第三話〈5〉



    3



 色々とインパクトの強いごとが多すぎてわすれかけていたが、俺が今日ここざかていにやって来たのは二週間後にせまる中間試験へ向けて勉強をするためである。けして乃木坂家のブルジョワっぷりをはいけんしに来たわけではない。


 お茶を飲み終わった俺たちは、その本来の目的を達成すべく、客間から春香のへとどうしていた(ちなみにちゆうで巨大なバルコニーやらダンスホールやらミニシアターやらを見かけたりしたことについてはもう突っ込む気すら起きん)。


 で、その春香の部屋だが……何というか、思ったよりも普通の部屋だった。


 いやそりゃあ広さにして三十畳ほどあって部屋の中央に巨大なグランドピアノがちんしていててんがいきのベッドがある部屋を普通とんでいいわけがもちろんないんだが、そういう意味ではなく、俺としてはもう少しアキバ系のこんとんとした部屋をそうぞうしてたんだよな。


「あ、その辺にてきとうすわっていてください。テーブルを出しますので」


 俺にそう言って、春香はさっきからウォークインのクローゼットの中で何やらごそごそとやっている。クローゼットだけでおそらく俺の部屋よりもはるかに広いだろうという事実にはこのさい目をつぶっておこう。


 高価そうなじゆうたんの上にすわんで改めてまわりを見てみても、やっぱり普通のおじよう様の部屋って感じだった。少なくとも目に映る場所にアキバ系のへんりんはない。


 まあこれはこれでこの上なく『白銀の星屑ニユイ・エトワーレ』らしい部屋のような気もする。のぶながの部屋みたいにアニメのポスターやフィギュア、おびただしい数のマンガや小説にくされたかいだったらかなりイヤだったかもしれんしな。


 そんなことを考えているとはるがテーブルを手にもどって来たので、なになくいてみた。


「このって、ポスターとかないんだな」


「あ、ええ……」


「この前、アキハバラでいくつかもらってたけど、あれとからないのか?」


 あの中には春香お気に入りの『ドジっアキちゃん』やら何やらのポスターもあったはずだ。それにガチャポンで当てたミニフィギュア。春香の性格上、これらのお気に入りのモノは部屋の目立つところにかざっていてもおかしくなさそうなもんだが。


「それは──」


 春香がいつしゆん口ごもる。ん、何かマズイこと訊いたのかな。


「それは、私も飾りたいと思います。かわいいですし、ればいつも目のとどくところに置いておきたいです。でも……しょうがないんです。だって私がこういうしゆを持っていることは、家族にもみつなんですから」


「え?」


 家族にも?


「私の家は両親、特にお父様がとてもきびしくて……そういったアニメのポスターやフィギュアなんかは、それこそ見付かったらそくに捨てられてしまうと思います。教育上良くないって。だから、部屋の目立つところには置けないんです」


 うつむく春香。


 なんつーか……そりゃあたいへんだな。ふむ、春香にどこか一般じようしきが欠けている部分がある理由が少し分かった気がした。この部屋、やたら広い割にはらくに関する物がやけに少ないのもそういうわけか。テレビもないしパソコンもないしな。けいたいを持ってないのも、たぶんそのえんちようなんだろう。


「そういえば、家の人っていないのか?」


 ふと思った。


 もしもくだんのお父様とかがいらっしゃるのだとしたら、早めにあいさつしといた方がいいような気がする。俺なんかどこからどう見ても、手塩にかけて育てたまなむすめに取り付く悪い虫(エキノコックスとか)にしか見えんだろうし。


「今日は私しかいないです。お父様はアメリカの〝ぺんたごん〟というところに出張していますし、お母様も経営している料理学校の講義で夜中まで帰ってきません。お様も北海道にクマ狩りに出かけてしまっていて朝からいませんし──」


「……」


 えっと。


 あなたのお父上は何者ですか? ……ヘタしたら消されるんじゃないか、俺。


 そんな俺の気持ちを分かっているのかいないのか、春香はどこまでも平和そうな顔でにっこりと笑った。


「というわけですので、気をつかわないでご自分の家にいるようにリラックスしてください。さ、それではそろそろ勉強を始めましょうね。初日は英語のリーダーと世界史なので、英語からやりましょう」






 さて、さすがに入学以来学年トップをしているだけのことはあり、はるはめちゃくちゃ頭が良かった。どのくらいすごいのかというと、自分はたんたんと応用問題集を解きながら、となりで学園指定の基礎問題集をやってる俺のちがいをてきしかつそれにてきせつな解説を加えることがるくらいである。




「あ、ここのていはですね、未来というか運命をあらわすとくしゆな用法なんです。やくすと、『彼は都会に行ったきり、二度ときようもどることはなかった』になりますね」


「それはつまり、彼は都会に出て一山当ててやるぜといきおんで上京したところけんの風当たりは思ったよりも強くて彼なりにがんばってはみたもののていしよくられずコンビニのバイトでこうをしのぐ毎日で最後にはけいやくこうしんで賃貸アパートを追い出されて故郷ににしきかざるなんて夢のまた夢のまま公園で一人どくんだ、ってことか?」


「え、ええ、まあそうかもしれませんが……」


「ふむふむ」




「これは不定詞とどうめいの区別の問題です。前者が『タバコを吸うために立ち止まった』になるのに対して、後者は『タバコを吸うことを止めた』という意味になります」


「つまり前者がみちばただろうとどこであろうとタバコを吸わずにいられず条例はんばつきんを食らいまくった末期のニコチンちゆうどくしやで、後者がそれまではねつれつあいえんであったにもかかわらず子供が産まれたたんに一転してタバコを完全禁止、うちの子の前でタバコを吸うヤツはぶっ殺してやる、的な考えに変わったぼんのうきんえんしやってこと?」


