Case 4. Gold Color Strings

1. “Big” rain

「えっと、動詞の中には動名詞しか後にとれないもの、不定詞しか後にとれないものというのがあります」

 教室にニイムラ先生の声が朗々と響く。私は窓の外で降り続ける雨に意識を向けながら、先生の声をBGMにして説明を聞き流した。五階の教室からだと、風に流されていく雨粒がよく見える。

 御堂先輩が芽山先輩を殺害してから二週間後。結局、投票は予想通りにすんなりと終わり、御堂先輩が真犯人ということになった。いや、本当の犯人が誰かは実のところ発表されなかったけど、あの日寒月先輩の推理の場にいた三十人余りが当人の自白を聞いていたから、まず間違いなく御堂先輩が犯人だろうということに落ち着いたのだった。

 私は三度目の事件にして初めて裁判へ参加したけど、正直言ってわざわざ出るようなものではなかった。寒月先輩の言う通り、生徒会警察が事件のあらましを説明して言い訳程度に反論を募り、何もないので投票するというだけの儀式に過ぎなかった。自主性の涵養なるお題目が空しく響く。

「はい、じゃあこの問題は坂上くんに答えてもらいましょう」

 指名された生徒が立ち上がって、答えを喋る。私は先生が黒板に書く文字も無視して教室を見渡した。三十の机には空席が二つ。一つは栞のもので、もう一つは千海のものだった。

 あの事件以来、栞は休みがちになった。私ほど徹底して保健室登校ではないけれど、数日来ては休みを繰り返しているようだった。幸い寒月先輩の作戦は功を奏して、彼女が変な目で見られることは少なかった。けれど栞は教室に来るたびに辛そうで、怯えた表情になってしまっていた。

 一方の千海は毎日学校に来ているようだし、廊下ですれ違うこともままあった。けれど教室には一度も顔を出していない。どこで何をしているのか。時折会うと目の下に隈を作って顔色は悪い。なぜかエナジードリンクの缶を手にしていることもあった。ただ少なくとも、授業に出る気はまったくないらしい。

 私はすっかり教室に戻れたというのに、これじゃ意味がない。

「エマさん、聞いてる?」

「え、あっはい……」

 ニイムラ先生の突然声を掛けられ、私は意識を授業へと戻した。悪天候で暗い教室に、先生の綺麗な髪だけが浮いて見える。立ち上がって教科書へ視線を落とす。そもそも私は、動詞とは全然関係ないページを開いていた。

「そう、じゃあ次の問題はエマさんね。enjoyの後に来るのは不定詞ですか? それとも動名詞ですか?」

「えっと……」

 あれ、この話聞き覚えがあるな? 私はなけなしの記憶を辿って何とか思い出そうとする。確かあれは保健室での補講のとき、メガなんちゃらがどうのこうのとか。後から来た寒月先輩の印象のほうが強くてよく覚えていない。動名詞か不定詞をとるか? だったら正解は二分の一だ。適当に答えても当たる公算は高い、はず。

「不定詞ですか?」

「ブー、正解は動名詞のほう。メガフェップスって教えたでしょう?」

 残念。私は席について教科書を開きなおす。教科書にはきっちり、動名詞しか後にとらない動詞の一覧が書いてあった。なんだ。

 でも別に、どっちを取ったって意味は通じそうな気がする。そんなに重要なのかな。Toなんちゃらとか、ingとか。

「アメリカ人なのに英語わかんないのか」

「えー意外」

 隣のほうでこそこそと声がする。隣り合った男女が内緒話をしていた。それを言うなら私はイギリス人だし、生まれてからずっと日本で暮らしてきたから国語の点数のほうがいいくらいだ。祖父母の時代から日本暮らしなので両親も英語はさっぱりというありさま。見た目は外国人でも中身は日本人。だけど英語ができないと驚かれる。

 みんなだってできないくせに。

 私は内緒話を無視して、教科書に出てくる外国人の先生の髪を金色から黒色に変える作業を始めた。ちょうどいい暇つぶし。中学生のころ徹底的にやったのを先生に見つかって心配されたけど。

 私がブリーチを半分ほど終えたころに、ようやくチャイムが鳴った。六時間目は終了。今日はこれまで。

 担任の先生が来る前にさっさと荷物を片づけてかばんひとつにまとめてしまう。ホームルームが終わってはいさようならができるようにだ。私だって、誰かを殺してもいいなんてルールに支配された学校に長居したくない。ほかのみんなも同じ考えらしく、ホームルームが始まるころには大半の人が荷物を持って出るだけの状態になっていた。統制された軍隊並みの手際の良さ。教室に残ってだらだら喋るとか、そういう発想は一切なかった。

 命大事に。

 ホームルームでは先生が、梅雨に入って雨が強くなるから交通事故に気を付けましょうとおざなりに忠告した。それと、校門の前で怪しげな集団がビラ配りをしているから受け取らないようにとも。新興宗教かな?

