5. I hope “becoming” peaceful

「じゃあエマさん、次の問題。I hope、空欄があって、a teacherっと。このときに空欄に入るのは何でしょうか。 becoming? それともbecameかto becomeか……あるいは原形のbecomeかな?」

「えーっと、うーんと……」

 事件のあった翌日、私は保健室でニイムラ先生の補講を受けていた。美亜の事件以降、そのことを思い出しそうで私は教室に近づいていない。昨日のように、事件の映像を見せられた体育館に近寄れるようになったのもつい最近のことだった。いまはこうして保健室登校をしながら、なんとか勉強に置いて行かれないようにするのが精一杯。

 それにしても、この問題難しい……。たぶん、原形はあり得ないだろうと思う。それが正解だと問題になっていないような気がするし。過去形も違う気がする。この問題には和訳が付いていないから、見た目では過去の話か現在の話か分からない。ということは現在形か過去形かを決めきれないということで、この二つが答えになることはあり得ないと見ていいだろう。よし、とりあえず二択に絞れた。普通のテストなら二分の一にまで絞り込めたら上出来で、あとはえいや! で決めるんだけど、そうするとこの先生にひどく高いテンションで絡みつかれそうで嫌だった。もっとこう、おっとりしていていかにも人の良さそうなおじいちゃんの田原先生とかが補修の先生だと良かったな……。

 私はちらりと、先生の様子を伺った。先生は机を挟んで私の真正面に座っていて、私をじっと覗き込んでくる。先生の服装は派手なフリルのついたブラウスにタイトなスカートだった。スーツからそう離れていない格好のはずなのに、どうしてこうきつく賑やかな印象になってしまうのだろうか。

 私は無い知恵を総動員して問題の答えを探る。残るのは動名詞かto不定詞か。確か、動名詞は動詞の後にくっついて、なになにすることって訳せるんだったような。つまりこの文章は「私は先生になることを望む」みたいなことか。ということはこの動名詞が正解なのかもしれない。

 だけど、それってto不定詞にも同じことが言えるんじゃなかったっけ? なんちゃら用法、みたいな。括弧に不定詞を入れたらこれも「私は先生になることを望む」って……あれ、同じ意味になるぞ? 答えが二つ? いやまさか。

 そういえば不定詞には、いくつか用法があってそれぞれ訳し方が違ったはずだ。ということは、おそらくこの文章では不定詞を入れてもすることって訳せないのかもしれない。ちょっとよくわからないけど、動名詞の訳し方はひとつしか知らないし、その可能性に賭けるしかないか……ええいままよ。

「えっと、じゃあ……動名詞のbecoming?」

「ブッブー。正解は不定詞でした!」

 私の答えに、先生は即座に判定を下した。高い声が耳に響く。やっぱり苦手だな。

「hopeは後ろに不定詞しかとらない動詞なの。megafepsメガフェップスの逆パターンね。だからmegafepsさえ覚えておいて、それ以外の動詞には不定詞をつけておけば不正解にはならないって考えればいいわ」

「わけわかんないです」

「えー、エマさんイギリス人でしょう?」

 出たよ。私は一度もイギリスに行ったことないって。どころか、住んでいる県から出たこともほとんどない。おじいちゃんやおばあちゃんはすぐそばに住んでるし。

 私は、先生へ返事をする代わりに、彼女がよくやるようなわざとらしいしかめっ面をした。幸いにも、先生がまた何か言う前に救いのチャイムが鳴り響く。私は先生に聞こえないように、小さくため息をついた。結局不定詞のほかの用法とか、わからないことが増えただけな気もするけど、それはまぁいいや。

「じゃあ次回までにこの章の残りをやっておいてね。次は動名詞を復習しましょう」

「えー、数学も理科も宿題出たんですけど」

「しょうがないわ、頑張ってね。私は今日もほかの子の補修で遅くまでいるから、わからないことがあったら聞くのよ?」

 先生はひらひらと手を振りながら、保健室から出て行った。私は伸びをして、座っていたベンチへごろりと横になった。体育館とは対照的に時代がかった校舎のようで、くすんだ天井が目に入る。電球は変えたばかりなのか明るすぎて目が痛いほどだった。

