4. Her thoughts
翌朝、私は始業時間の二時間も前に学校へ来ていた。まだ強制送還になるかもしれないという話を出来ていない親と顔を合わせにくかったというのもあったけど、どちらかというと一向に眠れず早い時間に目が覚めてしまい、家にいてもやることがなかったという理由のほうが大きい。自分の行く末も気になるし、栞から聞いた話も気になって頭の中をぐるぐると駆け巡り、眠りに落ちたのかもよくわからないまま朝になっていた。精神が高ぶっているのか寝不足のはずなのに不思議と眠たくはなかった。
私は自分の教室に荷物を置いて、椅子に腰掛ける。別に学校へ早く来たからといって、やっぱりやることはなかった。もう一度現場を覗いてみようか。でももう一度あの凄惨な現場を、というよりは自分を地獄へ叩き落すかもしれない現場を検めるのも気が重い。
英語の宿題でもするかな。そう思って荷物をごそごそと探っていると、遠くから物音が響いてきた。
覚えのある感覚に体が硬直する。昨日と全く同じ状況だった。音の距離からも、二つ隣の教室から、つまり事件現場から聞こえてきているのは明らかだった。昨日ほどの激しさはないけど、机を引きずったりするようなかすかな音がはっきりと耳に届く。
「あっ、寒月先輩」
唐突に、その人の顔が頭に浮かんだ。そして重大なことを思い出した。昨日寒月先輩はどう帰った……? 校舎にはほとんど誰もいなかったはずだし、そうすると足の悪いあの人は五階にある教室から自力で降りることはできない。這って行けば不可能じゃないだろうけど、そこから車椅子なしで帰るのはやっぱり無理だ。しかもこの学校は、殺人が許されるルールの下で動いているのに。
なんてことを。私は、自分のことばっかりで。
私は弾かれたように立ち上がって駆けだした。すぐに現場となった教室に辿り着く。机の乱れ方も床に転がる遺体も昨日のままだった。ただそこに寝そべっている人は被害者だけじゃない。哀れなほど細い足には見覚えがあった。そしてそのそばに屈む人影も見える。
「誰っ?」
自分でも驚くほど鋭い声が出た。屈んでいた人がびくっと震えてこっちを向く。その勢いで柔らかい髪が揺れる。後ろで束ねた短いポニーテールも。
千海だ。
千海は五年も年を取ったように老けた顔をしていて、たった数週間で痩せたようにも見えた。よく言えば老成しているような見た目けど、それよりは憔悴しているというべきだろう。彼は私を見ると、少し視線を逸らす。
「エマさんか」
「千海、どうして」
私は彼の手元を見た。厚手の生地を持っていて、寒月先輩に被せようとしてるようだった。先輩は床に転がって寝息を立てている。時折寒そうに体を震わせて、手足を擦りあわせている。
「朝来たらこの調子でね。びっくりしたよ。死んだかと冷や汗をかいた」
彼は小声で言うと、生地を被せた寒月先輩を抱え上げる。先輩の顔は真っ白で、確かに遠目からだったら死んでいるようにも見えるかもしれない。本当に心臓に悪い。
そして、彼女は昨晩家へ帰らなかったのだろうと思うと申し訳ないような気分になる。
「ここじゃ風邪をひく。手芸部の部室なら暖かくして寝かせられるだろう。エマさん、先輩の車椅子を持ってきてくれるかな」
私は教室に放置されていた車椅子を押して千海のあとへついていった。階段を降りるときは苦労して持ち上げなければいけなかったけど、それでも電動車椅子という機械からイメージされるよりはずっと軽いように思えた。私たちは棟を移動して、特別教室や文化部の部室が集まる場所にまでやってくる。手芸部の本来の部室は特別教室棟の二階にあった。
千海は先輩を担いだまま器用に扉を開けて中へ入る。部室の中は物でごった返していてごちゃついた印象を受ける。机という机には生地が立てかけられてたり被せられたりしていて、その鮮やかな色が朝日を反射して目が痛くなりそうだった。壁際には出来かけの衣装らしいものが余すところなく掛けられていて本来の壁が見えなくなっていた。
部室の奥にはクッションの潰れたソファがあり、先輩はそこへ寝かせられた。上から生地を掛布団代わりに掛けられると、片付けられない部屋の中で物の津波に飲み込まれたみたいで滑稽にも見える。先輩は暖かくなったのか、生地を掴んで包まり穏やかに眠っていた。
やることがなくなって、見た目は賑やかな部屋を沈黙が支配する。いまこのタイミングで、千海と何を話せばいいかはさっぱりわからなかった。
「すごいね、ここ」
