体、膝と体が抜けていって、あなたの体は、深く、深ーく沈み込んでいく」

 チェックの男は、目を閉じて、首をだらんと椅子にもたせ掛けた。

 「いま、あなたの手を握っているのを感じるでしょうか。あなたの手には、どんどん力がこもっていく。震えるほどに。そうです。そして、こうやって押し込めているから、どんどん指が掌の内側に入り込んでいってしまう。気づきましたか、指が固まっていってることに。ほら、もう開かない」

「ああ……」

 チェックの男は、自分の手を見つめていた。男の手は固く握りこぶしを作ったままぶるぶると震えている。そして、喜びの滲む顔でスーツの男の顔を見つめた。

 俺は、テーブルを立った。カウンターに行って、ビールを一杯もらった。ビールなんて普段は飲まないし、酒自体ろくに飲めない。飲み始めると、すぐに新しく増やしたばかりのピアスの穴がうずき始めた。

 ラウンジは、混沌としている。体に触り合う人、下着姿で歩く女たち、シーシャの水蒸気、催眠術にかかった男。視界にもやがかかったようなかんじがする。体が、どくり、と脈打つ。酒は回ってきて、目の表面に涙の幕が厚くできる。

 視界の端で捉えていた。その部屋の入り口を。淡い光が漏れる、そこだけ温度が違うような部屋。そこから、かすかに声が漏れてきて、聞こえるような気がする。

 惹きつけられて、やまなかった。

 俺は、そっちに歩いていく。なんとなく、そこに入ったら戻れないような気はしていた。俺は入り口の壁に体を張り付けて、中を覗き見る。

 さっき見た、処刑道具のような、大きな器具。赤っぽい床と壁。さっきと違うことは、そこに人がいること。

 主催者の男が、縄を握っていた。それは天井に近い場所にある器具に括りつけられて、その先からまた伸びた縄が、釣り上げられた女に続いていた。

 女は、目隠しをされていた。短い髪が垂れて、その耳元で揺れる。女は、口を小さく動かして何か言う。

 目隠しをされていて何も見えない気がしたのに、そのとき、確かに目が合った気がした。赤い布の目隠しの向こうは、確かにこちらを向いている。

 「お客さん」

 男が、こちらを見ていた。蛇によく似た、射貫くような視線が俺の目をじっと突き刺している。立っていることがままならなくなるような迫力が伝わってきて、俺は壁に体をつけたまま動けなくなる。

 「のぞきは、いけないんですよ」

 端的に、そう言う。女が、男のほうに顔を向けた。

 「ねえ」

 女は、そう声をかけた。

 「いいよ。おろして」

 縄が緩められて、女は床に近づく。男に、腹に手を回され、体重を支えられながら床に降りる。明らかに素人の者ではない手際で、正確に、結ばれた縄は解かれていく。

 解放された女は、床にひざまずいていた。そして、こちらに這ってくる。目隠しはしたままだった。それ以外はいたって普通の、半袖のTシャツとデニムが、どこか不気味にさえ見えた。

 俺は、しゃがみこんで女の高さに視線を合わせた。女は、目隠しを取る。その時に初めて、俺は女の目を見た。美しく、整った顔だった。俺はまた、動けなくなる。

 「名前は?」

 「トモキ。あなたは……」

 「アイコ」

 「アイコさん」

 女は立ち上がる。今度は、俺が見下ろされる形になった。すらりと長い脚が目の前に伸びた。いたたまれなくなって、俯く。

 「なんで、ここに来たの?」

 「好きな子に、振られたんですよ。ダサいでしょ」

 本当だった。大学で知り合った女の子だった。

 「いいんじゃない」

 目の前に、手のひらが差し出された。そこから続く腕には、細く長い、赤い痕があった。それは彼女の服の中になだらかに続いていく。

 俺は、何も言えなくなった。 

 

 

 無意識にスマートフォンをいじっていた。みゆの名前を探して、通話ボタンを押す。出なかった。すぐに冷静になった。コップに水道水を汲んで、一気に飲む。冷たいそれは喉を通って、体の奥深くに落ちていく。

 部屋の中をうろうろと歩き回った。落ち着かなくて、座ってられなかった。諦めて、床に仰向けに寝転がる。背中がぐきり、と音を立てる。

 そのまま、じっとしている。落ち着かない。鼓動が高鳴っている。嫌になる。煙草も酒もやる気にならない。指先がじんじんとしているような気がしている。目を閉じる。瞼の裏に感じる電灯の明かりを遮るように、目に手を当てる。体を、横に転がす。

 そのまま、じっとしているうちに、浅い眠りについた。20分ぐらいの時間が経過していて、テーブルの上でスマートフォンが震えていた。俺は立ち上がってそれを取り上げて、画面をのぞき込む。