「……ま、まあいちおう。中毒かどうかは知りませんが」


「なるほどなるほど」




 てな感じに。何か俺のてしないバカさげんがうかがえるやりとりではあるが。


 ほとんど俺が春香に教えてもらうカタチではあったが、それでも勉強はじゆん調ちように進んだといえるだろう。てか解説中も春香の右手は自分の問題を解き続けてたし。


「えと、ここはですね……」


 そして本日何回目かになろうという春香先生の解説が始まろうとして、ふとその左手がテーブルの上にある俺の消しゴムにれた。消しゴムはその反動でおむすびのごとくころころころりとじゆうたんの上にころがり落ちた。


「あ、すみません」


 はるが身を乗り出そうとする。でも俺からの方がが近い。


「いいよ、俺が拾うから──」


「いえ、私が──」


 そう言って俺たちが手を伸ばしたのは、せきてきなくらいに全く同時だった。


「……」


「……」


 指先にやわらかいかんしよく。触れているのは、だんじて消しゴムなんかではない。


 心臓が、どくりと動く。


「あっ、あの……」


「あ、わ、悪い」


 あわてて手を引っ込めるが、むねどうは消えてはくれなかった。どくんどくんどくん。クスリでもられたみたいに不自然に心臓が酸素を求めている。かなりオーバーヒート。サウナにでも入ってのぼせた時みたいにほおが熱い。


 何だ? 何か……ヘンな気分だ。見ればとなりで春香まで何やらぽーっとした顔で頬を真っ赤にめている。まるであのアキハバラの公園で感じたようなみような──色にすればピンク色の──もやもやとしたふんの中をつつんでいるみたいな……


 目の前にはうるんだ春香のひとみ


 よく考えてみれば、今この部屋には俺と春香の二人しかいない。二人しかいないということは他にはだれもいないってことであり、二人きりってことだ(当たり前だ)。閉じられた空間。年若い男女。二人きり。これらのキーワードかられんそうされることは……みつしつ殺人? ってちがうだろ! そうじゃなくて、もっとこうういういしいというか、おんとうというかけんぜんな言葉は思い付かんのかね。


 などと自分のそうぞうりよくかたよりをなげいている場合じゃない。


 とにかく、今はこのなピンク色にまったどこかインモラルな空間からいかにだつするかを考えるのが先決である。このままじゃ俺のせいしゆうかいどうはずれた人工衛星のごとくちゆう彼方かなたにすっ飛んでいくのも時間の問題だ。……よし、ここは心を落ち着かせるためにすうでも数えることにしよう。えっと最初は0から……あれ、0って素数だったっけ? それとも1から? あれ?


 ──いきなりまってしまった。


 我ながら、数学二(十段階中)の成績はではない。何せ数学の教師に、「たのむからお前だけは、三年になっても理系コースには来ないでくれ。な?」とがおこんがんされたくらいである。そう、言わば折り紙付きだ。バカであることの。


 ……自分で言っていてアレだが、何だかものすごく悲しくなってきた。


 やるせない気分になりはるの顔にせんもどすと、春香もじっとこっちを見ていた。


 目が合った。


 春香がぼんって音がしそうなくらいに顔を赤くする。そのまま落ち着かなく視線をあちこちに彷徨さまよわせて、そして何かのかくを決めたかのようにゆっくりと目を閉じた。……いや春香さん、何でそこで目を閉じますか?


 そのまま十秒がけい


 うーむ、さすがにこのままほうってのはかえって春香に失礼なのか? こういった青春な場面にそうぐうしたことがいまだかつて一度もない俺には、さっぱり分からん。


 もうこうなったらいきおいにまかせて行くところまで(どこだよ)行ってしまおうか、それとも俺も目をつぶってたフリでもしようかと両きよくたんなやみ(わけになるが、この時の俺はまともなせいしんじようたいじゃなかったんだよ)、けつきよく前者をせんたくしようとしたところに、


「お二人で良いふんのところをもうわけありませんが」


 とつぜんはいから声がした。


「!?」


 かえると……そこにメイドさんがいた。


「うわあっ!」「きゃあ!」


「……私の顔はそんなにおどろかれるようなぞうさくをしておりますでしょうか?」


 少しばかりしんがいそうな顔でメイドさんが答える。そうじゃなくていつからここに!?


「五度ほどノックをしましたが、返事がないようなので失礼とは思いながら勝手に入らせていただきました」


 いや……いくら春香に気を取られてたとはいえ全くもってはいを感じなかったんですが。メイドさんおそるべし。


「は、づきさん、何のご用でしょうか?」


 春香があわてた声でたずねる。


「はい。実は先ほど様がおもどりになられたところ、春香様にお話があるとおつしやっておられるのですがいかがなさいましょうか?」


「え、美夏が?」


「はい」


 メイドさん、こくりとうなずく。


「あの子、今日はお友達のお家へ遊びに行くって言ってませんでしたか? どうしたんでしょう」


くわしくは分かりませんが……『おもしろそうだから、早めに切り上げて帰ってきちゃった♪』とおつしやってました」


おもしろそう……ですか?」


 はるが首をひねる。


「あの春香、って?」


「え? ああ、ゆうさんにはまだ言ってませんでしたね。私の妹です」


「妹? 春香、姉妹いたんだ」


「はい。中学二年生なのですが」


 そういえば前にのぶなが(ストーカー)がそんなことを言ってたな。


「すみません、そういうことですので私、ちょっと美夏のところに──」


「ああ、りょうかい」


「ほんとにすみませんです……。すぐもどってきますので、てきとうにくつろいでいてくださいね」

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