第4話 出会い

 母が、俺の手を引いている。父はいなかった。物心つくと、俺は母と二人で暮らしていた。知っている父の顔は、仏壇にある写真だけだ。うちにはアルバムもない。俺は、赤子の頃の俺の姿を知らない。三島由紀夫は、自分が生まれた時の記憶があると言っていた。そんな風に、俺も自分の姿を思い出すことが出来たら。もしもできるなら、羊水に浸かっていた、その温かみまで。何か、温かいものに浸っているというのはいいものだと思う。産湯、風呂の中。一緒に、母と眠った布団の中。

 冬になると、豆腐のような、厚ぼったい布団を二人でかけていた。母は、俺の足をその腿の間に挟んでくれていた。そうしていると、温かかった。ありがとう、といって、俺はその胸に顔をうずめた。母も温かくかんじていたらいいと思う。

 春も、夏も、母が眠りに落ちたとわかると、その体に抱きついて、その胸に、その背中に顔をうずめた。母の匂いは知っていた。いい匂いだとは思わなかったけれど。そうして眠って、朝になると、ひとりで布団に横たわっている。母は、俺よりも早く起きる。そして、コーヒーを飲む。

 母は、煙草を吸う人だった。ウィンストンだった。6歳の時に、母が買い物に出かけたあと、一本だけ吸ったことがある。テーブルの上にあった箱から一本だけ抜き取って、ライターの火をあてがう。吸いながらじゃないと火がつかないことを知らないから、なかなかうまくいかない。格闘の末、火がつく。その先端から煙がのぼって、肺に吸い込まれた。せき込んだ。口から、煙がいきおいよく、ぼふ、ぼふとのぼった。おいしくないと思った。二度と吸うまいと思った。

 その日の夕飯は、つけものと、ひじきと、たまごやきと、みそ汁だった。田舎のおばあさんが食べるような、質素な和食が俺も母も好きだった。食事をする間、母はしゃべらない。いや、そもそも、寡黙な人だった。

 「お母さん」

 「ん?」

 おかわり、と言おうとした。言わないで、自分でご飯をよそりに行った。母の炊くご飯は固めだ。しっかりとした歯ごたえがある。炊飯器をあけると、蒸気が昇る。母は、小さな茶碗で一杯だけいつもご飯を食べる。二合炊くと、少しだけご飯がいつも余る。その日、俺はいつもよりも多く食べた。二回おかわりをした。腹がパンパンに膨れた。

 その日、母はいつものようにコーヒーを飲んだ。コーヒーの香りは好きだ。煙草よりもずっと。

 「お母さん」

 「ん?」

 「お母さんは、なんでいつも、コーヒーを飲むの?」

 「落ち着くからかな。安心する」

 「安心?」

 「うん、安心するんだ。この味」

 「タバコは?なんで吸うの?」

 あんなにもおいしくないのに。そう言いそうになって、黙り込んだ。母の目が、俺を見下ろしている。目と、その上でカーブを描いた眉毛が、黒々として、俺はうつむいてしまった。

 「安心するからかな」

 「ぼくが、お母さんとくっついてるときと一緒?」

 「それは違うかな」

 「違うの?」

 「トモキのことは、大好きだから。ねえ」

 母は、俺を隣に座らせた。狭い肘掛け椅子で、体を詰めて、ぎゅうぎゅうになって二人で座った。そして、俺の頭を抱いた。母の、肩ぐらいまであるウェーブのかかった髪が、俺の額に落ちた。それが、肌の上を撫でた時、俺は眠りそうになった。

 「ほんと、大好きだよ」

 俺と母は、お互いに何を感じ取ったのだろう。その光景しか、その声しか、俺はもう思い出せない。

 軽井沢の冬は長い。9月にもなると、ジャケットを羽織って外に出るようになって、10月には、もっと厚着する。11月になると、震えだす。12月は目も当てられない。短い夏はすぐにどこかに消えてしまう。あの夏が、冬の白い吐息の正体なのだと思う。あんなにも温かいから、あんなにも湿気を伴って、どこか実体を感じさせるから。

