第3話 泣き声

 食べ終わってから、店をふらふらと出た。そのまま、路上に座り込んで、煙草に火をつけた。ウィンストンは、たいして味がしない。それでも心地いい。

 煙草を吸うなんて、自分の体を燻すようなものだ。喉と肺を燻し、血を汚していく。わかってはいる。わかってはいるけれどやめる気はなかった。

 女が、ひとり、店頭から店の中をのぞき込んでいた。ラストオーダーを終えた店内はもう片づけが始まっている。女は羽織っている厚ぼったい、濃い紫色の生地のパーカーをもぞもぞとさせた。尻のポケットの財布を触って、ため息をつく。それから、駅のほうへと歩き始める。

 すらっとした背筋だった。肩まである黒髪が冷たい風に揺れた。

 ふと、顔が、見たいと思った。

 「なんで?」

 「わからない」

 「わからないことばかりじゃないか」

 スニーカーを履いたその足が、ぴったりとした黒いズボンを履いたその足が、どこかへと去ってしまう。その一歩一歩がやけにゆっくりに感じて、俺はついていってしまう。普通に歩いていれば、追いつける。ついていきたい。その横にだって行ける。その顔をのぞき込むことができる。

 女はポケットをごそごそとやる。そして、スマートフォンを取り出す。イヤフォンをつけて、何か操作する。きっと、その耳とイヤフォンの間には素敵な音楽が鳴り響いている。

 女がポケットに手を突っ込んだときに、それは鈍く線を引きながら床に落ちた。そこそこの重みをもったそれは、低い音を立てて、弾みもせずにそこに横たわる。古びた色の柄と、ぐるぐるとまきつけられた、テープのような鞘。

 その向こうは、凶器だ。

 「あ」

 女は小さく声を漏らした。慌ててそれを拾う。

 顔が、見えた。まだ成人していないのではないだろうか。あどけない顔だった。三白眼の上で、前髪がさらさらとゆれる。

 女は、刃物を拾い上げて慌ててポケットの中に隠す。俺は一歩近づいて、その女を見下ろした。

 「通報してやろうか」

 そんなことを言いたいわけではなかったけれど、ろくなことは何も言えない。

 女は、しゃがんだまま俺を見下ろす。大きなパーカーにその指先は隠されている。そこには、刃物が握られている。

 俺を、刺すかな。

 「おい、通報してやろうか」

 もう一度繰り返すと、女は敵対心を滲ませた目つきで俺を見上げた。目力の強い女だった。

 「そうですか」

 女はそういって、ナイフをポケットにしまった。そしてまた、背筋をすらりと伸ばして歩いてく。その姿が、夜の闇に紛れて消えていくのをそこに立って見ていた。

 また、夜が深まる。

 「お前が何を欲しがっているのか、俺は知っている」

 俺も、家路についた。

 

 大学の女には興味がなかった。ほとんどが、黒か茶色の髪をして、流行の服を着ている。何人もの女が似たようなジャケットを着て、同じような髪型をしているのを見た。男もそうだった。

 人と違うような服を着ると、注目を引く。注目を引くというのは、きっといいことばかりではないだろう。人と違うということは、危惧もされる。こいつは、何か俺たちに影響を及ぼすのではないか、俺たちに害を及ぼすのではないか。人はみんな、知らないものと退治するとき、一番最初に恐怖を覚える。これはなんだろう?といぶかしみ、見つめるその時に感じているのはきっと恐怖だ。静かにふるまっても、その心の中はさざ波だっている。

 服はいつも地味なものを着ていた。無地のパーカーやセーター、Tシャツ。細い、黒いパンツ。誰にでも似合うであろうもの。どんな体系の人が来ても似合うだろうもの。

 その日は珍しく、朝から大学に行った。寝坊して、一限のギリギリに大学に着いた。エレベーターはひどく混みあっていて、階段で五階まで上がった。息が上がり、膝が重たく感じた。

 経済史の授業だった。日本や、他の国がたどった経済の歴史。ブラックマンデー、グローバル化、世界大戦後の経済。大学の中では珍しく興味を惹かれるものだった。聞くのが苦痛じゃなかった。寝息を立てて授業中に眠ることもなかった。

 大学に入った頃、90分の授業に慣れるまでが大変だった。高校の授業は50分で、その倍近くの間、机に座って話を聞いているのは、簡単ではなかった。もともと、じっとすわっているのは得意じゃなかった。

 講師の話を聞き、ノートを取っている間にその時間は近づく。気の抜けた終業のメロディーが流れて、挨拶もせずに生徒たちはざわざわと教室を出ていく。

 その日、アイコから連絡があった。

 

