2. Please introduce her “for” me.

「わざわざありがとう。頼みを聞いてくれてうれしいよ」

「うん、まぁ……」

 放課後。私と千海は校舎の廊下を歩いていた。部活で使う部屋が多く並ぶ一階で、まだ授業が終わってすぐのせいか幸いなことに人はあまりいない。あるいは殺されてはたまらないとみんな逃げるように家へ帰ったか。ここまで降りるのに五階にある一年六組から一組までの教室の前を突っ切ったのだけど、すれ違う人がみんな私たちをまじまじと見てくるから視線が痛かった。金髪女とポニテ男のセットは目立ちすぎる。

 ちなみに、ニイムラ先生に見咎められた栞の化粧は千海がちゃんと落とした。彼は「仕上げるのに三十分かかったのに」とぼやきながら手を動かしていたけど、メイク落としの手際もなかなかで、女子のほとんどは自分の参考にするためにその作業を凝視していた。おかげで注目を浴びた栞の顔はやすりでもかけたかのように真っ赤になってしまい、授業が終わってもまだ戻っていなかった。

 それはさておき。いまにもスキップしかねない勢いで私の半歩前を歩く千海の頼みというのが……。

「到着」

「はぁ……」

 私は教室の前に辿り着き、深くため息をついた。入口上のプレートには三年一組と書かれている。

 そう、三年一組。寒月先輩の所属するクラスである。一階にある通常教室はこのクラスだけで、あとはみんなかび臭く狭苦しい部室ばかりなので、人でごった返す広い部屋は建物の中で浮いてしまっていた。ほかの三年生の教室は二階より上にあるのだけど、これは車椅子を使う寒月先輩への措置だろう。この学校の校舎にはエレベーターなんて豪勢なものはない。

 そして、他ならぬ千海の頼みというのは、その寒月先輩に関係していた。

 私はもう一度ため息をついた。

「ほら、早く」

「えぇ……」

 人の気も知らないで、千海は私を急かしてくる。悪気皆無の、うきうきした顔だった。教室というのは変な結界が張ってあって、自分のクラスではない部屋に入るのは同学年でも躊躇われる。ましてやそれが上級生のものとなると。気が重い。

 まぁ、じっとしていてもしたかがないし、先に向こうから扉を開かれてしまい、入口のそばでもじもじしているのを見つけられるのも気まずいだろう。私は肩へ力を張って姿勢を正すと、扉を勢いよく開いた。

「失礼します」

 雑談をしていた教室を沈黙が支配した。雑多な視線が一斉に私を見てくる。警戒するような目つき。私のそばにいた人たちがさりげなく遠ざかる。そうだ。三年生の教室に行くということばかり頭にあってすっかり忘れていた。

 この学校では殺人事件が起こる。誰かが誰かを殺そうとしてるんだ。見知らぬ人を警戒するのは当然だった。ましてや私は前回の事件の容疑者。そのときに作り上げた、危険人物エマ・オールドマンという印象を訂正していない人も少なくないだろう。

「あの、えっと」

「おぉエマじゃないか。どうした?」

 教室と廊下の境界でもたつく私へ助け船を出したのは聞き覚えのある声だった。高笑いや怒鳴り声じゃない登場だと安心感がある。

 寒月先輩は教室の一番後ろ、窓側の席にいた。車椅子を操って私のところまで近づいてきてくれる。途中、飛び出していた椅子を邪魔だとばかりに蹴り飛ばしながら。

「ここに来るとは余程のことか? どうした?」

 しかも寒月先輩は、私を心配するような目つきで見てくる。近寄るものすべてに噛みつく大口お化けの雰囲気ゼロ。呵呵大笑としていたってやりにくいけど、これだと真剣だとかえって「本題」を言い出しにくい気がする。私は「あの、ちょっとお願いが」とぼそぼそ言いながら彼女を教室の外へ連れ出した。やり取りの間、教室にいるほかの生徒はみんな私たちを不思議そうに眺めてくる。私が珍しいのか、寒月先輩がほかの人と話しているのが珍しいのか。どっちだろう。

 私と先輩が廊下へ出ると、すかさずと言っていい速度で千海が先輩の目の前に跪いた。さながらお姫様にかしづく騎士のように……あれ、直前にも彼に似たような表現しなかったかな? 私はこれ以上好奇の目で見られるのも嫌だったので、教室の扉を閉めた。

「初めまして寒月先輩。僕はエマさんと同じ一年六組の月島千海と言います。月の島に千の海と書いて月島千海。美術部と手芸部に所属しています」

 あ、やっぱりそれ決め台詞なんだ。ロマンチックな苗字を受け継ぎ、それに似あう名前を付けてくれた親に感謝すべきだろう。

 寒月先輩は突然現れた謎の後輩に、ポカンと口を開けて私を見た。小声で「誰だこのイケメンポニテは」と言う。

 千海のお願いというのは、つまり私に寒月先輩を紹介してほしいということだった。先輩の推理の一部始終は学校中の噂になっていて、その中には私が彼女を手伝ってあくせく働いたという話も含まれていた。それを聞いた彼は、私を介して寒月先輩に会いたいと頼んできたのだ。