 不在着信の通知と、一通のメッセージがあった。

 『幽霊が出る。部屋に』

 簡潔に、そう記されてあった。

 『は?』

 返すと、すぐに既読がつく。

 『部屋に、幽霊が出るの』

 『そうか……』

 『うん』

 俺は首をかしげる。もう12時を過ぎていた。

 『怖いのか』

 『いや、それはべつに』

 『そうか』

 『ただ、害があるの。ほら、本を投げたり、机を動かしたり』

 『なるほどな』

 言葉のラリーはぱん、ぱん、と間を開けずに行われる。

 『じゃあ、今から会うか』

 『え?』

 『学校の前来いよ。お前の学校』

 『え、でもいいの?』

 『なにが?』

 『アレだったら、電話とかでも』

 『いいんだよ。10分後に学校の前な』

 『うん、わかった』

 『じゃあ』

 『ねえ』

 あいつは、普段から絵文字とか、スタンプとか、そういうものを使わない。でも、なんとなく感情とかは伝わってくる。

 『本当に、大丈夫なの?』

 『大丈夫じゃなきゃ言ってねーよ』

 『わかった。じゃあ、行く』

 箪笥から服を引っ張り出して、着替えた。ぐちゃぐちゃになった髪はそのままにした。普段から髪はあんまり整えなかった。肌寒くて、シングルのライダースジャケットを引っ張り出した。

 『お前、気を付けて来いよ。この時間だしな』

 『大丈夫』

 ドアを開けて外に出て、鍵を閉める。歩き始めると、どんどん体のけだるさはどこかに行って、足取りは軽くなった。

 『襲われたら、投げ飛ばす』

 『投げ飛ばす』

 『うん、投げ飛ばす』

 『そうか……』

 意味の分からん女だと思う。とびぬけた美人なわけでもなければ、愛想がいいわけでもない。それでも、一緒にいると、楽しかった。自分までアホになっていくような気がした。それが心地よかった。

 それに、名前を呼んでくれる。

 学校の近くの自販機で、カフェオレと、ブラックコーヒーを買った。校門について、スマートフォンをいじっていると、みゆは現れた。

 みゆは、また大きいサイズのトレーナーと、細身のジャージを着て、なぜか頭にナイトキャップをかぶっていた。先端に玉のついた、二つに割れたそれが、あいつが歩くたびに揺れる。

 「なんだそれ……」

 「ナイトキャップ」

 「幽霊は」

 「大丈夫。ついて来てない」

 ぐっ、と親指を立てる。ため息をついてしまう。

 「飲めよ。これ」

 カフェオレを渡す。前に買ったことがあるもので、やたらと砂糖が入っていて、甘ったるかったものだ。

 「私がブラック飲む」

 みゆは、カフェオレを受け取らなかった。こっちに、右手を開いて差し出している。

 「そうか」

 ブラックを渡して、カフェオレを開けた。口に含むと、たくさんの砂糖とミルクの、甘ったるい味が広がった。みゆは、ブラックコーヒーを飲んで、顔をしかめてせき込んだ。

 「ばーか」

 笑うと、みゆはこっちを睨んだ。背中を叩くと、身をねじって嫌がった。

 「あっち行こうぜ。明るいからさ」

 「うん」

 この時間になると車も少なく。ほとんど居酒屋や飯どころもないから、本当に静かになる。人っ子一人歩いていなくて、まるで街に俺たちだけしかいないみたいだった。

 「お前、この時間に出歩いて、なんも言われないの」

 「二人とも寝てるから。年寄りなんだ」

 「おじいちゃんおばあちゃんと暮らしてんの?」

 「違う。私、二人が45のときの子なんだ。二人とも年寄りだから、すぐ寝ちゃう」

 「その年でできた子だったら、かわいいだろうな」

 率直な感想だった。兄弟も、年の離れた親戚もいないからわからないけれど、いたらきっとかわいいんだろうと思う。

 「心配かけんなよ」

 隣町の大きい駅に向かって歩いた。そこもしゃれた土地ではなかったけれど、住んでる当たりと比べたら野暮ったくない。

 終電はもう行った。俺たちはロータリーのガードレールに腰掛けた。近くのファストフード店に行く手もあったけれど、人気の多いところには行きたくなかった。

 静かな夜だった。きっと、遠からず冬はやってくる。寒いのだ。指や、首が。俺は、みゆの手に、自分の手を重ねた。冷たいガードレールの上で、手が二つ重なった。そこだけが、火をともしたように温かく感じた。

 「私ね、幸せなんだ」

 「そっか」

 本当に、それはいいことだと思う。きっとこの子は、多くのものを持っている。自分を手放しに愛してくれる両親、まともに暮らしていける環境、安心できる場所。学校に行けば、友達もいるだろう。きっと、人から好かれる子だ。