 気が付くと体は大きくなった。身長は170cmを越えて、母は頭二つ分も俺より小さくなった。二人とも牛乳は嫌いだった。学校も嫌いだった。小中学校にはろくに行かなかった。なんとなく学校にいない。なんとなく授業に出ない。義務教育なのに、勝手に教室を出てそこらをふらついてしまう子供が俺だった。高校に進んでもそんな調子だった。

 高校の保健室の無機質さや、光を反射する淡い色の床は覚えている。大体いつもカーテンは閉まっていて、たまに開いていると、そこから先生がグラウンドを覗いていた。俺は、グラウンドや廊下をうろつくか、保健室に行っていた。教室にいるときは本を読むか、眠っていた。

 先生には、子供がいなかった。たぶん、歳は30代の後半くらいだった。きれいな人だった。光に当てると茶色く見えるその髪は、まるで上質な糸のようだった。たまに開いている窓から差し込む光に照らされた先生は、彫刻みたいだった。

 「今日はどうしたの?」

 「吐き気がするんです」

 「そう」

 ほとんどいつも、そう言っていた。ここに来る理由なんてなかったと思う。ただ、他の場所より、狭くて、人が少なかった。

 その日は、保健室に行く前に、トイレに行って、自分の喉に指を突っ込んだ。粘膜に爪が触れて、俺は餌付いた。水温がして、そこでやっと、本当に気分が悪くなる。

 「もう吐いてきました」

 「そう。なら、もう大丈夫ね。座る?お水は?」

 「ありがとうございます。いただきます」

 黄色い、形の違うカップが二つ、机の上に並べられた。先生は、きっと黄色が好きなのだと思う。冷蔵庫から取り出されたミネラルウォーターがそこに注がれる。丸みのあるほうが、俺に差し出された。俺は、また小さく「ありがとうございます」とつぶやいて、それを口に含んだ。水はよく冷えていた。驚くほどに。

 「冷たい」

 俺がそういうと、先生は笑った。先生の笑った顔は好きだ。優しい顔だから。人に優しくするときの表情だから。

 奥のベッドから、寝息が聞こえる。鼻が詰まったような、呼吸と鼻孔がこすれるような音が聞こえる。カーテンが閉まった、そこにいる生徒は、男子だろうか。サボりじゃなかろうか。

 先生は、黄色いカップから水を飲み干す。デスクの上に置かれたそれは軽い音を立てる。

 先生が、手を伸ばして、俺の膝に触れた。俺は、それについて何も言わない。先生も、何も言わない。数秒経って、手を離す。

 カーテンが揺れた。そのときに、実は窓が開いていることに気づいた。風は強くて、カーテンはばさばさと音を立てる。生徒が寝返りを打ったのか、奥のベッドが軋む。

 「ごちそうさまです」

 黄色いカップを先生に返した。先生はうん、と言ってうなずいた。俺は保健室を出て、教室のほうに向かって歩き始める。もうすぐ授業が終わる。今から入るのは嫌だったので、トイレに行って、ぼんやりとした。用を足すでもなく、壁に寄りかかっている。トイレには誰もいなかった。

 床は、水色のタイルだった。小さな四角がいくつも組み合わさって、床と壁をなしている。その間の、白く、細い溝には塵が、埃がたまっていく。部屋の真ん中あたりに排水溝があって、その銀色の口は、黒い斑点で汚れている。

 そこを、しばらくじっと見ていた。

 チャイムが鳴った。俺は教室に行って、鞄を取った。まだ、3時間目が終わったばかりだったけれど、俺は学校を後にした。

 帰ると、誰もいなかった。

 

 「お前は、何が欲しいんだ。なあ、言葉にしてみろ。いい加減、答えろよ」

 俺が、俺をつま先でなじる。脛のあたりに、何度もつま先がぶつけられて、俺はそのたびに体をびくつかせる。体を預けた壁と床は人工的な冷たさだ。どこにも、助けはない。

 「俺はお前をよく知っている。そして、お前もお前をよく知っている。何を欲しがっているのか。セックスか?なあ、アイコとやりたいか?」

 「ちがう……。俺は、何も……」

 「家に帰りたいか。あの軽井沢の家に……」

 「いやだ、俺は帰りたくない。誰もいなかったら……」

 「さみしいのか?」

 「何も、欲しがってない……」

 「何が欲しい?」

 「さむい……」

 声以外のすべての音がなくなったようだった。俺以外には誰もいない街。何もかも消えてなくなってしまったような夜。自分が、人でなくなってしまったような気がする。自分は何か、珍奇な動物か、人が好まない植物にでもなってしまったかのようだ。誰も触らない、見つけてくれない。体は震える。さむい。なんでこんなにも体が震えるのかも、自分でもわからない。