「あら、やっと騒がしい人が帰ったみたいね」

 奥にある衝立から、丸っこい顔が覗いた。養護教諭の今井先生だ。下手に顔を出すと巻き添えを食うので、ニイムラ先生の授業の間ずっと陰に隠れてやり過ごしていたのだろう。今井先生はいかにも優しそうな笑みを浮かべると、お疲れ様と言って衝立の陰から出てきた。飾りのない地味なブラウスにロングスカートという落ち着いた格好はニイムラ先生とは対照的だ。先生はスリッパをぱたぱたさせて流しにまで歩いて行く。

「久々にしっかり授業受けたんで疲れました……昨日の体力テストの疲労も抜けてないですし」

「そうね。無理しちゃだめよ? ……エマさんも無理に学校に来なくて済むなら良かったんだけど」

「……仕方ないですよ。そういうルールですから」

 私が答えると、先生は困ったように笑った。

 MCPが導入されたことで学校が大きく変わったことのひとつが、出欠の管理が厳しくなったことらしい。昨日、田淵先輩から手渡されたハンドブックをつらつらと読んでいるとそんなことが書いてあった。一定期間以上欠席を繰り返すと問答無用で退学扱いになってしまう。そして退学すると最低三年間は他の学校に入ることができなくなる。転校も禁止。つまり順当に高校生として学歴を積んでいきたかったら、この一年間は殺人ゲームに付き合って通い続けないといけない。何としてでもMCPから逃さないという仕組みになっているようだ。

 だから私は、こうして保健室登校をすることで何とか出席日数を稼ぎ、退学にならないように首の皮を繋いでいるのだ。

 私は床に転がしてあったカバンから、当のハンドブックを取り出した。出し入れが大雑把になってしまったせいかもう角が欠けている。

「はい、エマさん。お茶でもどう?」

「あ、ありがとうございます」

 私は先生から湯呑を受け取って啜った。熱いお茶が食道を通って体にしみていく。渋いお茶は好きだった。酸っぱいのは苦手だから紅茶は嫌い。

 そうこうしているうちに四時間目の開始を告げるチャイムが鳴る。この時間には特に補講の予定はないので、自習をすることになる。私はさっきまで取り組んでいた英語の問題集に向き合った。

「おや、別の騒がしい子が来たみたいね」

「え?」

 傍に座った先生がぽつりと言った。ちょっとして、床をタイヤのゴムが擦るような音とモーター音が聞こえてくる。あれ、この音は。まさか。

「痛った!」

 あっ、扉にぶつかった。勢い余ったのだろうか。電動車椅子は速度が出るみたいだし。けっこうすごい音がした。

 モーター音がやんで、扉がするすると開いていく。廊下にいたのはやっぱり、寒月先輩だった。先輩は顔を歪めて足を擦っている。

「何やってるの、寒月さん」

「ブレーキが遅れた……」

 呆れ顔の今井先生に、先輩がばつが悪そうに言った。だけど先輩は私の顔を見ると、しかめっ面をすっと引っ込めて悪魔みたいに大きな口をにっと引き延ばして笑う。車椅子は扉のレールをものともせずに乗り上げて保健室に入ってきた。

「やぁエマ。頼んでおいた仕事は済んだかな?」

「あっ、はい。デジカメですね。持ってきました」

「よろしい」

 私が立ち上がって近づこうとすると、先輩は手で制して傍にまで移動してきた。お互いに座っていても私の方が頭の位置が高い。私がカバンに入っていたデジカメを手渡すと、先輩は小さな手でそれをいじり、写真を眺めた。

 データを送るごとに、先輩の目が見開いたり嬉しそうに笑ったり、かと思えば不思議そうに目を細めたり不満そうに口を結んだりと賑やかに表情が変化していった。顔面の五月蠅さで言えばニイムラ先生に匹敵する。