私はとりあえず、部屋に入ったときの印象をそのまま口にした。千海は黙って空いていた椅子に腰かける。彼の目の前の机にはスケッチブックが広げられ、白紙の上でドレスがデザインされていた。深い青色の、大人びたものだ。そばには書き損じたらしい絵も散乱している。
「ここでずっと書いていた」
千海が漏らした。彼は青の色鉛筆を手に取ると丸くなった先をじっと見つめる。
「それで授業に出てなかったの?」
「まあね。あわせる顔もないし」
それが誰に対してなのかは、やはり言わなくても分かった。彼の声は気軽さを装うとしていて、かえって痛々しく聞こえる。
「このドレスは、寒月先輩の?」
「いや、違う」
「じゃあ私?」
「そうでもない」
彼はスケッチブックを手に取って、ドレスの絵を見つめる。そのドレスは体のラインをほっそりと見せるデザインで、スリムな体型の女性を想定したものなのかもしれなかった。小柄で車椅子に座る寒月先輩やがっしりした体つきの私ではなく。どちらかというと伊藤先輩のような人に似合うものだろう。千海が誰のためにデザインしているかはわからないけど。
スケッチブックを見る千海の目はどことなく辛そうだった。太陽を直に見ているように目を細める。私は話題を変えようと、当たり障りのなさそうなことを尋ねる。
「ねぇ。千海はどうしてそんなにメイクが上手なの?」
口走ってからすぐに、もっと他のことがあっただろうと後悔した。だけど千海は答えてくれる。
「……僕はもともと絵を描くのが好きだった。だけどあるとき、白い紙の上じゃなくて人の顔に描いたほうが喜ばれることに気づいたんだ。綺麗にしてくれてありがとうってみんな言う。ひとつとして同じもののないキャンパスに描くのは楽しかったしね。気づけばこんな状態」
彼は椅子の後ろにあった黒い箱を手で叩く。業務用なのかと思うほど大きな千海の化粧道具入れ。最近使っていないのかうっすらと埃をかぶっていた。
私の視線に気づくと、千海は「いまは誰かに化粧する気分になれないけど」と言って力なく笑った。
「そういえばエマさん。君が来る前に僕も僕なりに現場を調べてみた。同じ轍は踏みたくないから」
「え?」
「寒月先輩が夜を徹して推理していることと、これを見て事情はだいたい分かった」
千海は立ち上がって、ブレザーのポケットに手を突っ込む。中から出てきたのは密閉できる袋に入った髪の毛だった。被害者が握っていたものの一部。
「メイクには一家言あるからね、髪の毛にもそれなりに詳しいつもりだ。それでいろいろ調べてみたけど、この髪の毛は少なくとも偽物じゃない。それは保証していい」
「そう」
「それと、おそらく後から染められたものでもない。ブリーチしたにしては髪が全く傷んでいなくて綺麗すぎるからね。元々この髪色だったんだ。ただ……」
「ただ?」
彼は袋から髪の毛を取り出すと、伸ばして私の髪のそばに並べた。視線を動かして見比べているようだ。
「やっぱり、気のせいかもしれないし自信はないけど、色が微妙に違う気がする。エマさんのほうが少し明るい」
「そうなの?」
「ああ。ただこれは髪の場所によるだろうし……同じ人でも生えている場所によって色は多少変わるから、確実だと言えるわけじゃないけど」
私は自分の目でも髪の毛の色を確かめてみる。昨日見たときもそうだったけど、私の髪と遺留品の髪の毛の色が違うようには見えなかった。ただ千海の言うことだ。色に対する感受性は彼の方が上だ。もしかすると別人の髪だというのもその通りかもしれない。
そうなるとこの髪の毛が誰のものなのかという問題に結局戻ることになるのだけど。田淵先輩や寒月先輩の推理だと髪の毛はあくまで被害者の抵抗で偶然抜けたものであって、わざわざの隠蔽工作とは考えにくいということだった。それはそれで正しいと思う。
私が考え込んでいると、小さく呻き声のようなものが聞こえてきた。ソファの上で寒月先輩がもぞついている。そろそろ起きるのかもしれない。
「……飲み物でも買ってこよう」
「え、あっうん……」
千海はさっさと、逃げるようにして部室を後にした。まるで先輩が起きる前にいなくなろうとしているみたいに。栞と違って寒月先輩に対してやましいことはないはずだが。
寒月先輩が目をしばたたかせて起きた。彼女は焦点の定まらない目で部屋を見渡すと、教室とは違う場所にいることに気づいて勢いよく起き上がる。その状態で私と目が合って、二人とも硬直した。
「……おぉ、エマか。ここは……」
「手芸部の部室です。先輩が教室で眠っているのを千海が見つけて運んでくれました」
「そう、か」
