Case 3. Ocean Color Lipstick

1. “Looked” a nightmare

「最近悪い夢を見ますか?」

 週に一度のカウンセラーとの面談は、お決まりの言葉で始まった。

 日の光がこれでもかと差し込む部屋。クッションが柔らかすぎてかえって座り心地の悪い椅子に体を沈み込ませ、私は目の前の女性の言葉に耳を傾けていた。彼女はタブレット上のカルテと私を交互に見て、答えを促すように視線を送ってくる。

 私は無言で首を横へ振った。カウンセラーはその答えを予想していたようにやさしく微笑む。保健室の今井先生といい、人を助ける職業に就く女性はみんな似たような雰囲気を持っている。おっとりとして余裕のある空気感。ちょっと押しつけがましさもある優しさに、全てを見通すようなまなざし。

「そうですか。学校には行ってますか?」

 カウンセラーは、私が座っているものより硬い事務椅子の上で少し体を動かした。首から下げた名札がブラウスの上で揺れる。四月から毎週会っているからもう名前は知っているのに、つい視線がそちらへつられてしまう。

 臨床心理士、町井涼香。MCPの実施にあたってお役所が学校へ派遣してきたカウンセラーだ。派遣とは言っても患者が先生に会うのは学校ではなくて、彼女が勤めている大学にある臨床心理センターというところだ。小学生くらいの子供がメインの患者なのか、待合室はたいていやかましい。心を病んでも子供は子供か。

 私は、町井先生の質問に「保健室ですけど」と言ってうなずいた。先生は満足げにほほ笑むとカルテへ何かを書いていく。

「そういえばニュースで見ましたけど、また事件があったらしいですね」

「えぇ」

 町井先生の口調は淡白だった。何があっても激せず慌てず。それは私が取り乱しているときは頼もしいけど、こうして落ち着ているときに聞くとちょっと冷たい感じもする。

 私はもう一度うなずいた。

「あなたもまた巻き込まれたのね。私に送られてきた資料に、容疑者になったって書いてあったわ」

 町井先生の仕事は事件によって心に傷を負った生徒のケアだ。MCPの運営が事件に深くかかわった生徒をピックアップして彼女に会わせることになっている。たぶん、あの事件のあと相田先輩や飯山先輩も町井先生に会ってることだろう。カウンセラーを呼ぶくらいなら最初からMCPなんてやらなければいいと思うけど、とりあえずそういう仕組みになっているらしい。

 私は四月に起きた最初の事件、美亜が死んだ事件の直後からこうして町井先生に会って話をしている。カウンセリングと聞いて、催眠術をかけられたり変なシミを見せられたりするのかなと限られた知識で想像したけど、町井先生は特別そうなことは何もせず、ただ私と話をするだけだった。彼女がしてくれたカウンセラーらしいことと言えば、事件のことを思い出しそうになったら心拍数を数えろというアドバイスくらい。それなのに不思議と、四月のときより心は落ち着いてきている。単に時間が解決しているのか、町井先生が本当はすごいのかはよくわからない。

「今回の事件は、あんまりショックは受けませんでした。死体を見たときはびっくりしましたけど、それ以外ではあんまり」

「そう。その事件の間、美亜さんの事件を思い出したかしら?」

 私が話すと、町井先生は間髪入れずに言葉を返してくる。やり取りのテンポは速いけど、尋問のような気分にはならない。

 私はあいまいにうなずいた。

「ちょっとは思い出しました。やっぱり、事件なので。でもそれ以上にとんでもないことがあって、あまり気にならなかったというか、それどころじゃなかったというか」

「とんでもないこと?」

 私は町井先生に寒月先輩のことを一部始終説明した。体育館に響いた謎の高笑いから突然のむちゃぶり、そして事件の解決まで全部。こうして、改めて誰かに先輩のことを話すと、彼女の存在がまるで作り話のようで、私は夢でも見ていたんじゃないかと思う。寒月先輩は実在すると思えないほど色濃く、紫色のペンキを缶ごとぶちまけるように私の世界を塗りつぶしてしまったのだった。

