第8話 芒種②
青春とは、後に消し去りたいと思う羞恥の歴史である。
どこかの本でこんな一文を読んだ記憶がある。青春イコール若者。若者イコール未熟。未熟イコール恥ずかしい行為の連続。
もし、過去の恥ずかしい行為を消せる消しゴムが存在したら。僕は迷わずその消しゴムを手に入れるだろう。
お金が必要だったらなけなしの貯金をはたいても惜しくない。そして自分史に刻まれた、あの恥ずかしい事件達を消しゴムで消していく。丁寧に。そして慎重に。
それで開放される。あの思い出すだけで頭を抱え転がりたくなる衝動から。だが今の所、長い人類史の中にそんな消しゴムの存在は確認されていない。
無音の砂漠の世界で、僕と決闘相手の細木さんは押しボタンの前に座る。目の前には二つのテレビ画面がある。
我慢対決。審判であるカピバラの説明はこうだ。今からテレビ画面に映像が流れる。その映像を止めたければ目の前の押しボタンを押す。
ボタンを押せば映像は止まるが、押したほうが負けとなる。先に三勝した方が勝利者とする。
い、一体何の映像が流れるんだ? ホラー映画とか? 二つのテレビ画面の後ろにそれぞれ一体ずつタスマニアデビルの着ぐるみがマイクを持って立っているのも気になる。
隣の細木さんも要領を得ないという表情だ。
「それでは決闘を開始します」
僕等の不安を他所に、カピパラの機械音の声と共にテレビ画面が作動した。僕はつばを飲み込み画面を注視する。
テレビ画面には本棚が映し出された。ん? この本棚、見覚えがあるな。テレビ画面の左右から右腕と左腕が出てきた。
これは、誰かの視線が映し出されているのか?ん? ちょっと待て。この本の種類······こ、この本棚、僕のじゃないか!!
そしてこの両腕が着ている、くたびれた黒い毛溜まりだらけのトレーナー。この両腕、僕のじゃないか? って事はこの画面の視線は僕の?
「どの本の背表紙で隠すか思案中です」
マイクを持ったタスマニアデビルが突然機械音で解説し始める。マ、マズイぞこれは! 僕がエロ本を本棚に隠そうとしている映像じゃないか!
「······ふーん。ふっつーのエロ本ね。アンタって、エロ本の選択もつまんない男ね」
彼方が僕の耳元で囁く。み、見ないで! 僕は押しボタンに指をかけようとした。
「止めてくれっっ!」
隣から細木さんの悲鳴が聞こえてきた。同時に細木さんは押しボタンを押したらしい。カピパラの僕の一勝を告げる声がした。
い、一体細木さんは、どんな映像だったんだ?
「第二戦目」
カピパラが次戦を告げる。我慢対決。この決闘の意味がようやく分かった。過去の自分の恥ずかしい映像に耐えられるか。
って、なんだこの対決! プライバシーの侵害もいい所だろ! しかも彼方がすぐ後ろで見てるのに!
僕が一瞬後ろを振り返ると、彼方がニヤニヤしていた。こ、この女、どんな映像が流れるか楽しんでいるのか?
「今日はバレンタインデー」
タスマニアデビルの解説の声に、僕はテレビ画面に視線を戻す。映像は小学校の放課後。クラスの中を映していた。
小学生の女の子達が集まっている。彼女達は本命の男子達にチョコを既に配り終えた所だ。
余った義理チョコをどうすると相談しあっている。そして男子達のある集団を憐れんだ目で見る。
義理チョコ一つ貰えなかった、イケてない男子達の集団だ。男子達はチョコのおこぼれが貰える事を期待して帰ろうとしない。
そ、その集団に僕の姿が映し出された。小学生の僕は、物欲しそうに女子達をチラチラ見ている。
や、止めてくれ! この後確か、女子代表が僕達にチョコが欲しいかと尋ねる。イケてない男子の集団は、我先にと女子達に殺到する事なる。チョコの取り合いだ。
む、無理だ。この先の映像を見るなんて! 僕は迷わず押しボタンを押そうとする。
「だから止めてくれっっ!!」
再び細木さんの絶叫が聞こえた。細木さんはボタンを押し僕のニ勝目となった。気づくとタスマニアデビルの着ぐるみが、十体程現れ高笑いしている。
ど、どこから湧いて出てきたんだ、こいつ等!
「い、稲田佑。なかなか切ない少年時代を送ってきたのね」
彼方が笑いを堪えながら呟く。あ、悪魔かこの女!