 アパートに戻ると、アイコがドアの前にしゃがみ込んで、かちゃかちゃと針金をカギ穴に差し込んでいた。もう飽きていたのか、投げやりに針金を鍵穴に出し入れし、絡み合わせる。

 「ピッキングとかマジかよお前……」

 「できるかなって……」

 「通報されたらどうすんだよ」

 鍵を開けて、中に入る。開けっ放しになっていた窓からひゅう、と風が吹いた。俺たちは靴を脱いで部屋に上がる。アイコは床に座り込んで半ズボンから伸びた足を投げ出し、俺はインスタントコーヒーの準備をしていた。

 アイコの足はきれいだ。すらりと長く、品の良い曲線を描いている。

 「何見てんの」

 「足きれいだなって」

 「そう」

 アイコは笑っている。

 「ほんと」

 お湯が沸いて、カップにパウダーを入れて、お湯を注ぐ。部屋には、アイコのマグカップがあった。あいつが買ってきて、持ち込んだものだった。赤い、どこかオリエンタルな雰囲気の模様が描かれたマグカップ。そこにコーヒーを注ぎ込んで、アイコが座っているところへ持っていく。

 床にカップを置いて、俺も床に座った。目が合った。アイコはコーヒーを静かにすすった。俺もそうした。いつもより苦い気がした。

 「仕事は?」

 「今日は休み。体調悪いって言っちゃった」

 「そう」

 アイコがうちの仕事をやめて、一般の企業に就職したのは半年前のことだった。学生の頃からキャバクラや風俗を転々としたアイコは、最後には無職になりながらも、うちで働いていた。

 「悪くないよ、案外」

 オフィスはそこそこに広くて、いくつものデスクが並んで、そこで多くの人がパソコンを使って仕事をしたり、書類の整理をしたりしている。自分は朝早くに着いてデスクを掃除して、お茶の準備をするのだという。それから、自分も与えられた仕事をする。

 「向かないのはわかるけどさ。なんか、ぼんやりと過ごすの」

 「かったるそうだな」

 「かったるいわよ。でも、もうそれでいいんだ。穏やかじゃない」

 床に、足が投げ出されている。そのつま先を、なんとなく眺める。

 「なあ、キスしよう」

 アイコは首を振る。コーヒーを飲む。俺も飲む。

 「口でしてくれない?」

 「いいよ」

 初めて会ったときも、アイコはそうだった。いつも淡々としている。絶対にキスはしない。それで、俺の名前を呼ばない。体に触れることはある。でも、それはきっと俺の体じゃない。誰かの体と同じ。いくつも降り積もっている落ち葉の一つだ。

 腿が外気に触れて、その向こうに温度を感じる。隙間から差し込まれた指は確かに触れている。人と人がそういう風に触れるときの温度に、俺はまだ慣れることができない。きっとこれから先もそうだろう。

 息が漏れる。そこを、蛭が貼っている。蛭は肌にくっつく。そして、吸い上げる。こちらの意思とは関係なく、そこから吸い取られていくものがある。

 アイコは、こちらを見上げない。目は合わない。俺はなんとなく、その髪に触れる。そういうとき、いつも横からするようにしていた。上からすると、押さえつけてるみたいだった。相手に威圧感を与えるのが何よりも怖かった。

 そういうコミュニケーションには、いつも恐れが付きまとう。相手が不快じゃないか。痛くないか。相手の顔色をずっと窺っている。知らないうちに俺は高鳴っていく。体が、全身がはれ上がったみたいだ。全身が臓器になったみたいだ。体は脈打つ。

 指に絡んだ短い髪の毛は、撫でるたびに、するすると零れ落ちていく。とどめようとすればするほどに、どこかへ行ってしまう。

 アイコの匂いは覚えていた。きっと、目をつむっていても、眠っていても、アイコが近くに来たらわかる。鮮明にアイコの匂いは覚えていた。アイコだけじゃない。人の匂いは全部覚えている。抱きしめて、その首筋に、一度だけ顔をうずめる。そうすると、どんな人の匂いでも覚えることができた。記憶は、いつも匂いを伴う。煙草の匂い、食べ物の匂い、汗のにおい、石鹸の匂い、どこからか湧いてくる、人の匂い。

