3. “Needle of Paradise”

 私の家は高校の最寄り駅から三駅ほど行ったところにある。帰るためには電車に乗らないといけないけど、田舎なので本数は少ない。私は気分ではないこともあって、電車に乗るのはやめた。歩いて帰れなくもない距離だ。夜道には危険がつきものかもしれないけど、学校よりは安全なはずだ。

 堤防沿いの道を通る。傘が大きな音を立てて雨を受けた。川は茶色に染まってごうごうと流れている。増水した川を見ていると心からねばついた嫌なものが洗い流されるような気持ちになった。清も濁もまとめて飲み込み海にまで、そのままぽいと。

 川にかかる大きな橋の上で、しばらく濁流を眺めてから下校を再開する。街中に辿り着いてまずは一駅ぶん歩ききった。雨の街には人が少なかった。雨よけの役に立たない穴だらけのアーケードを突っ切り、シャッターの閉じた店を素通りしていく。ここで買い物をしたことはなかった。私が物心ついたときから、閉まっている店のほうが多い商店街だ。

 夜も更けてきて、お腹が空いていた。だけど家まで帰ってからきちんと食事を摂りたいと思える状態でもない。私は親へ、スマホでご飯いらないと短くメッセージを打った。ちょうどコンビニが目に入る。都合のいいことにイートインスペースのある店舗だ。明かりに誘われる虫みたいに私は近寄って行った。

 コンビニは客もまばらで、商品棚も空きが目立った。おにぎりやサンドイッチの類も少ない。私は適当に、目についたミートスパゲッティとチーズバーガー、それに紙パックのオレンジジュースを手に取ってレジに持っていく。

「あれ、エマさん?」

 会計を終えて、レンジで温めた食べ物を受け取っていると、背後から声をかけられた。振り返ると、白いブラウスにスキニージーンズという格好をした栞が立っていた。手には落ち着いた大人向けのファッション誌を持っている。

「栞……今日学校にいたっけ」

 栞は首を振った。ふわふわと黒髪が一緒に揺れる。

「今日は、お休みした。エマさんは、どうしてここに? 家近いんだっけ」

「いや、そうでもないけど」

 私はどう答えていいかわからなくて口ごもった。アラームがあるので事件のことはもう知っているはずだけど、私が容疑者なのは聞いていないはず。

 だけど私が黙っていると、栞が「また事件に巻き込まれて?」と察してくれた。私は頷く。彼女の視線は私が持っている商品へ向いた。

「ご飯、ここで食べる?」

「うん」

「じゃあ私も何か買ってくる」

 イートインスペースにはカウンター席しかなかった。座っていると栞が買い物を終えてやってくる。さっき手にしていた雑誌と紙コップに入ったコーヒー、小さな菓子パンを持っていた。彼女は隣に座ってブラックのままコーヒーを啜る。私もスパゲッティのパッケージを開いてフォークで絡めとった。

「……また寒月先輩と一緒に?」

「うん、まぁ」

 私は曖昧に返事をして麺を口に運ぶ。トマトソースが酸っぱすぎる気がする。麺はちょっと固い。栞も袋を開けて菓子パンを齧った。口元についた餡を指で拭う。

「じゃあ大丈夫かな。寒月先輩なら」

「…………」

 今度は返事ができなかった。タイミングを逸してしまう。栞が怪訝な顔で私を覗く。心配そうに眉をひそめる彼女に黙っておくことができなくて、誰かに吐き出してしまいたい思いもあって私は栞に事件のことを話した。私が疑われていることも、寒月先輩が考え抜いても真相に辿り着けていないことも。

 栞は私の話を聞いているあいだ、パンを手にしたまま動かずにいた。私が話し終わると、コーヒーを手に取って口を潤す。彼女は眼を少し泳がせたあと、ぽつりと言った。

「羨ましいな」

「え?」

「いや、変な意味じゃなくて……」

 栞は落ち着きなく手を動かす。細い手は最終的に、袋に入った雑誌の上に落ち着いて表紙を撫でる。

「信じてもらえて」

「栞……」

 言われなくても、誰のことを言っているのかは分かった。

 栞はなおも雑誌の表紙を撫でる。そこに未練でもあるかのように。たぶん、彼女はこういうファッション誌を買うタイプじゃない。読むとすれば文芸誌とかだ。実際にそんな姿も見たことがある。彼女のそういう変化の原因となった男は、しかし彼女を最後まで信用できなかった。

「私は信じるよ。エマさんのこと。寒月先輩のことも」

「ありがとう」

 私たちはしばらく黙って、目の前の食事をひたすら口に運んだ。栞は菓子パンをちまちまとリスのようにかじっている。買った食べ物の量が多い私にペースを合わせているのかとも思ったけど、どうも彼女の元々の食べ方らしく、丁寧に何十回もパンを噛み下していた。私はぼそぼそしたミートスパゲッティを片付けてしまうと、まだ暖かいチーズバーガーの包みを開く。強いチーズの匂いがあたりに漂う。パンが少しパサついていてソースも乾燥しているような気がしたけど、私は構わず口へ突っ込んだ。パティは固い、けど安っぽい味が不思議と嫌じゃなかった。

