第5話 小満①

 ゴールデンウィークも終わり、世間は再び慌ただしい日常に戻った。新緑の季節は一日ごとに春から次の季節の中間地点に歩を進めるかのように感じる。


 暦の上ではもう夏らしい。平凡な高校生の僕は、桜が散り始めた頃から非日常な出来事を体験していた。そのせいか、暦について無関心ではいられなくなった。


 暦では今日から小満だ。この時期は生命が太陽を浴び成長する時期だという。立夏から小満に移ったと言うことは、また決闘の日が近づいてきたと言う事だ。


 でも僕は、決闘の事を考えている余裕なんて無かった。学校の中間テストが散々たったからだ。


 テスト勉強をするつもりで机に向かっても三十分と長続きしない。ちょっと休憩のつもりがダラダラと過ごし就寝時間になる。


 明日やろうと決意しても、翌日も同じ事を繰り返す。サボった時間は雪だるま式に増えていき、テスト前日は徹夜を決行するも、仮眠のつもりが朝まで爆睡。


 我ながら情けない事に、僕はこの失敗を中学生の頃からずっと繰り返している。本当に僕は学習能力が無かった。


 テストの結果が怖かった。学校帰り僕はため息を何度も繰り返す。気づくと近所の公園に来ていた。


 前回の決闘の前に、僕はここで彼方に悲痛激痛セットコースを強要された。それ以来、ここのナンキンハゼに挨拶するのが日課になった。


 僕は周囲に誰も居ない事を確認し、ナンキンハゼの大木に額をつける。目を閉じ、ナンキンハゼの声に耳を傾ける。


 ······やっぱり駄目だ。声が聞こえない。これまで同様、ザワザワっとしか感じない。でも今までより寂しい感じが薄れてきたような気がする。


 なんでだろ? まさか僕が話しかけているからじゃないよな。


「木だって人間と同じよ。気にかけてもらえたら、嬉しいに決まっているでしょ」


 突然後ろから女の子の声がした。ビ、ビックリしたなあ! 振り返ると、純白のセーラー服を着た少女が立っていた。


「な、なんで僕の考えている事が分かったの?」


「推理とも言えない推理よ。相変わらず木の声が聞こえない。でも木の心はなんとなく分かるんでしょ? そうしたら前より寂しい感じがしなくなった。そんな所でしょ?」


 彼方は面白くもなさそうに僕の心理を看破した。僕はぐうの音も出ずに黙り込む。


「さあ。今日も練習よ。悲鳴コースと絶叫コース。どっちがいい?」


 この公園はジェットコースター専門の遊園地か!だが猶予は無かった。また迷っているとセットコースにされてしまう!


 僕は中間テストの事で疲れた頭に鞭を打ち、必死で考える。どっちだ? どっちのコースが苦痛が少ない?


「はい時間切れ。阿鼻叫喚コースに決定」


 な、何じゃそれは? 第三のコースあったのか!? 僕は必死に抗弁を考えたが、この鬼コーチは問答無用で僕の襟首を掴み強制連行する。


 僕はベンチに座らされ、彼方は僕の背後に回った。何だ? 何をされるんだ一体? すると、僕の鼻と口に何かが覆いかぶさった。


 これはタオルか? そう思った瞬間、そのタオルはきつく締められた。い、息が出来ない!


「稲田佑。一度しか言わないから、死ぬ気で聞きなさい。空気の。大きく言えば大気の声を聞くのよ」


 な、何を言っているんだこの女! 死ぬ気で聞く前に窒息死するわ! 彼方は続ける。普段当たり前の様に空気を吸っているから、空気の存在も有り難さも薄れていると。


「よく言うじゃない。こし餡を注文したのに

つぶ餡にされて、こし餡の有り難さを知るって」


 ち、違うぞそれ! それを言うなら、病をして健康の有り難さを知るじゃないのか? 僕は堪らず彼方の腕を三回叩きタップアウトした。


 ······タオルが緩まない? ま、まさかこの女、タップを知らないのか!? 脳に酸素が届かず、僕の意識は朦朧としてきた。


 だ、駄目だ。僕はここで鬼コーチに絞殺される······目が閉じかけた時に、その異変は起きた。


 僕は宙に浮いていた。ここはどこだ? 周囲はどこまでも青い。これは空の色か? 僕の眼下に何か見える。地理の教科書に載っている······これはユーラシア大陸!?


 目をこらせば、ヨーロッパやアメリカも見えた。一体僕はどうしたんだ? 自分の手を見ようとしたらどこにも手が無い。


 手どころか足も顔も無い。僕の身体自体が無い。今、世界の大陸を見ているのは僕の意識なのか?


 自身の意識を認識した時、突然僕の頭の中に物凄い質量の意識が流れ込んできた。これは、公園のナンキンハゼから感じた心と同じ物だ!