 それを聞いたとき、私は「教室の場所はわかるんだから、一人で行けるじゃない」と言ったのだった。だけど千海は「お願いの内容が内容だから、先輩が知っている人にもついていてほしい」と返した。そのお願いの内容というのが。

「先輩、僕のモデルになってくれませんか?」

「…………………………………………………………………………………………………………なんだって?」

 長い沈黙だった。紙幅にしておおよそ一行くらい、先輩は口を開けたまま硬直してからようやく聞き返した。紙面で見るとおそらく切り取り線みたいになっているだろう。前回の事件のとき、何を言われても音速とだいたい同じくらいの速度で罵詈雑言を返していた先輩が反応に困っているさまは珍しく感じられる。私との会話でも、ここまで長く返事に時間がかかったことはなかったと思う。

 千海はしかし当然のこととしてこの反応を予想していたらしく、全く動じずににっこりと笑う。

「すいません。突然で分かりにくかったですね。順を追って説明します。先輩は三年生ですから、文化祭で手芸部が毎年ファッションショーを開催するのをご存知でしょう」

「いや知らん。あたしは行事には関わらない」

 あ、これは速かった。千海の表情が若干曇る。

「行事はお嫌いですか」

「嫌いというか、つまらんからな。やることもないし。だから始業式の顔合わせもサボった」

「そうですか。じゃあやることを一つ、作ってみてはいかがでしょう。そのファッションショーは部員の全員参加で、自分で作った衣装を自分自身が着てランウェイを歩くか、モデルに衣装を着てもらって歩いてもらうかどっちかなんです。それで、僕のモデルとして先輩には出ていただきたく」

 寒月先輩の顔がわずかに歪む。馬鹿なことを言われたと、それこそ田淵先輩に見せがちな不快感というよりは、困っているという表情だ。

 千海の目的を聞いたときには、私はてっきり寒月先輩が「くだらん!」と一蹴してしまうのではないかと危惧していた。いや、一蹴ならまだいいほうで、下手するとあのときの田淵先輩みたく罵詈雑言の津波が押し寄せることも覚悟していた。だけどいまの先輩は、そういう乱暴な言葉も一切見せず、ただ困っているという様子だった。

「私の足はこんなだぞ? モデルのようには歩けん」

「それは大丈夫です。先輩が車椅子を安全に動かせるように、部長に頼んで例年よりも道を広くしてもらえるようにすでに手配しています。舞台に上げるのも僕らがやりますから、先輩は何の心配もせずショーを楽しんでいただければ」

 先輩の逃げ道はすでに潰れていた。

 先輩は頭を掻き、私を見て「どうしよう」と弱々しく呟いた。

 どうしよう!? 受けるにしても受けないにしてもばしっと即決即断かと思っていたのに、まさかそんなうじうじしだすとは考えてもみなかった。

「いや、あたしに聞かれても……」

「寒月先輩っ」

 千海、最後の押しに出た。寒月先輩の手を取って身を乗り出し接近する。寒月先輩は後ろへ下がろうとするけど、車椅子を操作するレバーを掴みそこなって動けなかった。「イケメンポニテ」に迫られて耳が赤くなっている。

「寒月先輩、どうか僕のお願いを聞いていただけないでしょうか。先輩に出ていただけたらきっと素敵なショーになると思うのですが」

「あっ、あぁっ、その……」

 先輩は目を伏せた。あのぎょろ目お化けが乙女になっている。先輩の弱点は美男子なのか? これじゃもじもじ女子の栞と区別がつかないぞ。本人は悪いけどちょっと面白い。

「なに笑ってんだよエマぁ」

「いえ、何でもないでふ」

 笑いを堪えていたので語尾が変な風になってしまった。お世話になった恩もあるので助け舟を出そうかとも思ったけど、同時に私を好き勝手に振りまわしたのも事実なので、そんな人が逆に振りまわされるのを眺めても罰は当たらないかなと思うことにした。

 寒月先輩は顔を赤くして、目をきょろきょろ泳がせた。そして私をもう一度見ると視線を止める。一拍間があって、口角が大きく上がっていく。恥じらう乙女の表情を悪魔のような笑いが一瞬にして塗りつぶした。

 この人、まずいことを思いついてしまったかもしれない。

「いいだろう……そのモデルとやら、引き受けてやる。ただし一つ条件だ」

「あの、先輩?」

「いいでしょう。僕にできることなら」

 私の制止は、何かを察したような顔をした千海に阻まれた。先輩の口が開き、血のように真っ赤な舌がちらつく。

「エマもショーに出せ」

「いいですよ、もちろん」

 廊下に私のうめき声が響いた。

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