「第三戦目」
また新たな映像が流れる。ん? これは高校生の僕か? 学校の帰り道······?
「バレンタインデーの帰り道」
タスマニアデビルが解説する。ま、まさかこの映像は! 駄目だ! これは無理! 僕はボタンを押そうとする。
「稲田佑! 堪えて! あと一勝でこの決闘に勝てるのよ」
そ、そんな事言ったって無理だ! 早く押さないと!
······映像は、僕が学校の帰り道に時折足を止め、後ろをチラチラ見るといったものだった。
ごめん! 無理!! 僕はボタンを押した。細木さんの勝ちになり、僕は妙な汗が止まらない。
「何よ? あの映像の何が恥ずかしいよ?」
不幸中の幸いか彼方は理解していない。良かった。心から胸を撫で下ろした時、マイクを持ったタスマニアデビルが「補足ですが」と言い出した。
「彼は、自分にチョコを渡す女子が追いかけてくるのを期待して、振り返っていました」
ちょ、ちょっとおかしいぞ! そんな事バラされたら、ボタンを押した意味がないやんけ!! タスマニアデビルの集団がまた哄笑する。
そして、味方の筈の僕のコーチは······。
「あははっ! ちょ、ちょっと待ってよ。チョコ持って追いかけてくるのを期待してって。う、嘘でしょ?」
お腹を抱えて笑っている······やっぱり悪魔だ。この女。
「第四戦目」
僕の心はボロボロだった。隣を見ると、細木さんも疲れた顔をしている。なんて。なんて酷い決闘なんだこれは。
「誰にも注目されない彼は、心の中で密かに思います」
気づいた時、タスマニアデビルの解説が始まっていた。慌ててテレビ画面を見る。こ、今度はどんな辱めを受けるんだ?
映像の中には、クラスの中でポツンと一人でいる中学生の僕が居た。僕以外、皆が楽しそうに話している。こ、この時僕は、何かマズい事を考えたのか?
「僕が何かの有名人になって、後からチヤホヤしても遅いからな」
タスマニアデビルが、この映像の僕の心の声を解説した。いや。これは最早解説しゃない。死刑宣告に等しかった。
「あははは! 有名人って。ちょ、ちょっと待って。お、お腹苦しい」
悪魔コーチと、タスマニアデビル達の笑い声が僕の耳と心を切り裂く。僕は堪らずボタンを押した。対戦成績は二勝同士並んだ。
「最終戦、開始します」
カピバラの機械音も遠く聞こえる。精霊を呼び出してもいないのに精神の消耗は顕著だ。ん? 精霊? そうか! その手があった!
カピバラの説明では、精霊について何も触れていなかった。つまり、精霊を禁じてはいないと言う事だ。
僕は暦詠唱を唱える。
「次候! 鴻雁北(こうがんかえる)」
あぐらをかいた僕の頭上に、七十ニ気神の精霊が現れる。精霊は頭巾を頭に被り、長髪を首の辺りで結んでいる。そして花や虎の刺繍が、派手な配色で施されている長衣を纏っている。
袖も裾も開いていたが、胸元もはだけて着崩している。なんだか、中国の歴史漫画の朝廷に出てきそうな服装だ。
長い眉毛とまつ毛。形のいい鼻と輪郭。細見の色男。という風体だ。なぜか雨も降ってないのに木製の傘をさしている。
「おやおや。今度の旦那は、なんだか湿気たツラをしてる御方だねぇ」
傘の精霊は、僕を値踏みするような目で見る。た、確かに。今の僕は酷い顔をしてるんだろう。
今日は月の中旬。心、技、体のうち、技を司るこの精霊が最も力を発揮する。この精霊に今の惨状を救ってもらうんだ!