 だが、質量共にあまりにも膨大で僕の頭は割れるかと思う程痛む。このままじゃ頭と心が持たない!僕は必死に頭に流れ込む意識を遮断した。


 流れ込む意識を遮断した時、僕の視界には公園の風景が映った。僕は激しく息を切らせ大量の汗をかいていた。


「······どう? 稲田佑。この島国くらいは見えた?」


 僕は答える余裕も無くただ頭を横に振った。呼吸が落ち着くと、自分が体験した事を彼方に話した。


「······日本どころか、世界の大陸が見えたですって?」


 彼方は信じられないと言う様子で僕を見る。流れ込んだ意識の声を聞いたかと質問してくる。


「ナンキンハゼと同じだよ。声は聞こえない。ただ、感じたイメージは······」


「イメージは? 何を感じたの?」


「ただ、そこに在り続けたいだけなのに蝕まれていく······かな」


 僕の答えを聞いた彼方は、見た事が無いような真剣な顔をしている。


「······稲田佑。それはきっと、この地球全体の心の声よ。アンタはこの島国どころか、地球の心を感じたの」


「ち、地球だって?」


 な、なんだそれは? スケールが大きすぎて頭がついていかない。


「それは、終候ノ極のみが立ち入る領域よ。ただ分からない。そこまで踏み入って、初歩の声が聞けないなんて······」


 前に彼方が言っていた称号か。最初は声を聞き。次は心を感じ。最後は全てを洞察理解する。僕は、やっぱり順番を間違えているのかな?