 アイコの匂いは、人の匂いが濃いと思う。

 キスは、許されない。

 しばらくして、終わる。ティッシュボックスが乾いた音を立てる。ああ、俺もあんなふうに見えてんのかな。無機物なのかな。

 体はまだ高ぶっている。

 「ねえ」

 首筋に、顔をうずめる。セックスはしない。きっと、これから先も、アイコとすることはない。二度と、そんなに深く交わることはない。

 あんたは、俺の何なんだ。

 アイコがそうしたように、腿に触れる。胸に触れる。女性の体は不思議だ。何かが、根本的に男の体とは違う。形とか、丸みとか、そんな簡単な話じゃない。何かが、決定的に違うんだ。

 また、匂いをかぐ。そうだ、よく知っている匂いだ。

 アイコが、どこを触られるのが好きなのか、俺は知っている。体のそこらに唇をよせる。それだけが、俺には許されている口づけだ。下着の乾いた感触、さらさらとすべっていく指。遠い昔、母にそうしたように俺は吸い付く。剥がした下着はもう、どうしようもなく無機質だ。こんなにも、体温が残っているのに。

 アイコの体にできた影を、取り除くように唇を、指を滑らせる。さざ波だったその肌の上に、蛭が這っていく。強く、吸い付く。そうすると、アイコが頭を撫でて、耳を触った。やめてほしいとき、アイコはそうした。

 そこに、顔をうずめる。静かに湿っていく。唇も、アイコも。不思議なにおいがする。俺は安心感を覚えている。俺たちは静かに湿っていく。

 指が、舌がアイコのために動く。冬に缶コーヒーを飲んだ時の吐息、辛い物を食べた時のような、喉に引っかかるような呼吸、声。俺はやめない。

 きっと、ずっとこうしていたい。繋がっていたい。

 俺たちはひとつになれないけれど。

 俺たちはさっきよりも湿っていく。アイコの体が犬の腹のように震えるまでそうしていた。体を離すその直前に、腿に深く頬ずりをした。その瞬間をかみしめていた。そのことが、バレなければいいと思った。

 俺たちは、少なくとも今日は、もう一度も触れ合わない。指の先すらも。爪の先も、髪の毛も触れ合わない。その匂いも嗅がない。アイコは俺の匂いを知っているのだろうか。俺は知らない。俺の匂いを、俺は知らない。

 二人で、煙草を吸った。違う匂いがふたつ、部屋の中で混ざっていく。この部屋は、混沌としていく。

 「帰ろうかなあ」

 「ゆっくりしてけよ」

 「明日仕事だからね。帰って寝るよ。さっさと」

 煙が後を引く。窓の外はもう真っ暗で、何も見えない。雲一つ浮かんでいない、真っ暗な空。

 アイコは平たい靴を履いて、玄関に立つ。女の靴だと思った。俺の履いているのとは違う。

 「じゃあ」

 「うん」

 見送って、鍵を閉めて、玄関に座り込んだ。それからしばらくじっとしていた。

 そんな、みっともない姿を、誰も見ていませんように。

 少ししたら、誰か、見つけてくれますように。それから、鼻で笑ってくれますように。

 叶うことなら、ずっと我を忘れていたいと思う。快楽や、叶うなら、誰かを好きになることで。誰かを好きでいるって、どんな感情だっただろうか。

 俺は、

 

 

 そうしている間に、玄関口は少しずつ冷えていく。座っている床は、なんだか物悲しいほどにつやつやとして、俺はもう何も言えなくなってしまう。何も言葉にできなくなってしまう。

 スニーカーをラックから放り出す。乱暴に履いて、踵を踏み潰したまま外に転がり出る。夜だった。アイコの匂いが鼻に残っている。こすっても消えない。階段をかけ下って、道に飛び出す。煙草を忘れた。取りに行きたくない。あの部屋に、今は行きたくない。

 無機質な光が、家々から漏れる明かりが目に痛い。じわりとしみる。手と足は空気を掻く。スニーカーの爪先がやすりのようなアスファルトをごりごりとすべった。通りに出る。車の音がいくつも聞こえて、俺は頭の中を振り回される。

 やめて、ください。

 財布もスマートフォンも持っていない。煙草も飲み物も買えない。そうすると、自分がどこからも隔絶されたような気がした。誰からも連絡は来ないし、知っている人もいないし、何も買えない。誰ともつながっていない。まるで、自分がいなくなったような気がした。吹く風が体を通り過ぎていくような気がする。壁に寄りかかると、背中を預けた壁がざらざらとして、いたたまれなくなる。すべてが痛い。すべてが、悲しい。

 目にたまっていた涙が、頬を流れる。無力だった。子供だった。俺は、子供だったんだ。手の震えは大きくなって、涙もろくにぬぐえなくなる。

 声が、もれた。

 何年も、自分の声を聞いていなかったような気がした。

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