僕は手早く現状を説明し、傘の精霊に助力を求めた。
「難しいね」
精霊の返答は素っ気なかった。
「え?」
「旦那。周囲をご覧よ。あの動物の集団。あの連中、少しでも不正をしようモンなら、直ぐに感づくぜ」
い、いや僕は不正をしろとは。でも、結果そうか。流れる映像を改ざんとかしたら、すぐバレそうだ。
「ま、今回俺に出来る事は無さそうだねぇ」
傘の精霊は欠伸をしながら足を組み、宙に浮いている。そ、そんなあ。
「もう、いい加減にしくれぇぇ!!」
細木さんの絶叫が轟いた。む、向こうもえらい事になってる。
「お気に入りのメイドカフェ店員の帰り待ち。完全にストーカー行為」
タスマニアデビルの、いや、只のデビルだコイツ等は。デビルの容赦ない解説がマイクで響く。
細木さんは、どうやら馴染みのメイドカフェの店員さんを店の外で待っている映像らしい。
た、確かにストーカーっぽい行動だ。細木さんがすがるような目で僕を見る。
「違う! ストーカーじゃない! 僕はただ、いちごちゃんに誕生日プレゼントを渡そうとしただけなんだ!」
「ほ、細木さん! 落ち着いて下さい」
僕の声も細木さんの耳に入っていない。細木さんは僕の呼び出した精霊をみる。
「······僕は昔から何をやっても駄目で、タスマニアデビルの訓練も全然ついて行けないんだ。稲田君みたいに精霊なんてとても呼び出せない」
細木さんがうなだれる。な、なんか他人とは思えない話だ。取り柄のない人生って、本当に寂しいものなんだ。僕には分かる。
「細木さん! 諦めちゃ駄目です。芒種一族代表なら力はある筈です。もう一度精霊を呼んでみましょう!」
······あれ? 何を言っているんだ僕は。細木さんは決闘相手だぞ? そもそも精霊を呼んでも今回は使いどころがない。
「······稲田君。僕なんかに出来るかな?」
「大丈夫ですよ! 勉強も運動もダメな僕が呼べたんです。やりましょう!」
だ、駄目だ。細木さんを見てると、自分を見てるようで放っておけない。
「······ありがとう、稲田君。僕やってみるよ!」
生気を取り戻したかのように、細木さんは暦詠唱を唱えた。
「次候! 腐草為蛍(くされたるくさほたるとなる)」
この時、奇跡が起きた。と、言うのは言い過ぎだろうか。細木さんの頭上に、七十ニ気神の精霊が現れた。
その精霊は女性だった。黒髪を三つ編みにしている。大きな瞳。頬にそばかすが少し。上半身は白衣を纏い、緋色の袴をはいている。神社の巫女さんのような格好だ。
「······か、可愛い」
細木さんが、三つ編み精霊に見惚れている。とにかく呼び出す事に成功したんだ! 良かった。
「やあ。お嬢さん。君とは初対面だね。こんな冴えない主人達は無視して、俺と有意義な会話をしないかい?」
か、傘の精霊が、三つ編み精霊をナンパしている。何をしているんだお前は! 細木さんも突然の乱入者に戸惑っている。
「こんな不毛な決闘に利用される事はない さ。俺と何処かに行かないか?」
傘の精霊は片目を閉じ、三つ編み精霊を誘う。ど、どっかに行っちゃうの?
「契約破棄は重罪よ。命を失いたいの?」
三つ編み精霊が静かに口を開く。傘の精霊はどうって事ないという表情だ。契約破棄って何だ?
「それに、私は口数が多い男は好みじゃないの」
三つ編み精霊はそう言うと、細木さんの側に移動した。傘の精霊は「やれやれ」と呟きまた足を組み宙で寝転ぶ。
······なんだろう。この傘の精霊。何か捨て鉢な感じがする。三つ編みの精霊は、細木さんの汗をハンカチで拭いている。細木さんは恍惚の表情だ。
「パン屋の店員に一目惚れ」
デビルの解説が、僕をテレビ画面に呼びも戻す。そうだった! 今は最終戦の途中だ!
······し、しかもこれは!
あれは高校二年生の冬。僕はたまたま寄ったパン屋の店員さんに一目惚れした。よく背中に電気が走るとか言うけど本当に走った。
店員さんは小柄で笑顔が可愛い女の子だった。それ以来、僕は彼女を一目見たくてパン屋に通った。
トレイに載せたパンをレジに置く。その瞬間が一番彼女に近づける時だった。
「彼女と話すキッカケが欲しくて、パンを載せたトレイをわざと落とす」
デビルが血も涙も無い解説をする。映像にはトレイを落とした僕に駆け寄る彼女の姿が映る。
······ああ。この時「大丈夫ですか?」って言ってくれたなあ。後ろを振り返ると、大爆笑していると思った彼方が沈黙していた。真剣な表情で映像を見ている。
傘の精霊も横目で映像を見ていた。結局トレイを落としても、話すキッカケなど作れなかった。
月日は進み、三月の中頃になった。当時の僕は焦った。彼女の年齢も知らなかったが、卒業、入学シーズンで彼女がバイトを辞める可能性を考えたのだ。
彼女がパン屋を辞めれば、もう二度会えない。僕は考え抜いた末、決断した。彼女に声をかけようと。
今日声をかけようと決めた日、僕はパンをトレイに載せ彼女のいるレジに近づく。その様子をデビルが解説しようとマイクを口に近づける。
······やめろ。これは、僕の大切な思い出なんだ。お前らデビル達の笑いの種なんかじゃないんだ!