 「ほら」

 頬に、温かいものが当てられた。熱いぐらいのそれに体をびくつかせる。それは金属の質感を伴っている。それはまだそこにあって、また、頬にぴたりと当たって、それから、俺の手に降りてくる。

 「さむいんだよね?」

 缶コーヒーだった。ブラックの。自販機ではもう、温かいコーヒーが売っている。目の前に生身の人間がいることに、やっと気づいた。目の上をゆらゆらと揺れる前髪が、肩ぐらいまである髪が、嗅いだことのないにおいを漂わせた。

 「飲みなよ」

 あの夜に、会った女だった。ナイフを持っていた女。まだ大人には見えない、幼げな女。

 女は、俺の手からコーヒーをとって、蓋を開けた。そして、また俺の右手にそれを差し込む。

 「こんなに酔っぱらってる人、初めて見た」

 「酔ってない」

 「酔っ払いはみんなそういうんだよ」

 「あんたは……」

 「通報してやろうか」

 口をつぐんだ。何も言葉が出てこなかった。女の手にも缶コーヒーが握られていた。女は、俺と向き合ったままコーヒーの蓋を開けた。そして、少し顔をしかめた。

 やっぱり、どこか幼い。18歳ぐらいか?また、だぼだぼとしたパーカーを着ていた。あの日とは違うものだったが、それは同じように体を覆い隠している。濃い紫の、厚い生地がその手のひらを隠し、体のラインを覆いきっている。

 服が大きいのではなく、体が小さいのだ。おそらく、150cmもない。小柄な女だった。

 「お前、いくつ?」

 「17」

 「マジで通報するぞ」

 「そしたら、酔っ払いに触られたっていう」

 「最低だなお前」

 「酔っぱらって大声でひとりごと言ってる人に言われても」 

 女は立ち上がり、少し離れたところまで歩く。それから、俺を振り返る。

 「酔い、醒まさないの?」

 「酔ってない……」

 「それはもういい」

 なんとなく、女のポケットを見た。今日も、ナイフがあそこに納まっているのか。

 俺たちは、道を歩き始める。この辺りは本当に何もない。大きな道が、ひたすら向こうに続いている。近くを、自転車が通り過ぎた。俺たちは無言になる。

 「親は、何も言わないのかよ」

 「高校生みたいな質問だね」

 「お前、そうだろ」

 「そうだよ。すぐ向こうの高校。制服かわいいんだ」

 すっかりペースに飲まれる。俺は煙草を取り出して、火をつける。深く吸い込む。肺の奥まで吸い込んで、吐き出す。煙が女にかかった。俺はうつむく。女は俺をじっと見ている。

 「そこの、大学生でしょ」

 「そうだよ」

 「知ってる」

 女は、そう言った。

 お前、俺を知ってんのか。

 声は出ない。煙と空気ばかりだ。

 「私のこと知ってる?」

 女は、そう聞いた。なんとなくうなずいた。知るわけがなかった。知ってるのは、この女がナイフを持ち歩いていることぐらいだ。

 「じゃあ、知り合いだね」

 そう言って、女は道路脇の縁石の上を歩き始めた。

 「名前は?」

 「トモキ。あんたは?」

 久しぶりに、自分の名前を聞いたような気さえした。母以外に、俺をそう呼ぶ者は誰もいなかった。

 「みゆ。17歳」

 「歳はさっき聞いたよ」

 「またね」

 みゆは、縁石から飛び降りた。車道へと。車が、そのすぐそばを通り過ぎた。車は、一度だけクラクションを鳴らした。見えるところにある車はそれだけだった。みゆは赤信号を無視して、向こう側に渡る。そして、小さく手を振った。俺は、じっと立っていた。

 なんだか、眠くなった。時間はまだ夜の十時だった。

 今日は、早く寝ようと思った。帰って、すぐにベッドに入った。

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