 どのみち、二つとも学校に残るよりはさほど危険そうには思えなかった。

 別れの挨拶が終わってクラスが解散する。私は手早く荷物を拾い上げて教室の後ろの扉から外に出た。湿気でじっとりした空気がまとわりつく。床がうっすらと濡れて滑りやすくなっていた。転ばないように気を付けて階段を降り、昇降口へ向かう。

 我先にと帰路を急ぐ人たちでごった返す一年生の下駄箱の前に、待ち構えるように待っている人がいた。長瀬先輩だ。荷物と傘を手に持って、これから帰るところだろうか。

「エマちゃん、よかった会えて」

「どうかしたんですか?」

 意味深な言い回しにどきりとしてしまう。こんな状況の学校だとすべての言葉に深遠な意味があるように思えてしまう。長瀬先輩は微笑して首を振り、ちょっと伝えたいことがあるだけと言った。かばんの後ろへ隠すようにして持っていた紙を差し出しながら。

 紙は粗末なコピー用紙に白黒で印刷されたものだった。上部に太字でMCPを考える会と題されている。講演というか、会合のお知らせのようなものだ。ビラは雨のせいかところどころ濡れてインクがにじんでしまっている。私はビラを受け取った。

「これは?」

「校門の前で配ってたからもらってきたの。その人たちは大雨で退散しちゃったけど、興味あるかなって思って。親御さんにも」

 MCPが開始されて二年になりました。政府はこのとんでもない政策を常態化するつもりです。云々。

 国民の間にも子供を危険に晒すような政策への反対意見があります。しかしまだ反対運動の機運が高まっているとは言い難いものがあります。云々。

 細かいところは雨で潰れてしまって読めなかった。ただMCPに反対する市民団体の主催のようだ。「パラダイスの針」とかいう、変な名前の喫茶店でやるらしい。京都からわざわざ専門家を招いて。

 私は長瀬先輩にビラを返した。

「せっかくですけど、私の家にはあまり意味がないかも。両親、イギリス国籍なんです。だから選挙権もなくて」

「そう」

 長瀬先輩はさほどがっかりした様子もなくビラをポケットへしまい込んだ。傘をまとめていた紐を解いて外へ出る準備をする。

「でも、去年MCPをやった学校の人たちも来るみたいだから、話したら気分転換くらいにはなるかもしれないよ。この状況を乗り切るヒントもあるかも」

「そう、でしょうか」

「きっとね。エマちゃん、傘は?」

「折りたたみが……あっ」

 私はかばんの中を覗いて、失態に気づいた。傘は入っていたけど、筆箱を教室に置き忘れたのだ。別に持って帰らなければ困るというものでもないが、置いて帰るのも居心地が悪い。私は長瀬先輩に別れを告げて、さっき来た道を取って返した。

 廊下には誰の姿もなかった。つい数分前にホームルームが終わったばかりだというのに、生徒たちは嵐のように去ってしまった。昇降口が賑やかだったわけだ。私は静かな廊下を戻り、誰もいなくなった教室に入る。

 筆箱は机の中に入っていた。かばんの中に収め、ついでにほかに忘れ物がないかも確かめておく。大丈夫そうだ。私はかばんを持ち上げた。

 それと同時に、何か固いものが床へ倒れるような音が響いた。私は椅子でも倒してしまったかと振り返るが、椅子はきちんと自立していた。教室の中で位置が乱れたり、壁から落ちたものもない。もしかすると別の教室かもしれない。

 私が思案を巡らせていると、また音が響いた。間違いない。隣の、あるいはもうひとつ向こうの教室からだ。今度は机やいすを無理に押しのけるような音。がたがたと震えて暴れるような。

 私はかばんの紐を握りしめて硬直した。誰が? 何の音? 脳裏に浮かぶのは不穏な映像だった。

 首を絞められ、箱へ縛りつけられて死んだ芽山先輩。

 頭上におもりを落とされ頭を潰されて死んだ須藤先輩。

 そして、椅子へ拘束されて首を突き刺され死んだ美亜。

 いや、違う。さっきの長瀬先輩と同じだ。殺人を肯定する学校で、私は何でもないような音をまずいものと思いすぎているだけだ。きっとこの音だって教室でこっそり乳繰り合うカップルの物音だったというくだらないオチがつくはず。

 もう物音はしなくなっていた。

 私は意味もなく、忍び足で教室を出る。帰るだけなら、物音の聞こえた教室を通らなくてもいい。むしろそちらへ行くのは遠回りだ。だけど。

 私は足を、隣の教室へと向けていた。扉は閉まっている。丸いガラスから恐る恐る中を窺う。ここは机の並びに乱れはなかった。誰もいない。やっぱり気のせい?

