第5話 タトゥー

 たまに、起きて、昨日シャワーを浴びたかどうかわからないときがあった。そういうとき、髪を触るとその汗のべたつき具合や感触で、浴びたかどうかわかった。昨日は浴びていなかった。

 朝に弱い。起きても、すぐには動き出せない。体は重たく、膝と腰には重たい靄が絡みついているようだ。起き上がる気になれない。しかし、もう一度眠ろうとしてもうまくいかない。瞼の感触はやけにはっきりとする。

 髪が、伸びたと思う。一度、冬に坊主頭にした。その前はモヒカンだった。モヒカンを長くして、たらしてほとんど坊主頭になっているのを隠していた。刈り上げたところにバリカンで絵を彫るのが好きだった。トカゲの絵や、なにかトライバルな模様。10日もすると、それはほとんど見えなくなってしまう。そうすると、自分でバリカンでまた髪を刈り上げた。

 5つ開いていたピアスもふさいだ。おぼこくなった自分の見た目は、まだ慣れない。少しずつ伸びた髪は、眉毛を隠し、耳を半分隠していた。

 たまに、それら全部をめちゃくちゃに切りたくなる。実行に移すことはなかったけれど。

 曜日の感覚はおかしい。毎日、カレンダーを見て確認する。今日は金曜日だった。金曜日は一限から授業だった。俺はあきらめて、椅子に体を投げ出すようにどかっ、と座る。煙草を探すけれど、テーブルの上にはない。ため息が出た。

 昼の一時だった。昼食を取ろうと思った。布団から体を外に引きずり出し、またあの定食屋に行った。

 あの夜、あの女は、みゆ、そうだ、みゆだ。みゆは、ここのガラス戸から、中を覗いていた。食いたかったのだろうか。高校生だと、そこらの定食屋で飯を食うこともあまりない気がする。俺はなかった。

 入って、いつもと同じ定食を頼んだ。慣れ親しんだ味だ。安心感すら感じる。

 たまに、食べてる途中から煙草を吸いたくなる時がある。大抵は我慢できるけれど。なんとなくスマートフォンを開く。指示していた仕事が終わったという報告があった。メッセージを飛ばして、俺はまた食事を再開する。

 食べ終わり、会計を済ませて家に戻る。それから、仕事を始めた。 

 平日の昼間、仕事は少ない。当たり前だ。ほとんどの人間が仕事をしているか学校に行っているかの時間だった。こんな時間にいるなんて、ほとんどがまともな人間じゃない。

 またひとつ報告を受けて、次の指示を飛ばす。そして、シャワーを浴びた。

 家で風呂の用を足すとき、風呂と洗面所の電源を消していた。そうすると、真っ暗闇になってほとんど何も見えなくなる。その中で、水の音と、温度だけを感じる。安らかな時間だと思う。大した趣味も娯楽もないが、この時間は好きだった。

 体の上で水滴がはじけて、流れていくのを感じる。温かい。ハンドルを捻って、水を一気に冷たくする。体は震えて、鳥肌が立つ。伸びた髪の毛が冷たくなって、耳に絡みつく。

 バスルームを出て、ズボンだけを履いた。ドライヤーもかけないまま、テーブルに戻ってパソコンに向かい、仕事を再開する。またひと段落して、Tシャツを着てホテルに向かった。

 また、あのホテルだ。あの場所は、嫌いじゃない。

 家からそう遠く離れておらず、出てすぐに着く。たまに援助交際に大金を突っ込んでいる親父や、それと似たような、若い男に狂っている中年女が、この時間から使っていた。どこか苦々しさを感じるさまだった。

 駅の近くに、喫茶店がある。その喫茶店には、二つ入り口がある。表通りに面した明るい入り口と、吹き抜けになった店内の突き当りにある、出るとすぐにホテルが真横にある入り口。そういった連中にとって、そこはいい場所だった。表の入り口から入って、待ち合わせて、裏のドアから出ていく。そして、あの小さなホテルに入る。

 黄ばんだ合皮の暖簾をくぐって、中に入る。俺の前に、一組の男女が受付を済ませて中に入っていった。女の足取りはたどたどしい。スーツを着た男は、ずんずんと中に入っていく。おそらく不倫だった。

 いつものように受付を済ませて、客の隣の部屋に入った。ベッドに体を投げ出す。まだ、体はだるかった。

 ほどなくして、終了の報告が入った。なんとなく、気が向いた。面接以来、会っていない子だったと思う。俺はノックして隣のドアを開ける。その子は、ベッドに座っていた。

 好きなタイプの見た目だった。黒く、長い髪。かわいらしい、というより、きれいだと感じる顔。目鼻たちがくっきりとしている。

 「おつかれ。どう?」

 「あの……」

 口ごもり、目をそらす。

 「今日の人なんですけど、なんか怖くて」

 「イカツいの?」

 いま俺の下で働いている人は、もうだいたいが半年以上働いていた。金に困ることもなかったし仕事を大きくする気もなかったから、この数か月は面接は行わなかった。ほそぼそとやっていられればいい。

 「はい。ただ、態度が怖いとか、そういうことじゃないんです、なんていうか」

 そいつ、カタギか?