「エマ、ちょっといいか」

「は、はいっ」

 勢い込んで声が裏返ってしまった。先輩が怪訝そうな顔する。

「この写真、トレーニングルームのどこで撮った?」

「えっと……」

 先輩がデジカメの画面に映したのは、床についた黒い跡のようなものだった。ちょっと筋っぽくなっているだけで、何の変哲もない汚れのように見える。ただ成果なしでカメラを返すのが憚られたからとりあえずと思って撮影した写真の一枚だった。

「これは、殺人に使われたマシンの前ですね。関係あるかわからなかったんですけど、殺人現場に近い位置にあるものだからもしかしたらと思って」

「そうか……よし! 上出来!」

「寒月さん。保健室では静かにね」

 寒月先輩は先生の忠告を無視し、わはわは笑いながら私の背中を叩く。大きな音が響くけど、あまり痛くない。一方の先輩は叩いた手が痛かったのか手首をぶらぶらと振った。でも先輩の顔は満足感に溢れていて、わりあい適当に写真を撮った私はむしろ不安になってしまう。

「あの、先輩。本当にそれで大丈夫なんですか?」

「あぁ大丈夫だ。むしろストライク。エマに頼んで正解だったな。これで一億円は阻止だ」

「一億、円?」

 先輩にまっすぐそんなことを言われて照れ臭かったけど、それよりも知らないキーワードが頭の中を埋めてしまった。なんでこのタイミングで一億円なんてフレーズが登場するのだろうか。だけど生徒会警察がどうとか、捜査のルールがどうとかいう話に比べると、生々しい数字で妙な現実感がある。それが嫌な感じだった。

 私がぽけーとしているのを見て、寒月先輩が「なんだそれも知らなかったんのか」と言った。

「殺人のあと二週間の捜査期間を逃げ切っちまえば、賞金として一億円貰えるんだぞ」

「ええ! あ、すいません……」

 咎めるような今井先生の視線に私は謝った。でも衝撃に心臓がばくばくしていた。殺人犯に一億円? そんなことが。

 今井先生は寒月先輩がいるとどうあっても静かにならないと諦めたのか、ベンチから立ち上がって仕切りの裏へと戻っていった。先輩は先生を一切無視して話を続ける。

「ルールブックに書いてなかったか? 完全犯罪完遂の暁には賞金一億円、プラス新しい名前と戸籍が与えられて刑事罰も免除される。そうやってエサで釣って高校生を殺人ゲームに駆り立てようって腹だろう。まったく、舐めてやがる」

 私は先輩の話を呆然と聞いていた。高校生に殺し合いをさせるというだけでも信じられない計画なのに、殺人犯に一億円? どうしてそんなことになってしまったのだろう。

 ただそうやって「エサ」の話をする寒月先輩の口調は、言葉とは裏腹にあまり怒ってはいないようだった。むしろ少し楽しんでいるように声が弾んでいる。私の驚く反応を見てのこと……だよね? なんとなくだけど、この人が誰かを殺す計画を立てているようには思えなかった。昨晩見たその笑顔の邪悪さにもかかわらずだ。

 先輩と視線がかち合って、彼女がにやりと笑った。

「ははぁ。その調子だと学校中に監視カメラがあるのも知らないな」

「えぇっ! あっ」

 また大声をあげてしまう。私は慌てて声を潜めつつ、あたりをきょろきょろと探した。別にカメラらしいものは見当たらないけど……。

「監視カメラですか? どこに? どうして……」

「そりゃお前、カメラがなかったら推理が正解かどうかわからないじゃないか。どこに仕掛けられてるかはわからないし、ずっと撮影されてるのはキモいけどな」

「はぁ……」

 どこにあるかわからないカメラで撮影され続けているのは、キモいどころの話じゃないと思う。目的を考えれば、更衣室とかトイレにも平気で仕掛けられてそうだし。プライバシーなんてあったもんじゃない。