 そのまままっすぐ進んで、もうひとつ隣の教室へとたどり着く。扉はやはり閉まっていた。同じようにガラスから中を見ようとするけど、頭の中でけたたましく警報が鳴っているような感覚があって、ほんの少し首を伸ばすだけのことができなかった。瞬きも自由にできず、涙がたまっていく。

 このまま逃げてしまおうか。

 でも、もしここに誰か倒れていたら? もし今日誰もここに来ず、一日中冷たくなって放置されていたら?

 頭の中で、教室の木製タイルの上に伸びる美亜の姿がフラッシュバックした。冷たく白くなる美亜。梅雨のじめじめした空気に晒されて肌が腐敗していく。違う。こんなシーンはなかった。ただ私が想像で作っているだけ。美亜の死はむしろ、全校生徒に生中継されていたのに。

 でも一度想像してしまうともう駄目だった。放ってはおけない。私は意を決して首を伸ばし、ガラスを覗き込む。

 机の配置は乱れていた。

 その机のあいだから、床に突っ伏した人の足が見える。

 スマートフォンからアラームがけたたましく鳴り響いた。

 …………。


 …………。

「おい! またお前か!」

 耳元で大きな声がする。聞き覚えのある声。田淵先輩だった。その声に気づくと、私は魔法が解けたようにかばんごと床へ崩れ落ちる。全身の筋肉が固まっていて、一瞬に思えた時間は実は長かったことが分かった。私はずっと、扉のガラスから教室を覗き込む不自然な姿勢で硬直していたのだ。

 田淵先輩は私を半ばまたぎ越すように教室に入ると、呻き声をあげた。スマホを取り出してどこかへ電話する。漏れ聞こえる名前から察するに相手は伊藤先輩らしい。私は床にへたり込んだまま、田淵先輩が現場を右往左往するのを他人事のように眺めていた。

 しばらくすると、伊藤先輩が何人かを引き連れてやってきた。彼女は私を引っ張り上げると教室の扉から引き離し、廊下に用意した椅子に座らせてくれた。

 田淵先輩と伊藤先輩が、険しい顔を突き合わせて話し合っている。二人とも時折こちらをちらちらと窺ってきた。伊藤先輩が首を振ると、田淵先輩が強く出るというように議論が進み、最終的に気の進まなさそうな顔で伊藤先輩が頷いた。何か結論が出たようだ。二人が私の方へやってくる。

「オールドマン、いくつか聞きたいことがある」

「はい」

「お前は遺体を発見してからずっとあの場にいたのか? 教室に入ったりしてないな?」

「はぁ」

「そもそもなんでここにいた?」

「忘れ物を取りに」

 私が答えると、田淵先輩が立てと命令してきた。素直に従って立ち上がり、彼らに誘導されるがままに教室へ入る。

 遺体は教室の中央から少し後ろ寄りに倒れていた。うつ伏せで、紫色にうっ血した顔を床に撫でつけている。そういう意味では、座っているか倒れているかの違いはあるけど芽山先輩の死に様に似ていた。首筋には細い線が赤く残る。二度目の絞殺だ。

「誰か知ってるか?」

「いいえ……あっ、待ってください。やっぱり見たかも」

 醜く変形してしまった顔では、誰なのかよくわからなかった。顔を下に向けていて各部のパーツがはっきり見えないからなおさら。だけど全体的な風貌に覚えがあるような気がした。

「坂上翔太。名前に聞き覚えはあるかしら」

「あっ……」

 伊藤先輩に名前を言われて、脳を突き刺されたように記憶が蘇る。同じクラスの。ついさっき、ニイジマ先生に指名されて問題に答えていたような。

「なんで」

「まだわからん。恨まれるようなやつか?」

 私は田淵先輩の質問には答えなかった。正直、よくわからない。女子とは徐々に打ち解けてきてはいたけど、男子とはまだだった。早いうちから教室に行かなくなってしまったせいでぎくしゃくというか、仲良くなる機会を失ってしまった感じがあった。学期初めにあったオリエンテーションにも私は参加しなかったし。

「現場に来る前に、何か見たり聞いたりした?」

「えっと、何かが暴れるような音を、六組の教室で」

「二つ向こうの教室まで聞こえるほどか。なんでそのときすぐに様子を見に来なかった?」

「急だったので、気が動転して」

 冷静に考えれば、田淵先輩の言う通りだった。物音が聞こえたときすぐにここへきていれば、この男子生徒も死ななくて済んだかもしれない。でも、実際にはそんな考えは欠片も浮かばなかった。

 私の頭の中で後悔が膨れ上がる前に、田淵先輩が「まあいい」と切り捨てた。

「理由はわかってるからな」

「え?」

 私は聞き返した。けれど田淵先輩はそれを無視して私の両手首を取り乱暴に束ねるようにした。

「犯人はお前だからだ。エマ・オールドマン」

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