5. “One” day

「え?」

「はぁ?」

「それは」

「いくら何でも」

「そんな……」

 その名前を聞いたとき、その場の全員がばらばらの言葉で反応した。だけど言いたいことは同じだっただろう。

 馬原栞が真犯人? まさかそんな!

「待って田淵、それはないでしょう。この子に殺人は……」

 伊藤先輩がうろたえつつも反論した。田淵先輩は伊藤先輩を手で制して続ける。

「そもそもこの事件が不可能犯罪に見えるのは、彼女の証言があるからだ。ここにいるあいだ誰もトイレに出入りしなかったっていうな。だがこれが嘘だと考えれば話はすんなり片が付く。ルール上共犯の可能性はないわけだから、考えられるのは馬原が自らの手で芽山を殺害し、誰かほかの人間がやってくるまでトイレの前で待つことで密室を作り上げたという可能性だ」

「それは……じゃあ僕の化粧道具入れと口紅は? あれにはいったいどんな意味が?」

「それは目くらましだ。意味不明な細工を施すことで自分が犯人である可能性から目をそらすためのな」

 千海のなけなしの反論はあっさりと論破された。栞は幽霊みたいなおぼつかない足取りでふらふらとしている。元に戻りつつあった顔色が再び蒼白になって、目の焦点が定まらない。

「確かに、それなら全ての説明はつく」

「ネックなのはこの子の虫も殺せなさそうな性格だけど、それ以外は納得できるわね」

「志島先輩! 伊藤先輩まで!」

 私は叫ぶように言って、栞を抱きしめた。体温が下がって冷たくなっている。手足の先が震えていまにも倒れてしまいそうだ。

「エマさん……千海くん……」

 少しでも風が吹けば消えてしまいそうな声だった。助けを求める声。何か言わないと。何か言って、栞への疑いを解かないと。

 だけど何も思いつかなかった。田淵先輩の説明には目立った穴はない。栞が嘘をついていたことにすれば問題はすべて片付いてしまう。密室のトリックを暴く必要もなく、青く塗られた首の謎を解く必要もない。

 私はすがるような思いで千海を見た。彼は歯を食いしばって、苦悶の表情を浮かべる。何かを言おうと口を躊躇いがちに動かしては止めるということを繰り返していた。やがて、意を決したように声を絞り出す。

「栞さん……あなたがやったのか」

「千海!」

 栞の脚から力が抜けていく。彼女の体は軽く、どこかへ吹き飛んでしまいそうだった。瞳から涙が溢れ出して眼鏡のレンズに落ちる。私は彼女の頭を胸へ抱えるように抱きしめて、ほかの人の視線からかばった。

「千海、ひどすぎる!」

「だけど、それしか考え……」

「おーい! エマ! 誰か忘れてないか!」

 千海の無情な宣告は、幸いにも最後まで聞こえなかった。かなり遠くの方から、小さくなりながらもはっきりと聞こえる声にかき消されて。この高く響き渡る声は。

 田淵先輩が露骨に嫌そうな顔をした。

「寒月先輩! どこですか!」

「一階だよ! 階段のところだ! ここからだとさすがに何話してるか全然聞こえないんだが! なんか穏やかじゃなさそうだな!」

 私は救いを求めて、栞を抱きとめたまま階段へ向かい降りて行った。ほかの人たちもそれに続く。田淵先輩だけやたらと歩みが遅かったけど、それでもちゃんとついてきた。

 寒月先輩は階段の下で待っていた。田淵先輩の推理も聞こえなかったようで、前回の事件で見たようなふんぞり返る姿勢ではないし彼の姿を見ても罵倒が始まったりはしなかった。ただ栞の様子に気づいて心配そうに眉をひそめる。

「お前、生徒は全員体育館に行ったはずだろ」

「私は誰の命令も受けん。それよりエマ、どういう状況だ」

 私は先輩に、現場の様子と田淵先輩の推理を細大漏らさず伝えた。全て聞き終わると、寒月先輩は「馬鹿な推理を」と呟くけど、やっぱりこのあいだみたいな自信たっぷりの罵倒が飛ぶことはなかった。

 その代わり、いままで聞いたことのないようなほど優しい声で「栞」と呼びかける。栞は顔を上げて寒月先輩を見た。

「大丈夫だ、栞。お前が人を殺せなさそうなことくらい調べなくてもわかる。お前は犯人じゃないな、そうだろう?」

 栞は無言でこくこくと頷くと、私の胸に顔を埋めて泣き始めた。声を精一杯こらえるように。彼女の涙で私のブラウスが濡れていく。

 先輩は田淵先輩に向き直って口を開く。

「おい田淵……」

「寒月、なんでお前化粧なんかしてるんだ?」

「だぁぁぁっ! もうぅっ!」

 朝から施されたままになっていたメイクを指摘された突如寒月先輩が燃え上がり、車椅子を反転させて廊下を爆走した。三年一組の教室に突っ込んでそこから声だけが聞こえる。

「千海! ちょっと来い! こいつを落とすんだ早く!」

「え、はぁ……」

 千海はおろおろと周囲を見回してから、先輩を追って教室へと入っていった。そして数分後、ふんぞり返った寒月先輩が車椅子に運ばれて教室から出てくる。車輪の速度は勿体つけるようにゆっくりだった。先輩のメイクは綺麗さっぱり落とされていたが、平静を装うためか彼女は眼をいつもよりもさらに大きく見開いて田淵先輩を睨みつけていた。