「……そのカメラの映像が見ればすぐに犯人もわかるんですけど」

「答え合わせ用だから捜査の手掛かりには使えないんだよ。ま、あたしが阻止するから一億円は犯人の手に渡らないけどな。先月もそうだった」

 先輩は私の顔を見ずに、あっけらかんと言った。そうとう自信があるのか、わざとらしく腕を組んでふんぞり返っている。

「先輩、犯人が分かったんですか?」

「いやまだだ」

 私は椅子から転げ落ちた。

「じゃあなんでそんなに自信ありげに……」

「わかったも同然だからな。実際、トリックはもうわかってる。ただまだ微妙に情報が足りてねぇから、真犯人が断定できないって感じだな」

「どうしましょうか」

 私はベンチに戻りながら聞いた。真犯人が断定できないといいながらも、先輩の顔に悲壮感はなかった。単に楽天的なのか、それとも情報収集の当てがあるのだろうか。

 先輩は私の顔をじっと見て、少し考えこむように黙った。ずっと大口開けて笑っていた先輩が急にそうしたから、私は心が落ち着かない気分になった。ただ真面目な表情で私を見つめる先輩の顔はよく見てみると人形のように整っていて、目を合わせるのが気恥ずかしかった。喋っているときと黙っているときの印象が違いすぎる。なんというか、静かにしていれば清楚で優しそうな印象すらある。

 私が遠慮がちに目を向けると、先輩が一瞬硬直したような気がした。そして一気にどす黒い笑みを浮かべた。前言は修正。「笑っていなければ」だったか。

「よぉし。せっかくだから状況の整理がてらMCP初心者のエマに色々教えてやるか……」

 先輩は悪人顔で言った。私は是非遠慮したかったけど、そうしたらそうしたで反応が怖いので黙って頷いた。

 先輩は上着のポケットからスマホを取り出した。デジカメと同じ紫色のカバーが背面を飾っていて、先輩が片手では操作できないほど画面が大きい。彼女はそれを両手で抱えると、私に画面を見せる。

「まずアプリをダウンロードしろ」

「はい?」

「『MCP支援アプリ』だ。ダウンロードして学籍番号と所定のパスワードを入れると使えるようになる」

 昨今のカラオケ店かと突っ込みたいところだけど、私はとりあえず指示に従うことにした。自分のスマホを取り出し、アプリストアで支援アプリとやらを探す。検索するとすぐに出てきた。アイコンはハンドブックと同じく、白地に黒でMCPと書かれているだけのものだった。面白半分にダウンロードした人間が大勢いるのか、レビューは荒れ模様らしい。

 私はそれをダウンロードして、すぐさま立ち上げた。先輩の言った通り、学籍番号とパスワードを入力する画面になる。

「先輩、パスワードは?」

「一を四つ」

「雑!?」

 本当だからしょうがないだろという先輩を尻目に、私はパスワードを入力してログインした。本当に入ることができた。画面の上部に「ようこそオールドマンエマ様」と表示されている。うん、まず名前の表示が外国人に対応していないことが分かったぞ。苗字名前の順番でしか表示できないらしい。

 画面は三つのボタンに分割されていた。上から順に進行中の事件、生徒検索、ルールブックとなっている。このボタンの名前からして、過去の事件のデータは見られないのだろうか。私はちょっと安心した。

「よし、じゃあまずは自分の情報が間違ってないか確認だな。名前をタップしてみろ。写真が出てきたらスクロールだ」

 私が言われた通り、画面上の名前に触れてみた。すると画面が切り替わり、私の顔写真が出てくる。生徒手帳に張り付けられているものと同じ写真。心なしかいまよりも肌つやがいい気がする。

 私は指で写真を上へと送り、画面をスクロールした。すると下から名前とかクラスとか、出身中学校だとかの情報が一覧のかたちで出てきた。中には身長や体重なんて項目もある。これは……。

「私こんなに重くないですよ!」

「いや知らないぞ。健康診断の結果がそのまま載ってんだろ? へぇ、お前結構背が高いな」

「ちょっと見ないでくださいよ!」

 私はいつの間にか覗き込んできていた先輩からスマホを庇った。先輩は悪戯が成功した子供ような笑顔だった。

「まぁまぁ。じゃあ情報に誤りはないんだな?」

「そうですね。残念ながら正確です」

「よし。次は検索だ。一回ホームに戻ってから検索のボタンを押して、あたしを探してみろ。あたしの情報はもっと面白いことになってるぞ」

 私は生徒検索の画面へと移った。名前を入力する欄が出てくる。

「先輩の名前って……漢字でどう書くんですか?」

「あぁ言ってなかったな。寒い月でカンヅキだ」

 私はそれを入力して、虫眼鏡のアイコンに触れた。寒月なんて珍しい名字の生徒は案の定一人しかいなかったけど、苗字に続く「縁」が名前としてなんと読むのかはわからない。エン、とかかな?