 疑問がよぎったけれど、何も言わなかった。本人に会えるようだった。バスルームのドアががちゃり、と開いた。そこから足が伸びてくる。男の体が姿を現す。

 その足には、ぐるぐると蛇が巻き付いたようなタトゥーが彫られていた。それから現れた、腰、胴体、腕から肩に至るまで。隆々とした首から下には、ほとんどタトゥーが彫られている。

 よく、ヤクザが彫っているような、全身を覆い隠すような和柄ではない。蛇が巻き付いたような模様、植物、何か、中国語らしき言葉で書かれた、漢字がいくつも連なる文章。それらが重なり合って、その男の体をまがまがしいというより、どこか芸術的な趣があるようにさえ見せていた。

 男が、こちらを見た。ピアスのない耳はきりりと上を向き、短い、白っぽい金髪が無造作に踊っている。タオルも身に着けず、男は部屋に出てくる。

 感情や生気の感じられない目は、まっすぐに俺を見ていた。

 「マナー違反じゃないですか。客がいるのに」

 「どうもすみません。ただ、うちも、タトゥーのあるお客さんは断ってるんで」

 「お若い」

 「あなたも」

 おそらく、歳は近かった。20代前半。その顔にはまだ十代の名残が残っている。ひげも薄く、しわもない。若々しい顔だ。

 俺は煙草に火をつけた。ポケットから箱を取り出し、煙草を一本取り、それを口にくわえ、息を吸いながら火をつける。その動作の一つ一つを、男の目は捉えていた。

 気味が悪い。率直に、そう感じた。

 「この辺りの方?」

 深く吸い込んだ煙を吐き出す。俺と、男の間を、煙が舞っていく。女の子が、ベッドについた俺の手に触れた。俺は体を倒して、女の子の肩に頭を持たせかけた。

 「この辺りの方?って聞いてるんだけど」

 「西川の者です」

 「知らないけど」

 おそらく、近くのキャバクラなり風俗なりをしきっている組なのだろう。男は、俺から目を離さない。

 「以後、お見知りおきを」

 「会いたくないなあ」

 男は、投げ出されていた服に袖を通す。無駄のない動きだ。ひとつひとつの所作が美しい。

 幾重にも彫られたタトゥーの上に、服がかぶさっていく。白いスラックスの上にTシャツを着て、その上に、これも白いジャケットを着る。随分、崩した着こなしだった。

 ジャケットの向こうで、鍛えられた筋肉が存在感をあらわにする。

 「では。また使ったら、よろしくお願いします」

 「タトゥー、消してきてくださいね」

 「ええ」

 生返事に、舌打ちを返した。男は、ドアを開けて、外に出ていく。後ろ手に絞められたドアががちゃりと音を立て、部屋には俺と女の子だけになった。

 「ドキドキした?」

 女の子は、うなずいた。

 「横になろ」

 俺たちは、並んでベッドに体を投げ出した。その子の髪に触れて、その胸元に、横から頭を当てた。

 ああ、この子の名前、なんだっけなあ。

 

 夕方になって、ホテルを出た。アパートのほうまで行って、それから、帰らずに道を突き当りまで行った。

 向こうから、たくさんの高校生が歩いてくる。珍しくはない光景なのだけれど、大勢の人間が同じ服を着て歩いている姿は、どこか異様に見えてしまう。オフィス街もそうだ。髪が真っ黒の、スーツを着た大人たちが大勢歩いている。あの光景が、どうにも慣れなかった。

 校門から、その流れはやってくる。右に曲がると、道路に面したところに高校はあった。その外壁によりかかった。たまに、学生たちが俺を見て、訝し気に目を細める。スマートフォンをいじりながら、待ち続ける。

 30分が経過したときだった。みゆは校門から出てきた。制服のスカートとシャツの上に、やぼったい、ネイビーのカーディガンを羽織っている。他の生徒と違って、ブレザーは着ていない。そして、頬に、大きなガーゼを当てていた。