思い出を汚されたくない。僕はボタンを押そうとした。その時、僕の右手を誰かが握ってきた。
その手は小さく温かかった。彼方の手だ。彼方は黙って僕を見つめている。
······そうだ。僕は、色んな人達の責任を負っている。僕はボタンを押す事を諦め下を向いた。次の瞬間、デビルのマイクから雑音のような音が響いた。
え? マイクの故障か何かか? 映像は続き、僕は彼女に声をかけた。仕事が終わった後、話せますかと。
なんと彼女は了承してくれた。僕は大滝に昇って行くような興奮と嬉しさで、彼女の仕事終わりを待った。
この彼女を待っている時間が、とても幸せだった。やがて仕事を終えた彼女が来てくれた。本当に来てくれたんだ。僕なんかの為に。
僕は名前を名乗り、彼女の名を聞いた。彼女は名前を教えてくれた。僕は彼女に伝えた。あなたと話がしたかったと。
彼女は恋人がいるからそれは出来ませんと断った。とても丁寧に。冬の一目惚れの恋は、そこで終わった。
僕の映像もそこで終わった。僕は恥ずかしさを一瞬忘れ画面に見入ってしまった。彼女の顔をもう一度見れて嬉しかったからだ。
「今回の決闘は、清明一族代表の勝利と致します」
突然カピバラが宣言する。え? 僕の勝ち? 細木さんを見ると、テレビ画面を身体で隠している。三つ編みの精霊に映像を見せない為みたいだ。
これは反則行為と警告されたが、細木さんは止めず反則負けになったらしい。
タスマニアデビルが細木さんを連れて行く。精神の消耗で足取りはフラフラだ。でも細木さんの表情は明るい。
「稲田君、ありがとう! あんな可愛い精霊が側に居てくれるなんて、最高に幸せだよ!」
よ、良かったのかな? 僕は細木さんに暦の歪みを正すよう命令し、その指導監督をタスマニアデビルに一任した。
細木さんは笑顔で手を振り消えて行った。
僕も頭がクラクラする。傘の精霊が僕の目の前に降りてきた。
「マイクの妨害ありがとう。あれは、君の仕業だろう?」
僕には確証があった訳では無かった。でも、何となくそんな気がしたんだ。
「······なんの事だい? 旦那」
「情けない映像だよね。独りで盛り上がって。独りで振られてさ」
僕は俯いた。思い出すと胸が痛む。あれは、そんな思い出だ。
「旦那。女に何人振られようと、それは恥じゃない。勲章さ。旦那は勲章を一つ、胸に飾っていいのさ」
傘の精霊は緩んだ表情を一変させ、真面目な顔で話す。それを聞いた時、僕は涙が出そうになるのを堪えた。
「······そううん。爽雲なんてどうかな? 君の名前」
傘の精霊は目を見開き、僕を物珍しい表情で眺める。
「······精霊に名前をつけるなんざあ、酔狂な旦那だねえ。まあ、好きにしなよ」
爽雲はまた無気力な顔に戻り、消えて行った。その時、僕は自分の右手に違和感を覚えた。あれ。この右手に握った手は? か、彼方の手だった!!
あの時からずっと彼方の手を握っていたんだ!
「ご、ごめん!」
僕は慌てて手を離す。ん? なんで謝ってんだ僕は? なんだろ。精神の消耗のせいかな。胸の鼓動が忙しない。
「······稲田佑。あの女の子に声をかけた時のアンタの顔。少しだけ男らしかったわよ。少しだけね」
彼方は微笑んでいた。以前にも感じたが、彼方は笑うと素顔の何倍も可愛く見える。
やっぱり消耗のせいだ。心臓が激しく動いている。ふとカピバラを見ると、やはり彼方を見つめている。あのカピバラは一体······。
「で、稲田佑。何かの有名人になったらって、何の有名人になる予定なの?」
彼方が僕の耳元で呟く。僕は途端に恥ずかしさで悶える。僕の鬼コーチはお腹を抑え笑っている。や、やっぱり悪魔だ。この女。
僕は堪らず走り出す。後ろから悪魔が追いかけてくる。
「ねえ。何の有名人よ。教えなさいって」
一面砂漠の世界は、いつからか薄雲が晴れ
青空を覗かせていた。その青空に、早く元の世界に戻してくれと僕は叫んだ。
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