 私は名前をタップして、さっきの自分みたいに情報を開いた。一覧には私になかった(カタカナだったからかな)フリガナの欄があって、そこに「カンヅキユカリ」と書かれている。ようやくフルネームがはっきり分かった。

「出たな。もっと下にいってみろ」

「はぁ」

 私は先輩に促され、画面をスクロールした。すると一覧のさらに下に、これも私のページにはなかったはずの別の一覧があった。タイトルは「電動車椅子のスペック」?

「ボディ重量二十三キロ、連続稼働時間十一時間……最高速度三十五キロ? なんですかこれ?」

「生徒の情報は推理に必要な基礎資料として用意してるらしい。だから所属するクラスや部活みたいな人間関係から、利き手や体力テストの結果みたいな身体能力、果ては常に使用している機械や常備薬の類も公開されるルールになってる。まぁあたしの車椅子は身体能力みたいな扱いだけどな。これが段差を登れるかどうかは犯行の可能不可能に大きく影響するだろうし」

「はぁ……変なところで手厚いですね……」

 だからといって、果たして先輩の車椅子の重量が殺人に関係するとは思えないけど。車椅子がもっと重かったら不可能だった犯行とか、あるのだろうか。

「それじゃ最後は、進行中の事件のコーナーだ。これは生徒会警察がせっせと集めた情報を公開する場所でな、場合によっちゃここの情報だけで事件が解決するかもしれんぞ」

「本当ですか?」

 私は恐る恐る、「進行中の事件」のボタンを押した。でかでかと「赤崎高校第二事件」の文字が躍る。下は一覧になっていて、被害者や現場の情報のほかに容疑者と書かれた欄もあった。

「容疑者の一覧にはなんて書いてある?」

「えっと、私と、あとは先輩襲来のときにあの場にいた人たちですね。飯山先輩、長瀬先輩、金沢先輩と相田先輩に……あ、結局鮫島先生の名前も」

「田淵の奴、頑固だな」

「これ、名前押したらその人の情報が出るんですよね……」

 容疑者六人のうち、鮫島先生の名前だけ色が黒だった。ほかの五人は青色。たぶん情報が登録されていなくて、一人だけプロフィールへのリンクが貼られていないのだろう。私はまず長瀬先輩の名前を押してみる。

 出てきたのは寒月先輩のときと同じような個人情報の画面だった。違うのは、一覧に「事件時の動き」という欄があること。そこにはどうやら、生徒会警察が聞き取った事件当時のアリバイが書かれているようだ。

 長瀬美姫。三年六組。バトミントン部所属。事件当時は十七時半から十八時ごろまでトレーニングルームを使用していた。その後死体が発見されるまではシャワー室にいた。証言が真実ならば殺害時刻を大幅に絞り込むことができるが、ずっと一人で行動しておりアリバイを証言する者はいない。なお、殺害に使われたおもりを持ち上げられる腕力があるようには見えない。本人もできないと自供している。

「見てください……長瀬先輩、事件直前にトレーニングルームにいたって……」

「あぁ読んだよ。どうも生徒会警察の奴ら、鮫島先生がだめなら長瀬だろうと狙いをつけてるようだな」

「そんな……長瀬先輩が? ありえないですよ……」

 長瀬先輩が人を殺すようには見えなかった。そんなことを言ったら誰だってそうだけど……でも、四人いた先輩の中でも特に可能性が低いと思えた。私が倒れていたとき、初対面にもかかわらず先生とそばにいてくれたのも、そのあとの捜査を手伝ってくれたのも長瀬先輩だったし。疑いたくはない。