「まあいいわ。それより精霊について知っといてもらいたい事があるの」


 彼方は組んでいた両腕を離し僕に説明する。僕が呼び出せる精霊は三体。精霊はそれぞれ初候、中候、終候に分かれている。


 これは、ひと月の上旬。中旬。下旬の事らしい。この前の決闘の時僕が呼んだ精霊。紅華は初候の精霊だ。


「あの精霊を呼んだ日は何日だった?」


 え? 確かゴールデンウィーク後半の五月五日だったような······あ、それって上旬だ。彼方の話では紅華は初候の精霊だから、上旬にその力を発揮すると言う。


 中旬、下旬に紅華を呼び出しても彼女は十分に力を発揮出来ない。しかも僕の負担も大きくなるという。なる程。呼び出す時期が重要なんだ。


「あと精霊を呼び出すのは一度に一体のみよ。二体同時に出そうものなら、その精神消耗は命に関わるわ」


 お、覚えておこう。絶対に。僕が心のメモ帳に太字で記入している途中に、鬼コーチは再びタオルを両手に持った。


「ちょ、ちょっと待って! そのやり方シャレにならないから!」


「問答無用! こし餡の有り難さをその身で思い知るのよ!」


 だ、だからそれ違うっての! 僕は純白のセーラー服を着た絞殺魔から必死で逃げる。


「あれ、稲田君?」


 誰かに僕は呼ばれ、彼方の非道は中断された。僕は命を救ってくれた声の主をすがるように見る。 


「あれ? こ、郡山?」


 目の前に立っていたのはクラスメイトの郡山楓だった。郡山は学年でも有数の才色兼備の持ち主だ。


 にも関わらず、平凡で冴えない僕にも気さくに話しかけてくれる。とても性格の良い娘だった。


「へえ。稲田君にも彼女が居たんだ」


「こ、これは違うよ! ただの鬼コー······た、只の知り合い!」


「これとは何よ! 私は物か!」


 彼方がまたタオルで僕を締めようとする。 郡山は優等生らしい対応で彼方に自己紹介する。二度も鬼コーチの蛮行を止めてくれた郡山は天使に見えた。


 僕なんかに手を振り郡山は去って行った。ああ。いい娘だなあ。


「ああいう真面目そうな人間は、結構裏の顔を持っているわよ」


 彼方が郡山の後ろ姿を見ながら言う。あんないい娘を捕まえて、何を言うんだこの鬼コーチは。


 なぜか僕は去年の事を思い出した。中学時代ずっと好きだった娘を偶然本屋で見かけた事があった。


 数年ぶりに見た彼女は、中学時代より髪が伸びていてとても綺麗になっていた。僕は勇気を振り絞って声をかけた。ただ挨拶が出来ればそれで良かったのだ。


「ごめんなさい。どなたですか?」


 彼女の返事に僕は絶句した。その時はショックだったけど、考えてみれば僕みたいな平凡な人間、そりゃ忘れるよな。


 郡山も数年経ったら僕なんかの事は忘れるだろう。いや、クラス中からも忘れ去られるな。僕という存在はその程度なのだ。


「私は忘れないわよ」


 彼方の言葉に僕は石像のように固まった。それはまるで、彼方に心を読まれたかのようだった。


「アンタ、さっき私を物扱いしたわね。絶対に忘れないから」


 彼方がタオルを両手で絞る。だ、駄目だ。今度こそ絞め殺される。その時、僕の視界にカピバラの着ぐるみが現れた。


「転移、開始します」


 救いの神か。地獄への案内人か。この時の僕はカピバラがその両方に見えた。視界が暗転し、一瞬で僕は違う世界に移動する。


 一面砂漠の世界。三度目となると、流石に慣れてきた。砂漠に変化が無いかと僕は辺りを見回す。


 前回、砂の下から生えてきた苗木はそんなに成長はしていなかった。だがよく見ると、雑草のような物が少しだけ生えている。


 その雑草は小さく弱々しかった。でも大地に根を生やしている。きっとこれは、間々田さんが頑張っているんだ。


「これより、小満一族代表と清明一族代表の決闘を開始致します」


 カピパラの着ぐるみが、いつもの機械音の言葉で宣言する。カピバラの後ろから、今日の決闘相手が現れた。


 ······え? その相手は女性だった。いや、女の子だ。まだ十歳そこらに見える。しょ、小学生だよな?


 女の子は髪を三つ編みにし、ピンクのシャツにジーンズを着ていた。


「両一族代表はお互いに自己紹介して下さい」


「······小満一族代表、両手(もろて)きなこ。十歳。小学四年生です」


 気づいたら、僕はカピバラの前に走っていた。


「ちょっと待ってよ! こんな子供が相手って冗談だろ? もしこの子が決闘に負けたら、その後どうなると思ってんだ!?」


 カピバラの着ぐるみは黙ったままだ。後ろから追いかけて来た彼方が僕の肩を掴む。


「稲田佑。落ち着きなさい。決闘に負けてもタスマニアデビルの着ぐるみが側にいるし、衣食住には困らないわ」


「何を言っているんだよ彼方! そう言う問題じゃないだろ?」


 こんな小さな子供が、親や兄弟、友達からも存在を忘れられてしまう。そんな残酷な事ってないだろ。


 負けてやる。どんな決闘方法か知らないけど、僕はこの子に負けると決めた。幸い僕には消えて困る人は居ない。


 妹は僕が消えれば四畳半の部屋を自分が使えて喜ぶだろうし。母親も扶養家族が一人減れば今より楽になるだろう。


 名案だ。あの小学生も助かるし、万事解決だ。その時僕の胸に鋭い痛みが走った。


 ······彼方も、僕の事を忘れるのだろうか。

 

 僕は振り返り彼方を見る。あれ? なんか大事な事を忘れているような······そうだ! 僕が負けたら彼方の存在も消されるんだった!


 ど、どうしよう。この決闘の勝敗は僕一人だけの問題じゃないんだ。彼方が僕をじっと見る。


「稲田佑。アンタはこれまで二度の決闘で二人の人間の存在を消した。その二人の分まで、アンタには戦う義務があるの」


 そ、そんな言い方ずるいよ。でも、彼方の言う事は間違っていない。ニノ下さんと、間々田さんの存在を消した責任が僕にはある。


「お兄さん。心配しなくてもいいわよ。私、存在を消されても大丈夫だから」


 僕が迷っている所に、対戦相手のきなこちゃんが乾いた声で呟く。だ、大丈夫な訳ないだろ!


「決めてはバランス感覚!! 今回の決闘は、竹馬競争で決します」


 カピバラが決闘方法を発表する。た、竹馬競争?気づくと僕等の前に、竹馬が砂の上に四本埋まっていた。


 カピバラの説明が続く。竹馬から落下し、地面に身体の一部でも触れたらスタート地点からやり直す。


 また決闘相手にはどんな妨害行為も許されると。ど、どんな妨害行為でも?

 

 ゴール地点と思われる場所に、二体のタスマニアデビルの着ぐるみがゴールテープを持っている。距離は二百メートル程だろうか?


「両一族代表は、スタート地点に立って下さい」


 カピバラが右手に持った火薬銃を掲げる。僕は答えが出ないまま竹馬を手にする。ど、どうすればいい?


 隣りのきなこちゃんは冷静だ。いや、なんか醒めた目をしている。子供の目じゃないみたいだ。


「きなこちゃん。存在を消されるって、意味分かっているの?」


「······うん」


「家族や友達からも忘れられるんだよ? 一人ぼっちになるんだよ?」


「······知ってる」


「きなこちゃん。忘れられるって本当に辛い事なん······」


 僕は最後まで言い終える事が出来なかった。きなこちゃんが僕の竹馬を蹴り、僕はバランスを崩し転倒したからだ。


 僕は砂の上に落ち、一瞬何か起きたのか分からなかった。目の前にきなこちゃんが立ち、僕を軽蔑したような目で見下ろしていた。


「安っぽい同情やめてくれる? クソの役にも立たないから」


 この娘は本当に十歳なのか? この言葉。この冷めた目。とても子供のものとは思えない。


「スタート」


 カピバラが火薬銃を鳴らし、乾いた音が響く。僕は頭の中が混乱したまま、無慈悲にも決闘は開始された。


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