第2話 飢え
えさを求めて、鼻を鳴らしている。豚みたいに。自分の声に息が苦しくなる。まるでおぼれてるみたいだ。俺は鼻を鳴らし続ける。餌が欲しい。きっと、酸素も足りない。藁と土と、他の豚たちの息の臭いで、俺は苦しくなっていく。真っ茶色だ。ぜんぶ。俺たちは土に汚れて、クソにまみれている。冷たい空気の中に吐息が淡く踊る。やめてくれ。苦しみたくない。やめてくれ。
ほんとは誰も同じなんだと思う。苦しみたくないだけなんだ。誰もが酸素を求めている。あれがやりたい、これがやりたい。それもあるだろう。金が足りない、女が足りない。飯がまずい。それもあるだろう。
そういうの全部ひっくるめて、人は苦しみたくないだけだ。苦しみたくなくて、もがき苦しむ。それで、余計に苦しくなっていく。
俺は、何に苦しんでいるのか。わからない。
「本当は、足りてるんじゃないの?」
アイコが言う。でも、俺は答えられない。
「足りてるって、なにが?」
「欲しいもの全部よ」
「何が欲しいのかわかってんのか?」
「あなたはわかってるんでしょ?」
「わかんねえよ。そんなの」
アイコは、俺の名前を呼ばない。一度も呼んだことがない。どんな時も。ベッドの中でも。あいつの腕が俺の背中に回った瞬間を覚えている。あいつの肩甲骨を、背中に浮かんだそれを俺もなぞった。鎖骨にキスをした。アイコの匂いは鮮明に覚えている。いい匂いだった。抱き合っているだけで、いつまででも眠り続けられるような、圧倒的な心地よさ。
体を起こした。帰ってきて椅子に座って、そのまま眠りに落ちてしまっていた。腰は痛いし、肩や首がビキビキと音を立てる。
「ちくしょー……」
呟く。時計を見ると、もう夜の十時だった。外は真っ暗だ。なんて時間の浪費だ。
スマートフォンがテーブルの上でぶるぶると鳴る。
「絶対仕事しねーぞ……」
画面を見ると、母からだった。
「もしもし?母さん?」
『あ、トモキ。最近調子はどう?』
「いいかんじよ。授業も出てるし」
『あなた、成績表は実家に届くのよ……』
「大丈夫だって。今年はまともにやってるから」
すぐバレる嘘だった。他愛のない話をして、テーブルの上にスマートフォンを置く。そして、そのまま財布だけ持って外に出かけた。
夕食は健康の維持に必要不可欠だ。俺は朝飯も昼飯もろくに食わないし。腹が減らなくたって飯は食う必要がある。そうしないと栄養が足りなくなって倒れるから。単純明快だ。
駅から離れたところにあるアパートからの道は、明かりも少ない。車がガーガーと音を立てて、その光がたまに辺りを照らす。どこからか鈴虫の声が聞こえてきて、俺は伸びをする。
近くの定食屋に入った。黒く漆で塗られた引き戸を開けて中に入る。威勢のいい店員の声が聞こえてくる。俺はテーブルについて、メニューも見ないでサバ焼きの定食を頼んだ。だいたいいつも頼むものは一緒だった。
隣のテーブルからいい匂いがする。スーツを着た中年が同じメニューを頼んでいた。男の飯はしばしばまっ茶色になる。醤油やてりやきのたれ、中農ソース。そして、肉。そして、みそ汁。たまに納豆。申し訳程度に添えられたキャベツの千切りは、もうその役目を失っている。
俺は、これが好きなんだろうか。いつも同じ飯をここで食べながら疑問に思う。食べ物に執着することはなかった。煙草も同じだった。なんとなく吸い始めたウィンストンをずっと吸い続けてるだけだった。きっと、銘柄を変えても何も支障はない。飯もそうだろう。どこかの国のよくわからない食べ物でも、玄米でも白米でも、もしかしたら、昆虫の揚げ物でも。
店員が威勢良く挨拶しながら俺の食べ物を運んできた。みそ汁からは湯気が上がり、白飯に光が反射している。サバの表面はその脂でつやつやと光っている。
きれいだと思った。うまそうというより、きれいだった。
なんとなく、店内を見まわす。ラストオーダーの時間が近づいた店内は客足はまばらで、しずかな空気が漂い始めている。厨房では白衣を着た調理人がため息をつき、その近くで頭に布巾をつけたホールスタッフがグラスに注がれた水を飲んで笑みをこぼす。
「なあ、どう思う?」
目の前にいるやつは、誰だかわからなかった。でも、いつも同じだ。俺はまた誰かと話をしている。
「お前は、どういう人間だ?」
「俺は、俺だよ。ずっと俺だ」
「どういう人間か、って聞いてるんだ」
「不適合者かな」
「どういう意味だ」
「ずっと、馴染めなかったんだよ。学校にも、家にも……。だから、こんな風に毎日過ごしてるんだろ」
早く食べないと、目の前で飯は冷めていく。冷めた飯は嫌じゃないか。いや、でも別にいいのかな。換気扇に、俺が吐いた空気が、店に残された喧噪の気配が吸い込まれていく。それは店の外に吐き出されて、何もなかったことになる。そして、明日もまた、それが朝から繰り返される。それが、朝が来るということだ。一日が終わり、また新しい一日が始まるということだ。
「どうなりたかった?」
「さあな」
自分自身に何か望みはあっただろうか。自分自身に、その未来に夢を見たことはあっただろうか。俺は何になりたかったっけか。そういうものを強く望んだことはあっただろうか。歌手になりたいとか、起業して金持ちになりたいとか。宇宙飛行士になりたいとか。
いや、ない。俺はきっと、憧れを持たなかった。大きな夢も、ささやかな希望も持つことはなかった。
「違うね」
「は?」
「違うと言ったんだ」
「なにがだよ」
みそ汁を啜った。口の中に塩分が広がり、喉にその温かさが流れこんでいく。目の前にいるやつの姿はまだ判然としない。半透明だ。いや、透明そのものだ。それでも形を持って俺の前に確かに存在している。それでも、他の誰にもそれは見えない。その向こうが透けて見えている。その向こうで、残り少ない客が腹いっぱいになって口をつやつやとさせて店を出ていく。引き戸を開ける。違う世界の入り口のようだ。外の世界に出ていくんだ。
「お前には、希望があるだろう。夢があるだろう」
これほどまでに、夢という言葉に虚ろさを覚えたときはなかった。つま先から頭のてっぺんまで冷たい液体を流し込まれたように、俺は動けなくなる。そこに、呪いじみたものを感じてしまう。
「分かってるんだろ?自分が何を欲しがってるのか」
「わからない……」
また、みそ汁をすする。それから、サバ焼きをほぐし始める。サバはもう、少し硬くなっていた。
「わからないさ」
それから、無心に食べ物を口にほおばった。すべてに蓋をしたい気分だった。
そう、俺は何も知らないんだ。
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