「どのみち、誰を疑うにしてもあのおもりをどうやって持ち上げたかわからなきゃ同じことだろう。あれをクリアしなきゃ今回の事件は説明できない」

 まぁあたしには謎が分かってるんだけどなと、先輩が独り言のように言った。どういうトリックを使ったのかは先輩のみぞ知るというところだろうけど、確かにあのおもりが持ち上げられないのでは犯人になりえない。先生を除く容疑者全員が、あれを持ち上げられないというのが状況をさらに混迷させている。誰か一人でも持ち上げられる人がいたら、その人が犯人で確定なのに。

 そこまで考えて、ふとある考えが頭をよぎった。

 そもそも、なんで私たち六人が容疑者にされてしまったのだろうか。体育館にはいくつか出入り口があったはずだけど。正面玄関だけでも広くて、密室という感じではない。

「あの先輩、思いつきなんですけど」

「なんだ?」

 私は、先輩の推理を真正面から反駁するような発想を口にするのを躊躇ってしまう。でも先輩は相変わらずの悪人顔だったけど、こちらを威圧するような感じは全くなかったからちょっと言ってみようかという気になった。

「えっと、体育館って出入り口がいくつもあるじゃないですか? だからもしかしたら、容疑者が私たち六人とは限らないんじゃないかと。つまり、あのおもりを持ち上げられる人がこっそり入ってきて、須藤先輩を殺害した後にまたこっそり逃げた可能性もあるんじゃないかって」

「なるほど……」

 先輩が険しい顔になったので、私は身構えた。もしかして出鱈目なことを言ってしまったのだろうか。田淵先輩への罵倒の嵐が思い出される。

「……よく気づいた!」

「え?」

 だけど先輩は破顔して、また私の背中をばんばん叩いてきた。ここが保健室だということは忘れたといわんばかりの大騒ぎ。叩かれた背中はやっぱり痛くなく、叩いた先輩のほうがかえって痛そうだった。だったら叩かなければいいのに。

「それに気づくならまずまずだな。まぁ残念ながらその可能性は潰されてしまってるわけだが……現場の状況を見てみろ」

 私は画面を操作して、現場の情報と書かれたページを開いた。そこには体育館の簡単な見取り図があって、出入り口が示されている。図によると体育館に出入りできる場所は、正面玄関と二階にある渡り廊下の二か所だけと。

「渡り廊下……あ、ここから校舎へ直接行けるんですね。この渡り廊下は事件当時、映画研究部の数人が使っていて出入りしたらわかると。そして正面玄関も同じ時間、ダンス部が練習をしていて出入りは監視される状況にあった」

「あぁ、だから誰かが出入りしたらわかるってわけだ。ちなみに、出入口を塞いでいた映画研究部とダンス部は体育館に入ってないことが、それぞれの部員の証言で確認が取れている。大穴で二階の窓のどこかから飛び降りたって可能性もなくはないが、いや、無理だな。体育館の周りは全部アスファルトで、落下すればただじゃすまない。足を怪我した生徒がいれば生徒会警察が気づくはずだ」

「それじゃあ、事件のときには私たち以外、誰も体育館を出入りしなかった……あ、ちょっと待ってください」

「なんだ?」

 画面の上から何かが下りてきて、私はスクロールする手を止めた。アプリの通知みたいだ。「新着の情報があります」と書いてある。私がそれをタップすると、画面がいきなり金沢先輩の情報に変わった。

 その情報ページの下部に、赤字で新着情報と強調された欄があった。アリバイに関する証拠資料などと書かれていて、何か動画が張り付けられているみたいだ。

「動画か。早速見よう」

「えー、通信速度が……」

「いいから早くしろよ」

 私は先輩に押されて、渋々動画を再生した。動画はスマホのカメラではなく、もっとしっかりしたカメラで撮影されたものらしく画質もいい。映像には渡り廊下で何か喋っている女子生徒が映っていた。