 「俺さ、実家に、自分の部屋なかったんだ。いつも、母と二人か、一人でリビングにいた」

 「そうなの?」

 「うん。軽井沢のほうなんだけどさ」

 「お金持ちじゃん」

 重ねていた手に、力を込めた。握ると、みゆは掌を裏返した。手のひらと手のひらが合わさって、指が絡み合う。

 「だから、出てきた」

 「そうなんだ」

 このまま、体を預けて眠りたくなった。俺たちは、手を重ねたまま、しばらくじっとしていた。俺たちだけが、ここに取り残されたような気分になった。言葉も失って、何もできない。でも、それも悪くなかった。ここで、手を重ねて、何もできずにじっとしていることが、急に素敵に思えてきた。

 「俺な、悪いことしてるんだ」

 「悪いこと?」

 「援交の斡旋をしてる。モテないけど金はあるおっさんに、金を稼ぎたい女の子を紹介してる」

 みゆは、俺の顔をじっと見ている。その目には、薄く涙がたまる。

 「クソ野郎なんだよ」

 「トモキ」

 言葉が詰まった。それ以上言葉は見つからなかった。謝罪するべきでも、弁解するべきでもない。いたたまれなくなった俺は目をそらして、高層ビルも何もない空を見上げた。

 みゆは俺の頬に手を当てた。そして、目をそらすなと言わんばかりに自分の方に向ける。何を言うでもなく俺の顔をしばらく見つめる。

 それから、思いっきり俺の頭に、正面から頭突きした。

 「いってえ!!!」

 のけぞった俺の頭を両側から押さえつけて、もう一度頭突きする。頭の中で火花が散って、めまいがした。

 「お前……」

 「なんで」

 「なんでって」

 みゆは、何の飾り気も気遣いもなく、そう訪ねた。俺は答えあぐねる。

 金がなかったから?そんなことはないだろう。今ほどの収入じゃなくても、バイトをして金を稼ぐことはできただろう。

 やることがなかったから?それも違うだろう。暇をつぶす方法なんていくらでもある。

 俺は、近づきたかったのか。

 「俺は……、俺はさ、」

 釣り上げられていた、アイコに。俺にはあいつを満たせないなんてわかりきってたのに。あいつをひっぱたくことも、縛り上げて吊るすこともできない。いや、俺には、あいつが何を求めているのか理解することもできない。俺は、あいつに何も与えることができない。

 最初っから、全部わかっていたのに。

 「間違ったんだ……。気づいたら、気づいたらさ……」

 「最後までしゃべりなよ」

 「俺は……」

 「最後まで喋んなきゃだめだよ!!」

 「寂しかったんだよ!!」

 満たしたいのに、何もできないことが。少しでも、あいつが見ているものを見たかった。あいつが通ってきた道を、少しでも知りたかった。少しでも、体に触れたかった。あと一回でいいから、抱きしめたかった。隣で眠って、目覚めた時に、そばにいてほしかった。

 手を、握りたかった。

 口でしてほしかったわけでも、そうしてやりたいわけでもなかった。俺は、隣で眠って、目覚めてくれればよかっただけだった。 

 「俺は、クソ野郎だ……」

 「そうだよ」

 みゆの声には強い力がこもっていた。俺は、顔を上げられない。その顔を、見ることができない。

 「それで、これからどうするんだよ」

 「ぜんぶ、やめたい……」

 「どうしたいかじゃない。どうするか聞いてんの」

 「全部、やめる」

 「言ったな?」

 「やめる……」

 みゆに抱きついて、その肩に顔をうずめた。きつく抱きしめたとき、また、ポケットにしまわれたナイフの柄に触れた。これが、みゆの傷なのか。俺に、何ができるのか。何も、この子のことを知らないのに。

 「やめる……」

 俺たちは、夜が明けるまでロータリーにいた。向こう側から、オレンジ色の光が昇ってきて、それがだんだん色を取り戻すのを二人で見ていた。そのときも、ずっと手を握っていた。縋っていたのだ。そうしたいから。そうしないと、壊れそうだから。

 「みゆは、どうしたい?」

 そう口にした。聞いておきたかったことだった。この子は、何に希望を持っているのだろう。

 「何になりたい?」

 「お嫁さん」

 「お嫁さん?」

 みゆは、力強くうなずいた。強い秋風が吹いて、俺たちは飛ばされそうになる。ひどい眠気と、空腹が襲ってきて、俺はみゆから体を離した。

 「朝飯いかない?」

 「うん」

 「おごるわ」

 「当たり前」

 俺たちは、立ち上がる。さっきまで、暗闇に溶けてしまいそうなぐらいもろかったのに。足取りはしっかりとしている。

 その日、久しぶりに飯をうまいと感じた。そして、夢も見ずにぐっすりと眠った。

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