第1話 退屈


 大学は退屈だ。そう気づくのに一か月もかからなかった。ここに俺の居場所はなかった。単位ギリギリで2年生になって、それから堕落の限りを尽くした。一年生から始めた酒とたばこに溺れ、授業にもろくに行かなくなった。たまに、コースの主任の先生が俺を見て咎めたが、ほどなくして声もかけられなくなった。

 友達もいない。サークルも入ったけれど、すぐにやめた。サークルも退屈だった。試しに楽器に触ってみたけれど、興味は惹かれなかった。

 その代り、いつも頭の中で誰かとしゃべっていた。

 「授業、出たほうがいいんじゃねえ?」

 「なんで」

 「お前、まっとうな社会人になりたくてここ入ったんだろ。損じゃないか?」

 「べつにいいだろ。誰困らせてるわけでもなし」

 ラインにメッセージが入る。午前中から仕事は始まっていた。昨日でひとりやめて、うちで働いてるのは五人になっていた。ちょうどいい数だと思う。そのぐらいいれば、遊ぶ金も学費も賄えた。

 「あたしは止めないけど」

 アイコが頭の中で話し始めた。

 「やりたいことなんでしょ」

 「さあ」

 二限は休むことにした。自販機で甘ったるいコーヒーを買って、食堂に入り、パソコンを開く。出会い系サイトを開いて、メッセージをチェックした。

 ねらい目は、昨日の夜にメッセージが届いた自称大学生だった。どこまで本当かはわからないが、そこそこに若いらしい。稼ぐなら、出会い系で当たるかわからないホテル別2万円単価の商売より、うちのほうが効率がいい。

 客はほとんどがリピーターだ。ホテル別2万円の単価は変わらない。それでも、月23万の収入はキープできた。

 「いつまでそんなことやってんだよ?」

 さあな、いつまでだろうな。

 ラインで女の子に指示を飛ばし、ホテルの名前を告げる。これでまた、収入が増えた。昼が近くなって食堂は混み始めたので、場所を移すことにした。7号館の2階にある学習ラウンジだった。午後でもわりと座れることが多い。

 「落ち着きがねえなあ。何そんなに急いでんだよ」

 「急いでるわけじゃないんだよ。ひとつの場所にいるのがいやなんだ」

 「お前はまともな大人になんてなれないね」

 「うるせー」

 テーブルについてすぐにパソコンを広げる。それからまたひとしきり連絡の作業をした。終わるとすぐに立ち上がって、また自販機で甘ったるいコーヒーを買った。そこらをぐるぐると歩き回って、それからパソコンをたたんで、喫煙所に行く。すぱすぱとたばこを吸って、すぐにまた次の煙草に火をつけた。

 東京の空気は汚い。空気には味があるんだ。住んでいた軽井沢の空気はきれいだった。高校を卒業するまで吸い込み続けたその空気の味を俺は覚えていた。

 東京に来る意味なんかなかった気がする。生活の程度は前よりずっと低いし、ここで何か有益な勉強をしているわけでもない。大学に来て得ることなんか何もなかった。それが、一番の発見だった。

 昼飯は食べなかった。煙草だけで充分だった。最近、ひとりでいると空腹もろくに感じない。人といればまた別だった。そう思うと、アイコに会いたくなった。

 「あんた、寂しがり屋なんだから」

 アイコはたまにそういう俺の中にいるアイコは、そう言って、眉根を寄せて笑っているアイコだった。

 「べつに。さみしいわけじゃないよ。ただこうさ、なんか。腹が減るだろ?」

 「腹が減るのも眠くなるのも一緒よ。そんで、セックスがしたいの。おんなじよ。そうやって、人に会いたくなるの」

 「人は嗜好品かよ」

 「あんた、何もわかってない」

 空は、薄灰色だ。授業が詰まらなくて仕方ない、そんなガキと接するのがいやで仕方ない、そんな連中のため息を吸ってどんどん濁っていく。

 3限は出ることにした。頑張って話を聞こうかと思ったけれど、すぐに眠ってしまった。経営学の授業なんて役に立たない。経営の方法は教えてくれても、それをやらせてくれるわけでもなければ、それをやるステップまでの道のりを教えてくれるわけでもない。全部、机上の空論に感じた。俺はきっと、ここで何も身に着けずにここを去るんだと思う。どうでもいいテーマの卒論を書いて、就職すんのかな。わからなかった。

 ともかく、19歳だった。

 

 10月にもなると日が暮れるのが早い。6時、7時ごろの、日が暮れる前の全部が真っ青に染まるような瞬間はもう訪れなかった。

 今年は秋が早い。気が狂ったように夏が暑くなった年は、秋の訪れが早いらしい。そして、冬は死ぬほど寒いらしい。なんだか理不尽に感じた。あんな暑さじゃ、夏を楽しむ余裕なんてない。やっと訪れた、ほどよい、まともな夏は、すぐにどっかに消えてしまう。それで、嫌な秋がやってくる。

 毎年、秋になると、異常なほどに気分が落ち込む。毎日胸が痛くなって、息をするのも苦しいような気持で朝を迎える。寝付きは悪くなり、目の周りがくぼんでいくのがわかる。

 学校を出て、隣町のラブホテルに向かった。ゆるいホテルで、一人でも普通に入れてくれた。一番安心できる場所だった。家でもなく、大学でもなく。きっと、最もプライベートな空間だ。俺のものは何もないけれど、俺が金を払った分の時間は、俺のためにあってくれる。わかりやすくて好きだった。

 しけたホテルではある。受付によくわからない老婆がいて、二言三言交わして、鍵を渡してくれる。その鍵でドアを開けて、薄ぼけたようなにおいがする部屋に入る。何の変哲もない、本当にセックスするためだけの場所。オプションもない。ただシンプルにまじわるだけの場所。

 ダブルベッドに、ジャケットも脱がないまま体を投げ出した。体は沈みこまない。ベッドはぎしり、と音を立てる。冷たい。

 部屋は殺風景だ。ペール色の壁、カーペットの床。埃のない、清潔さ。少しの湿気。全部がグレーに見える。カーテンの下から漏れる薄い光。

 「あ、もしもし?部屋番号送るから、ちょっと来て。……ああ、隣の部屋じゃん」

 スリッパをドアの近くに置く。ここでも商売は行っていた。下のおばあさんは寛容だったし、難しくなかった。ほどなくして、隣で仕事をしていた女の子が部屋に入ってきた。白いTシャツに黒いスカート、グレーのパーカーと黒いバンズのスニーカー。歳は確か、一個下だったと思う。いつも源氏名で呼ぶから、本名は忘れてしまっていた。

 「おつかれさまです」

 「おつかれ。どうだった?」

 「金はあるけどモテないおっさんってかんじです」

 「いつも通りだね」

 また煙草に火をつける。その子は煙草を吸わなかった。

 「ねえ」

 「なんですか?」

 「俺とキスできる?」

 「できますよ」

 「俺とセックスできる?」」

 「できますよ……」

 「そ」

 仰向けになった。煙草がじりじりと音を立てる。固いベッドは二人分の体重をめり込ませる。しわ一つなかったシーツがぐしゃぐしゃになって、そこに薄暗い影を作る。思いっきり息を吸い込む。灰が煙でいっぱいになって、俺はせき込む。嫌になる。別に美味くもないんだよな、これ。どうでもいいな。

 「なあ」

 その子が顔を上げる。茶髪の間から覗いた瞳が俺を見ていた。

 「帰っていいよ。おつかれ」

 今日はもう、俺は何もしない。

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