第3話 婚約

――ポメラニア帝国歴256年 8月11日 水の国:アクエリーズ 森の湖畔の小さなやしろにて――


 少女の香りをまだまだ身体から漂わせる15歳の女性と、25歳になったばかりで青年というには若い男が森の湖畔にあるやしろに2人っきりでやってきていた。


「わたしこと、ローズマリー=オベールは、クロード=サインと『婚約』を交わすことを誓います……」


 自分の名と相手の名を神に告げる女性はオベール家の一人娘であるローズマリー=オベールであった。彼女は眼を閉じ、両手を胸の前で組む。そして敬虔な雰囲気を醸し出しながら、神に誓いの言葉を送るのであった。


「自分こと、クロード=サインは、ローズマリー=オベールと『婚約』を交わすことを誓います……」


 彼女の右隣りで、彼女と同じように眼を閉じ、両手を胸の前で組みながら、神に誓いの言葉を送るのは、オベール家に仕える従者たちのひとりであるクロード=サインであった。


 ローズマリー=オベールとクロード=サインは、身分の壁を越えて、ついにこの日、この時、『婚約』を交わし合ったのだ。


 小さなやしろの管理人である年老いた司祭プリーストが2人を祝福する。それから一通りの儀式を終えたあと、彼女らは手を繋ぎ、そのやしろから外に出る。


「ふうーーー。緊張したわーーー! クロがところどころで噛み噛みになってたから、もしかして、神様から『罰』を与えられるかと思っちゃったわよっ!」


 明るい金髪のボブカットをふわふわと揺らしながら、蒼穹の双眸をジト目にして、ローズマリーはクロードに向かって文句を言う。クロードは右手で自分の頭をポリポリと掻きながら


「す、すまん。緊張のせいか、噛みまい噛みまいとすればするほど、しどろもどろになっちまった……」


 ジト目を送られる赤髪の青年:クロードはバツが悪いのか、頭だけでなく刈り上げた後頭部の首付近もポリポリと掻く始末である。


「ところどころで、わたしのことをロージーって言いそうになったでしょ? 『婚約』を交わすときは正式名で相手の名前を言わないとダメだって、わたしがあれほどきつく言っておいたでしょー?」


 詰問するかのような口調でローズマリーはクロードに言い寄る。だが、クロードは眼の前の少女が腰に手を当て、上半身をこちらに傾けて、顔を近づけてくるために、心が縮む思いというよりも、どぎまぎとしてしまう心境である。


「す、すまなかったって! 結婚式の時には、噛まないように台詞を練習しておくからさっ」


「本当にー? 本番の結婚式でしどろもどろになるのはやめてよねー? あー、なんだか信用できないなー? どうせ、クロのことだから、絶対に『ロージー』って口走っちゃいそう」


 『ロージー』とは、ローズマリーの愛称であった。彼女と親しい間柄のニンゲンは彼女を『ローズマリー』とは呼ばずに『ロージー』と呼ぶ。


 彼女の女友達や、両親であるカルドリア=オベールとオルタンシア。そして、彼女と恋仲であるクロード=サインが『ロージー』と彼女のことをそう呼ぶ。


 しかし、クロード=サインは特別であった。オベール家に仕える従者や侍女たちの中で、ローズマリー=オベールのことを『ロージー』と呼ぶモノは誰ひとりとも居ない。


 また、クロードも人前では『ローズマリー』さまと彼女のことを呼んでいる。2人っきりの時だけなのだ。クロードが彼女を『ロージー』と呼ぶのは。


 もちろん、ローズマリーにとっては、クロードに『ローズマリー』さまと呼ばれるのは不満そのものである。彼女はクロードのことが好きで好きでたまらない年頃の女性なのだ。


 だからこそ、例え、ローズマリーが両親と共に居る時にでも、クロードにだけは『ロージー』と呼んでほしいと何度も訴えている。


 だが、クロードはローズマリーの願いを固辞してきた。それが彼女の心に火をつけさせたのは間違いなかったのだろう。


 両親がみかどが催した酒宴に出席したのを良い機会だとばかりに、仕事中のクロードを屋敷から引っ張り出して、近くの森の湖畔にある小さなやしろまでやってきたのである。


 道すがら、簡単にだがローズマリーがクロードに『婚約』のやり方を説明したのはもちろんのこと、『婚約』を交わしたら、屋敷内でも『ロージー』と呼ぶことを約束させたのである。


 まさに若き乙女ならではの行動力といって過言ではなかった。クロードは成すすべもなく、ローズマリーの策略にはめられたことになる。


 もちろん、オベール家の屋敷に住まうモノたちには、ほぼ全員、ローズマリーとクロードが恋仲だということは周知の事実であった。


 しかし、誰一人、そんな2人を相手に眉をひそめるモノは居なかったのは、2人にとって幸いであったのかもしれない。クロード=サイン自身はオベール家の当主であるカルドリア=オベールからの信頼も厚かったのである。


 クロード=サインは10年以上前にとある人物に武芸の師事を乞うために、オベール家の門を叩いた。そして、その人物の推薦でクロードはローズマリーの護衛役へと抜擢されたのだ。


 クロードが武芸の師事を乞うた相手は、ヌレバ=スオーであった。ヌレバ=スオーの名はポメラニア帝国だけでなくその周辺国でも轟いており、当時は【オベール家の過ぎたるモノ】と揶揄されていたほどである。


 そのヌレバ=スオーがクロードをローズマリーの護衛役として、当主であるカルドリア=オベールに推したのだ。カルドリアがこれを断る理由など無いのであった。


 そして、クロードもまた、ヌレバ=スオーとカルドリア=オベールの期待を見事に応える実績を上げていたので、当主のカルドリアの覚えも明るかったというわけである。


「クロっ。パパに事後連絡になっちゃうけど、クロがパパに報告してね?」


「えっ!? カルドリアさまには俺から言うのか!? 俺はてっきり、ロージーが取り持ってくれるのかと思ってたんだけど!?」


「クロ……。あなた、何を馬鹿なことを言ってるのよ……。娘の私はあくまで仲介役に決まっているでしょ? わたしのパパに『娘さんをください! ぼくが幸せにしてみせますから!』って、お決まりの台詞をちゃんと言わないとダメでしょ?」


 ローズマリーがあきれたといった顔つきで、クロードに言ってのける。クロードは急に胃が痛くなり、あいたたたと自分の腹を両手で押さえることになる。


「俺……。もしかして、カルドリアさまに殺される……?」


 キリキリ痛む胃に苦渋の表情を浮かべるクロードとは対照的に、朗らかな笑顔でローズマリーは、あははっと笑いながら


「そんなわけないでしょー? わたしのパパがクロにひどいことするわけないじゃないのー?」


 しかし、クロードは知っている。カルドリアさまが、最近、不審なことを口走っていることを。「ううむ。クロードくん。もしクロードくんが何かしらの罪を犯したとして、一番喰らいたくない刑罰は何かね?」と。


 その話をしている時のカルドリアさまの茶褐色の眼が笑ってないことを。死んだ魚のような眼になっているのを、クロードは自分の狐色の双眸で確認したのである。


 数日後に戻ってくるカルドリアさまが、ロージーと自分との『婚約』の話を聞いた後に、自分にどんな罰を与えるのであろうかと、ゴクリと唾を飲み込むクロードであった……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る