 私の話の間、町井先生は時折苦笑を挟みつつ黙って相づち打った。

「そう、それは衝撃的ね。事件のことが薄れてしまうくらいには」

「はいもう、滅茶苦茶で」

「滅茶苦茶ね。その寒月さんとは仲良くできそう」

「仲良く、かどうかはよくわからないですけど」

 私は頭を掻きながら答える。事件のあと、寒月先輩とは会っていない。

 飯山先輩と金沢先輩の衝突が終わると、寒月先輩は「じゃ、そういうことで」などと言ってさっさとトレーニングルームを去ってしまっていた。それからもう二週間、つまり捜査期間いっぱいが過ぎていたけど、彼女と顔を合わせる機会がなかった。

 もちろん、操作支援アプリとかで先輩の所属するクラスはわかっていた(三年一組だそうだ)から、会いに行こうと思えば簡単にできた。けど会いに行って何を話すのだろうと思うと足が向かない。上級生の教室にはそれでなくとも顔を出しにくかった。

 ただ事件が解決して、寒月先輩の指摘した真犯人が間違いではないことがはっきりしても、気になることは残っていた。

 なんで先輩は私を助手のように扱ったのだろう。同じ学年の長瀬先輩とか、それこそ犯人を見つけたくてたまらなかった飯山先輩の方が適任だったはずだ。私みたいな、ルールすらおぼつかない一年生よりは役に立っただろうに。

「あら、時間ね」

 町井先生は気のなさそうな声で言った。先生の腕に巻かれている、細い銀の腕時計が十一時を指している。私は床に置いていたカバンを持って立ち上がった。

「今日は午後から登校するのよね?」

「はい。あの、町井先生」

「何かしら」

 先生はカルテから顔を上げて、私を見つめた。私は少し大きく息を吸う。

「今日は、教室まで行ってみようと思います」


 教室。一年六組の教室。

 美亜が死んだ場所。

 事件以来、私は教室に行けていない。きちんと登校できたのは高校生活でたったの二日しかないということになる。やっぱり、それではだめだ。

 皮肉なことにというか、第二の事件を経験したおかげで、私の中で美亜の事件の重みが小さくなったような気がしていた。それはいいことなのか、悪いことなのか。まだわからないけど。

 町井先生は私の決断を聞くと、何でもないような口調で「無理だと思ったら保健室に行ってね」と言った。教室へ行くこと自体に特別な意味を持たせないようにしつつ励ましてくれたようだ。

 というわけで、私は一年六組の教室の前にいる。ここまで来るのに特に問題はなかった。お昼休みの終わりという、登校には遅すぎる時間に荷物を担いで廊下を行く私を興味深そうに見てくる人は大勢いたけど、無遠慮な視線を向けられるのはいつものことだから気にならなかった。目立つ金髪で生きてきた経験が役に立つとは。

 教室は前後の扉がしっかりと閉じていて、中の音ははっきりと聞こえない。扉についている細い窓から中を伺えるけど、教室の前のほうで生徒が団子になっていることしかわからなかった。

 ええい。ままよ。

 私は左手でブレザーを突き破って飛び出しそうになる心臓を押さえつけ、右手で扉に手をかけた。教室の扉はガタついていてレールをうまく滑らない。何度か扉を揺らして開くと、私は教室へ入った。

 中へ入ると同級生が私に殺到……したりはしなかった。みんなは教室の前方に集まって、肩を寄せ合い何かを覗いていて、私には気づきもしないといった様子だった。

 私は二度も事件に巻き込まれた身の上だ。それはみんなも知っているはず。だから質問攻めとか、そうでなくても腫れ物に触るように避けられるとか、そういう特異的な反応をされると覚悟はしていた。けど、それもない。安心したような、拍子抜けしたような。私は同級生たちの団子へ近づいてみる。

 円陣を組むみたいになっている人たちの中心には男女が向かい合うように座っていた。いや、女子生徒の方は椅子に座っているけど、男子生徒の方はしゃがんでいるだけだ。ブレザーを脱ぎ、シャツの袖をまくっている男子生徒は女子の顔に際どいくらい接近して手を動かしている。私の方からは女性生徒が背になっていて何が起こっているのかよくわからない。

「まぁ……こんなもんだろう」

 男子は顔を離すと一仕事終えた風に言って立ち上がった。お姫様を扱うように両手を取って女子生徒も立たせる。彼女が立ち上がると、息をひそめて様子を眺めていたギャラリーから嘆息が漏れて波になった。