「ところでさ」

 私は口の中のチーズバーガーをオレンジジュースで流し込んで言った。

「被害者の手の中に金色の髪があった理由、栞にはわかる?」

「うーん」

 栞はパンの袋を丁寧に折りたたんで結ぶと、眉をひそめた。

「ごめんね、それは全然わからなくて。だけど絞殺に使った道具ならわかるかも」

「ほんと?」

 栞は小さく頷いてコーヒーを啜った。そしてジーンズのベルトに固定していたらしい小さな四角いものを取り出す。その四角い物体の後ろにはクリップがついていて、それで服にとめるようだ。そこから伸びているのはイヤホン、ということは。

「音楽プレーヤー?」

「うん。ちゃちなやつだけど便利だからちょっと外に出るときとかに使ってるんだ。それで、絞殺に使った道具ってこれじゃないかなって」

 目の前で黒いコードがぶんぶん揺さぶられる。なるほど。イヤホンなら。

「確かにこれなら、誰でも持ってるしとっさの犯行でも取り出して絞殺に使えるよね。細さもちょうど首に残っていた跡と同じくらい」

「うん。だけどこれがわかってもあまり意味ないと思う。きっと寒月先輩も同じことを考えていて、だから絞殺に使った道具自体には触れなかったんじゃないかな」

 それもそうだ。道具がわかっても、それが「誰しも持っているもの」では犯人を特定する手掛かりにならない。現に寒月先輩も「それはどうでもいい」と言っていた。

 須藤先輩殺害のときには、トリックに使った原付を入手できる人間が一人しかいなかった。だからそこから犯人を特定することができた。

 芽山先輩殺害のときはあくまで補助的な手掛かりでしかなかったけど、捜査の攪乱に使われた千海の化粧道具を盗めた人間が限られていてそこから犯人を絞り込むことができた。

 今回は、現場に残された髪の毛から。

 やっぱり、この事件を解くカギはあの髪の毛だ。なんであの場に金髪が残されたのか。あの髪の毛はどこから出てきたのか。

「DNA鑑定とか指紋の採取とかできれば楽なんだけど」

「そうだね。それができたら本当は誰の髪の毛か、誰がそこに置いたのかすぐにわかるのにね」

 栞は苦笑してコーヒーを飲んだ。コーヒーか。その姿を見て、私は事件に巻き込まれる前のことを思い出す。

「そういえばさ。長瀬先輩に教えてもらったんだけど……『パラダイスの針』って喫茶店知ってる?」

「うん、知ってるよ。家からはちょっと遠いけど、読書するにはいいところだし、コーヒーも美味しいから偶に行く。オーナーさんが美人でよくサービスしてくれるんだ」

「へぇ」

 私が驚きの声をあげると、栞がはにかむ。自分の好きなものに話題が及んだせいか、彼女の言葉が滑らかになる。

「変わった名前のお店だよね」

「うん。海外の推理小説の邦題からとったんだって。私も読んでみたけど、面白かったよ」

「栞、推理小説も読むんだ。この前の事件でもなんだっけ、早業殺人のこと説明してくれたよね」

「ミステリは好きだから。一番好きなのはやっぱり文学小説のほうだけど、時々ちょっと怖いというか、おどろおどろしいお話も読んでみたくなる」

 栞は嬉しそうに笑って話してくれる。だけど急に、何かを思い出したようにすっと真顔になった。

「私ね、あの事件のあと、MCPについてちょっと調べてみたんだ。去年の実施校について」

「二年目なんだよね、MCPって」

「うん。実は去年の実験校も、この愛知県にあった。上等高校っていう私立の高校なんだけど、それが『パラダイスの針』のすぐそばなの」

「え?」

 上等高校という名前に聞き覚えはないけど、栞の話で合点がいったこともあった。そういう縁で、長瀬先輩が教えてくれたような会合の会場になったのだろう。高校近くの喫茶店なら帰りに寄った生徒も多かったはず。そんな人たちが学校内で殺し合うのを、その美人のオーナーさんは見てられなかったのかもしれない。

「どんな……どんな事件が起こったのかな。その上等高校のMCPでは。それとも事件は起こらなかったとか?」

「そこまではわからなかったけど、でも気になることがあって。その『パラダイスの針』にはもう一人、男の店員さんがいて料理をしてるんだけど、その人去年まで高校生だったみたい」

 私は手に持っていた紙パックを取り落としてしまった。幸い、パックは机の上で軽く跳ねただけでジュースはこぼれなかった。

「ってことは、そのお店には去年MCPを生き延びた人が」

「どこまでかかわってたかはわからないけど、たぶん」

 長瀬先輩が言っていた、去年のMCP参加者というのはその人のことだろうか。あの人はそのことをわかってて私にあのチラシを渡してくれたのだろうか。あまりよく見ずに突き返してしまったのが悔やまれる。その会合の日付すら覚えていない。去年上等高校生だったという店員さんには、別に会合の日じゃなくても会えるだろうけど。

「会いに、行ったほうがいいかな」

「エマが気になるなら、そうすべきかも……この事件が終わった後に」

 二人の間に沈黙が走る。目くばせをして、互いに食べたもののごみを片付け始めた。

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