乱れた髪をがしがしと掻きむしりながら、先輩はぼんやりと言った。しかし彼女の寝起きの動きはすぐに、頭を抱える動作にとって代わってしまう。先輩の口から深いため息が漏れる。
「……だめだな。わかるまで寝まいと思ってたのに」
「先輩……」
ぴこんっと、先輩のスマートフォンから軽い通知音が鳴った。先輩が操作してMCPの支援アプリを開く。私も倣ってアプリを見た。事件の進行状況が更新されている。きっと登校した田淵先輩あたりが情報をあげたのだろう。
被害者の手の中には金色の髪の毛が。第一発見者エマ・オールドマンのものと推定。これにより最有力容疑者をエマ・オールドマンとする。
先輩はスマホを床へ取り落として、ソファに力なく倒れこんだ。私は何て言っていいかわからなくて、ただ黙っていた。
そうやって無為に時間が過ぎた。飲み物を買いに行ったはずの千海はいつまで経っても戻ってこない。きっと席を外す体のいい口実だったのだろう。彼がそうした理由はわからないけど。
「先輩」
「なんだ」
「先輩はどうして、そうまでして事件に首を突っ込むんですか?」
「……悪いかよ」
「別に、悪くはないですけど」
先輩は私を睨みつけるように言って、すぐに「すまん」と呟いた。昨日といい今日といいやけに素直で弱々しい。いつもの先輩じゃないみたいだった。
「ただ、気になって。田淵先輩や伊藤先輩はMCPが始まる前から生徒会の人ですから事件を解決しようっていう使命感もあるでしょうけど、寒月先輩はそういうわけでもないですし」
「まぁな」
寒月先輩は頭を引っ掻いて髪の毛をさらにぼさぼさにしていく。小さな頭よりも髪の毛の体積のほうが大きく見える。
「……なぁエマ。お前は事故とかなんとか、理由はともかく大怪我したことはあるか?」
「いえ、骨折ひとつ経験してないです」
「羨ましいやつ」
呆れたように笑った寒月先輩から、わずかに重々しい空気が抜けていく。
「あたしのこの足は交通事故が原因だ。大型トラックに足を引き潰された。骨も関節も粉々。小三の頃だったな。それ以来自分の足で歩いていない。まぁ、医者曰く真面目にリハビリすれば杖突いて歩くくらいは出来るようになるらしいんだが、面倒だから結局サボってるな」
「そうだったんですか」
「あぁ。リハビリをサボったのは自分で決めたことだから別に後悔もないんだが、だけど、時々やっぱりやっときゃ良かったかなって思うときもないではない。……出来てたことが出来なくなるってのはあんまり気分のいいものじゃないからな」
私は、先月の体力テストのことを思い出していた。思うように動かない足のもどかしさ。先輩はまた大きくため息をついて、ソファに座りなおした。
「さて、どうするかな。ここから。推理はお手上げだし」
「とりあえず、時間をおいてみますか? ちょっと経ってから考えたらまたアイデアが浮かぶかも」
「だけど、それだとエマが」
私が首を振った。視界に金色の髪の毛が入ってくる。
「大丈夫です。この髪のおかげで、悪目立ちや好奇の視線には慣れてますから。それに真犯人は先輩が見つけてくれるんですよね」
「なんで自分がやるんでもないのに自信満々なんだよ、お前は」
寒月先輩は力なく笑う。体を起こして車椅子に乗り込み動き出した。
揃って部室を出ると、登校してきた生徒が増えたのか校舎には活気が溢れていた。落ち着きなく廊下を走るばたばたという音。おしゃべりの声。教室棟まで戻ると眠たそうな生徒が大勢。彼らは私の顔を見ると少し距離をとるけど、もうそんな視線も気にならなかった。
「あら、エマさん」
「……ニイムラ先生?」
後ろから一際賑やかな声をかけられる。ニイムラ先生は今日もガチャガチャと騒がしい空気をまとって廊下を歩いていた。さっき校舎についたばかりなのか手で原付のキーをもてあそんでいる。
「エマさん、課題はちゃんとやってきた? 今日の授業でもあてるからね?」
「あっ、やばい」
私の反応を見て、ニイムラ先生が苦笑する。そのまま手を振って廊下を曲がり見えなくなった。
「おい」
「え? なんですか先輩」
今度は先輩から声がかかった。だけど様子がおかしい。先輩の顔は宇宙人でも見たかのように呆然としていて、大きな口は牙を剥き出すような笑いではなく驚愕のためにだらしなく開かれていた。目はじっと、さっきニイムラ先生が消えていった廊下の曲がり角を凝視している。
「……先輩?」
「馬鹿か!!!!」
史上まれにみる大声に私は吹き飛んだ。
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