 私はたまらず、人だかりをぐるりと回って女子生徒の正面に出た。

「えぇ、わぁ……」

 そして彼女の顔を見て、我が目を疑った。

 彼女の顔は桜色に彩られていた。頬に朱が挿し、同系色の口紅を塗っている。まつ毛はぱっちりと上を向いて彼女の落ち着いた視線に華を持たせていた。

 校則違反もいいところのバッチリメイク。マスカラもチークも、アイライナーも全部盛りだ。なのに高校生がするけばけばしい化粧にはならず、彼女のおとなしそうな魅力をあくまで自然に引き上げている。メイクの前後で別人になってしまうパターンもバラエティーとかではよくあるけど、これは彼女の元々の顔を生かしていて、おかげで久々の登校だった私にも彼女が誰かわかった。

 馬原まはら栞。入学式直後の自己紹介のときに、もじもじと俯いて小さな声で名前を言った子だった。目立たないようにという本人の思いとは裏腹にかえって印象に残ったから覚えていた。確か教室ではいつも席に座って本を読んでいる。

 いつもといっても私が見たのは二日だけだけど、行事の前後という慌ただしいときですらそうだったので、たぶん彼女の習慣に違いないだろう。そのときは眼鏡をかけていた記憶があるけど、いまは外している。

 彼女にメイクを施した男子は大きな鏡を取り出すと、栞の前に差し出した。彼女は飾られた自分の顔を見ると赤くなって目をそらしてしまう。その仕草に、周りの男子がころっと陥落するような音がした。

「すごーい!」

「ねぇ今度私にもやってよ!」

 男子生徒が鏡をしまうのを合図に、ほかの女子生徒が一斉に彼に群がった。彼は得意げな笑顔を振りまきながら女子をかわすと、円陣から飛び出してなぜか私のそばにやってきた。

 人だかりから出てきたおかげで彼の顔がはっきり見えるようになった。すらりとしていて彫りの深い、目鼻立ちのはっきりした顔をしている。目つきには自信が満ちていて、目を細めて笑うさまは優男っぽい。少なくとも寒月先輩みたいにわはわは大口を開けて笑うタイプではないだろう。背は高く顔から受ける印象よりは体つきもがっしりしていて、まくった袖から伸びる腕は筋肉質だ。そして細い髪を後ろで束ねてごく短いポニーテールにしている。

 ただ……誰かさっぱり思い出せない。ポニテ男子なんて一度会ったら忘れないと思うんだけど。いかんせん好青年という相当数に当てはまりそうな凡庸な印象が真っ先に思い起こされたせいか、個人を特定するに至らない。

「やあエマさん。久しぶり」

「え? あぁ……どうも」

 そんな彼が私に話しかけてきた。なぜ? 彼の周りの女子の視線が一斉に注がれてしまう。せっかく注意が栞の方へ向いていたというのに。しかもなんでか、視線の中にはちょっと敵意的なものも含まれている気がした。別に私から彼に話しかけたんじゃないって。

「えっと、ごめん。私名前が」

「当然だ。気にしないで。月島千海ちかい。月の島に千の海と書いて月島千海だ」

 彼は用意してきた口上のように言うと手を差し出してきた。私はその手を取って握手する。ともすれば気取って見えそうなひとつひとつの動きが、自然で作りものっぽいところがどこにもなくキザっぽい感じがしなかった。彼は私の手を両手で握ると、にっこりと笑って力を入れた。指も細いながら意外とがっしり力がこもる。

「ゆっくり話したいけどもうすぐ授業だ。放課後に時間をもらっていいかな」

「え? まぁ、はぁ……」

 私は予想していなかった言葉に、ぼんやりと答えた。この場ではっきりと承諾したり、断ったりしたらそれこそ千海の取り巻きにどう攻撃されるかわからなかった。彼女たちの間で彼はすっかり人気者で、私はそんな彼を独占する外敵というわけか。

 いや、一か月でいったい何があったの一年六組。

 私はため息をついて、自分の席へと向かう。

「Hello everyone……って、ちょっと栞さん? どうしたのその顔?」

 教室へ入ってきたニイムラ先生の驚きの声と同時に始業のベルが鳴った。

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