「なんですかこれ?」

「映画研究部が撮影した映像だろう……おいストップっ! この後ろ!」

 先輩がにわかに声を荒げて指を差した。私は慌てて動画を止める。画面の端、先輩の指の先には見覚えのある後姿が映っていた。

「金沢先輩? なんでこんなところに?」

「アリバイのところを読んでみろ。金沢は昨日、体育館一階にある部室で相田とミーティングをしていたと証言している。そのとき二人とも度々中座してるんだが、金沢は一度忘れ物を取りに校舎まで戻っていると証言してるんだ」

「じゃあこれは、その証拠映像?」

 私は映像にかすかに映る金沢先輩を凝視した。服装は昨日見たのと同じジャージ姿で、方向的には確かに体育館から校舎へ向かう途中と思える。アリバイの欄を見てみると、相田先輩と一緒にいつつも何度か一人になる機会があり、その時間での犯行も不可能ではないだろうと書かれていた。

「なるほど。面白いことになってきたな……」

「えっとつまり、金沢先輩がいない間に、相田先輩が殺害を……」

「ほう、お前はそう考えるのか。まぁそれはそれで筋が通ってるからな」

 先輩の言葉は、何か含みがあるように聞こえた。私はもう少し考えを進めてみる。二人……容疑者六人のうち、私と鮫島先生を除けばこの二人だけがセットで動いている?

 長瀬先輩は一人だった。じゃあ残る飯山先輩は? 調べてみると、須藤先輩と二人で武道場にいたことになっている。先輩には悪いけど、殺害しやすさで言えば飯山先輩が頭一つ抜けている。だけどそれが逆に、飯山先輩の潔白を証明しているように思えた。鮫島先生のときと同じ理屈だ。簡単すぎてすぐに露呈してしまいそうだから。それにやっぱり、誰かが親しい友人を殺すと疑うのも嫌だ。

 ……そう考えると、金沢先輩と相田先輩がセットで動いているという発想は間違ってないかもしれない。ということはつまり。

 私の頭に雷鳴が響いた。

「共犯……そうだ先輩! 共犯の可能性はどうでしょうか? それならアリバイもおもりの問題も解決しますよ。例えば金沢先輩と相田先輩が共犯だったら? あの重たいおもりも二人ならなんとか持ち上がりますよ!」

「ほう、そこまでたどり着いたか。やっぱお前、なかなかやるな……けど」

 寒月先輩がまたにやりと笑った。だけどすぐに頭を振ってしまう。

「残念だがその可能性もない。これもルールブックに書いてあることだが、複数人で殺人を行うのは禁じられている。そうしないとクラス丸ごとひとつが共犯者に……なんてことになりかねないからな。これは極端な例だが、実際にあったらしい」

「そんなルールも……」

 私はルールブックを開いてみる。目次にはずばり「共犯」と銘打たれたページがあって、確かに複数人で犯行に及んだ場合は失格、即座に逮捕されると書いてあった。なら金沢先輩と相田先輩の共犯説もなしか。

 じゃあいったい誰が? やはりアリバイの薄い飯山先輩か長瀬先輩が? でも、じゃあどうやってあのおもりを持ち上げたんだろう。

「先輩、本当に犯人わかるんですか……」

「あぁもうわかったわ」

「え?」

 さっきまでわからないって言っていたのに……今までの会話のどのタイミングで?

 困惑する私をよそに、寒月先輩は車椅子を出発させ始めていた。

「今日の放課後に種明かしして、さっさと終わらせようか。そうだエマ、原付で通勤してる先生がいるだろ? 知ってるか?」

「ニイムラ先生ですか?」

「あぁ、そのニイムラ先生とやらから原付を借りてきてくれ。カギも忘れずにな。私は顔知らないから。たぶんもう行方不明の原付は見つかってるだろ」

「はぁ……」

 先輩はそのまま、するすると滑るように保健室を出て行った。私は呆然としながら、その小さな背中を見送って車椅子のモーター音が消えるまで硬直していた。

 ……あれ。

 なんで寒月先輩は、顔すら知らない先生の原付が行方不明になってることを知ってるんだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る