 「お前、どうしたそれ」

 「あんたがどうしたのよ……」

 「会いに来たんだよ」

 「捕まるよ?あんた……」

 「捕まんねえよ」

 「通報しよ……」

 「お前の親族だって言い張るよ」

 みゆは嫌そうに口元をゆがめた。

 「チャリ通だから」

 駐輪場までついていった。最近の高校ってチャリ通もできるのか。いや、俺の高校も大丈夫だった。あのあたりは自転車がないと生活できない。

 「家、どのあたりなんだよ」

 「近いよ」

 「その頬はどうした」

 「質問攻め?」

 「べつにいいだろ」

 ポケットの中でスマートフォンがぶるぶると震えた。一度取り出して、機内モードにする。

 「なあ」

 「なに?」

 「お前、紅茶とコーヒーどっちが好き?」

 「私、カフェイン取れない」

 「じゃあ、ココアな」

 近所の喫茶店に向かった。この辺りには珍しく、雰囲気のいい店だった。個人経営で、人もそんなに多くない。茶色い、板チョコのようなドアを開けて中に入ると、薄暗い照明に照らされた中に、店主の中年男性が立っていた。俺たちは奥の二人掛けのテーブルに席を取った。

 「喫茶店とか来るのか?」

 「たまにスタバとか行くよ」

 「あれはカフェな」

 「よくわかんない」

 「ここは喫茶店な」

 灰皿はもらわなかった。今日はもう吸わないことにした。

 「なあ、その頬、ほんとにどうしたんだよ」

 「べつに?」

 「殴られたのか」

 「絶対違う」

 「じゃあ、なんだよ」

 目をそらして、テーブルの面をじっとみる。目を伏せると、まつげが長いのがよくわかった。よく見ると、整った顔だった。幼げには見えるが。黒々とした睫毛に縁取られた目は強い力を持っている。低い鼻と薄い唇と、その目元のコントラストは印象的だった。

 「自転車で転んだ」

 「さっき乗ってたやつ?マジで?」

 頷いた。俺は吹き出してしまう。

 「なんで笑うの」

 店主が、ココアを二つ運んできた。テーブルの上でことりとソーサーが音を立て、その水面が揺れる。甘そうに濁ったそこから、チョコレートと熱したミルクの香りが昇ってくる。

 「お前が普段飲んでるココアより、ずっとうまいよ」

 「トモキさんは、」

 みゆは、ココアに手をつけるより先に、口を開いた。今度は、その目がしっかりと俺を射抜いている。

 「なんであの日、泣いてたの」

 「名前、呼ぶんだな」

 「呼ぶよ」

 「呼ばない奴のほうが多いよ」 

 「名前は、ちゃんと呼ぶようにしてる。お前とか、あんたとか、ほんとはあんまり好きじゃない。さっきは……」

 「泣きたくもなるぜ」

 久しぶりに、名前を呼ばれた気がした。

 「なあ、俺の名前は?」

 「トモキ」

 「呼び捨てかよ」

 「トモキ」

 笑ってしまった。それから、ココアを啜った。この頃口にしたものの中で、一番うまかった気がした。

 「すみません、注文いいですか?……このサンドイッチと、チョコレートと、あと、ドライフルーツください」

 「そんなに食べるの?」

 「みゆも食べるんだよ」

 「名前呼んだ」

 「そりゃ呼ぶだろ」

 店の中には温かい空気が流れている。かすかな音量で流れるジャズ、キッチンに立ち上っている湯気、それが天井の換気扇に吸い込まれていく。チョコレートの甘いにおい、ドライフルーツのくすんだ色。 

 テーブルの上には食べ物が増えた。ピクニックに来た家族のようだった。俺たちはすぐにサンドイッチを平らげ、チョコレートとドライフルーツに手を出した。腹が減っていたのか、みゆもすぐに食べた。

 みゆの指は細い。女の子らしい手、というようなものとは少し違う。骨ばっていて、細く、長い。すらっと伸びた筋が、白い肌の上に浮き出ている。

 「手、きれいだな」

 そう言ったが、何も答えなかった。

 「それと、ものをうまそうに食べる」

 「おいしいからね」

 「腹が減ってたのか」

 「弁当もちゃんと食べたよ」

 「食い意地が張ってるな」

 サンドイッチは、BLTサンドだった。マスタードとマヨネーズ、そして、トマトの汁の味。口の中にそれらの香りが広がる。

 しばらく、自分が似たようなものばかり口にしていたことに気づいた。栄養が偏っていることはないだろう。野菜ジュースも飲んだし、定食屋の飯は健康には悪くないはずだ。

 だが、食事を楽しんだことはなかった。

 「ねえ」

 「ん?」

 「なんであの日、泣いてたの?」

 「酔っぱらってたから」

 「あの時は違うって言った」

 「酔っぱらってたんだよ。酔っぱらってたから、酔っぱらってないって言ったんだ」

 今度は、俺が目をそらした。指を一本一本、ぱき、ぱきと鳴らす。薬指が痛んだ。口元に薄ら笑いが浮かぶ。

 「なあ、また学校いくよ」

 「そう」

 「面白くないか」

 「面白くないってなによ」

 気の強いやつだと思う。

 そして、きっといいやつだ。

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