「田淵ぃっ! なぁにが『最後の可能性』だこのすっとこどっこい! 馬鹿かお前は! お前の脳みそにはファンデーションはたくためのパフしか詰まってねぇのか。あたしならお前が検討しなかった可能性がざっと二十三は思いつく。少なくとも『密室を成立させていた証言をしたやつが犯人』なんて安直な結論に飛びつきはしない! 短絡的にも程があるだろうが。さすがは生徒会警察、探偵小説におけるかませ犬刑事の役まで率先して引き受けてくれるとは手厚いサービスだ。その仕立てた舞台は当然この名探偵寒月縁様のためのものだろうな! いいだろう期待にお応えしてあたしが素晴らしく冴えた推理ってやつをご覧にかけてやる」

 パフの話をし始めてからようやく温まってきたようで、先輩の罵倒が目に見えてスムーズになっていく。相変わらず立て板に水を流すように流暢な罵詈雑言の数々に、私は奇妙な安心感すら覚えるようになっていた。

 ただ今回は田淵先輩も負けていない。前回ほどとんでもない推理ではないこともあって、取り乱したりせずに寒月先輩を真正面から見下ろす。

「寒月、俺も馬鹿じゃない。前回お前に言われたこともきっちり覚えてる。馬原栞が犯人じゃあまりにも簡単すぎるっていうんだろう? だが今回は違うぞ。トリックが弄された前回とは違って、今回の事件が成立するためには彼女の証言が嘘だったと考えるほかない。それともお前はもうほかの可能性とやらが正しい証拠でも見つけたのか?」

「いやまだだ。だが犯人が密室を作り上げたトリックならもうわかってる。あとは真犯人をあげるだけだ」

「え、もうですか?」

 思わず口走ってしまった私へ全員の視線が集中する。先輩はただ「そうだ」とだけ言った。

 先輩は一階にいたから、現場の状況も全く分からなかったはずだ。ついさっき私が教えてようやく知ったはずで、にもかかわらずトリックが分かったというのはあまりにも早すぎる気がする。それとも、栞を守るためのハッタリだろうか。先輩の真剣な視線はハッタリとは思えないけど、この人なら平然と嘘を吐き通せるだろうとも思えた。

 先輩は田淵先輩へ人差し指を突き立てた。細く頼りなくも見える白い指は、しかし剣よりも鋭く生徒会警察の前へ立ちはだかる。

「一日だ。今日一日あたしによこせ。それで事件を解決してやろう。もちろん事件解決の手柄もお前ら生徒会警察にくれてやる」

「一日だと? たったそれだけでどうやって事件を解決するつもりだ? それに初動捜査は生徒会警察がもうやってるし、その権利をお前に譲る気はない」

「構わん。ただ一日だけ、馬原栞が容疑者だということを伏せろ。アプリには書くな。他の奴らも他言無用だ。それともう一つ。今日は全員に荷物を持って帰らせるな。学校から帰すときは手ぶらだ。その二つさえ呑めばあたしは事件を解決する。条件を呑めないならあたしは捜査から手を引く。だからお前らには一生かかっても事件は解決できない。どうする?」

 田淵先輩と伊藤先輩は顔を合わせた。栞が容疑者だということを書くなというのはわかる。彼女が奇異の目で見られないで済むからありがたい話でもある。だけど二つ目の条件はよくわからない。確かに荷物を持って帰られると証拠品を隠滅される恐れはある。けれどいつまでも荷物を置いて行けというわけにもいかないから、そういう応急処置的な現場保存には限界があるはずだ。できるのはそれこそ一日くらいが精いっぱい。

 それとも寒月先輩は、本当に一日で事件を解決するつもりなんだろうか。

 田淵先輩と伊藤先輩は小声での相談を終えて、寒月先輩に向き直る。田淵先輩の方が口を開いた。

「わかった。いいだろう。ただ勘違いするなよ。馬原のことは別に一日くらい書かなくても全校生徒の情報共有に問題がないからだし、荷物の件は初めからそうするつもりだったからだ。結果的にそうなるだけで、別にお前の要求に屈したわけじゃない」

「構わんよ別に。お役所は守らないといけない建前が多くて大変だな」

 寒月先輩はくつくつと笑って田淵先輩を見下した。位置関係的には見上げているのに。

「よし、じゃあさっそく……エマ!」

「はい?」

 覚えのある流れに、私はデジカメを受け止めようと身構える。だけど先輩は何も投げてこなかった。それもそうか。彼女はもうトリックを解明したと言っていたっけ。先輩は廊下の先を指さして私に命じる。

「容疑者は体育館なんだろ? お前も行ってこい。事件のとき誰がこの学校にいたか、一覧を作るんだ」

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