第三話〈2〉


 時間にして五分くらいだろうか。


「ふう……」


 ようやく曲が終わり、はるいきいた。


「おつかれさん」


「えっ?」


 俺がはくしゆをすると、真冬にカブトムシでも見つけたみたいな顔で春香が目を丸くした。


「あ、あれ? どうしてゆうさんがここに? 入ってきた時には確かだれも……」


 まあ演奏を終えたらいきなりいるはずのない俺がとなりにいたんだから、おどろくのもムリはない。


 俺はざっとじようじゆんしつそうをしていたこと)を説明した。


「あ、そうなのですか。それはとってもお疲れ様でした」


 にっこりとねぎらいのことをかけてくれる春香。それだけであのゴミの掃除でちくせきしたろういやされていくような気がする。まさに癒しの天使って感じだ。


「それより春香こそ何でこんな時間に?」


 むしろそっちの方がなぞだろう。春香が音楽室にいること自体は全然おかしくないが、今は時間が時間である。


 すると春香は、ちょこんと小首をななめにかたむけて言った。


「それはですね、ええと、話すと少しややこしくなるのですが……」


「聞かせてくれ」


 きようある。


「はい、それでしたら。あのですね、実は私、さっきまで図書室で勉強をしていたんです。世界史の勉強をしていたのですが、そこにシェークスピアについての記述がっていまして──」


「シェークスピアって、劇作家の?」


「はい。私、大好きなんです。『マクベス』とか『真夏の夜の夢』とか、とってもてきだと思います」


「そ、そうだな」


 あいまいにうなずく。


 いやシェークスピアなんて『ロミオとジュリエット』くらいしか知らんし。それもだいたいのあらすじしか。


「けど、それとピアノとどこが結びつくんだ?」


「あ、はい。それはですね、シェークスピアの作の中に『テンペスト』というお話があるのですが、同名のソナタがベートヴェンの作品の中にもあるんです。ピアノソナタ第十七番『テンペスト』。シェークスピアの名前を見ていたら何だか急にそれがきたくなって……コンクールも近いことですし、その練習もねて帰る前にちょっとだけ弾いていこうかなって思ったんです」


「な、なるほど」


 勉強→世界史→シェークスピア→『テンペスト』→ピアノ、とのこうけい辿たどったわけだ。確かになかなかややこしいが、いちおうかいた。


「それにしてもこんな時間まで勉強してたのか……」


 放課後すぐからやっていたとして、ざっと三時間半である。俺の一週間の総勉強時間よりも多いかもしれん。


「はい。中間試験も近いですから」


「……中間試験」


 そのことに、一気に現実にもどされた気がした。


 そうだ。今の今まですっかりわすれていたが(というよりも心が考えることからげていたのか)、二週間後には地獄の中間試験がかまえている。


 前期と後期の二期制をはくじよう学園では試験の回数自体は年に四回と少ないが、代わりにその成績が悪かった者にはおにのようなしよぐうが用意されていたりするのだ。たんてきに言えば赤点(三十点未満)を取った者には夏休みのおよそ三分の一をめるしゆうけられる。いや三十点以上なら楽勝に聞こえるかもしれんが、あいにく俺の出来の悪いスイカみたいな頭だとそれもかなりあぶなかったりするんだよ。


ゆうさんも、中間試験の勉強は進んでいますか?」


「いや全然」


 何せ今初めて思い出したくらいである。進むどころかスタートすらしていない。


「全然、ですか。でもこれからやる予定はあるんですよね?」


「そりゃあ、まあ。俺、バカだし」


 やりたくはないが、やらなきゃ今年の夏はないものとかくしなきゃならない。二度とない十七の夏を、せまくるしい教室で山のようなプリントと気温以上にむさ苦しい教師じん(なぜか白城学園は男性教師の独身率が高い)と向かい合ってごすなんてまっぴらごめんだった。


「けどよく考えたらノートからしてまともに取ってないんだよな……」


 だんの授業の七割をすいみん学習にあてている俺のノートの日付は、三日ぼうかつ気まぐれな人がつける日記帳のごとく、四月の次は六月だったりするのである。


「……だれか、ノートをうつさせてくれる人をさがさんと」


 とはいえこれといったアテがあるわけではなかった。去年までならのぶなが(なにげに成績優秀)が第一こうだったんだが、今年からやつとはちがうクラスになってしまったため、あまりたいは出来ない。かといって同じクラスのやつだと三バカ(名は体を表すの代表格ども)とかしかいないし。


 ……やばいかもしれんな。じようだんきで。


 そんなかなりテンションの下がった俺を見て、はるは何かを考えこんでいるようだった。口元に指をあてながら、首をななめ四十五度にちょこんとかたむけている。


 そのままのじようたいで三十秒。


 やがて何かを考えついたのか、俺の顔を見て春香はこうつぶやいた。


「あのゆうさん、でしたら……いっしょに勉強しませんか?」


「え……」


 勉強? 俺と春香が?


「はい。ノートも、私のでよろしければどうぞうつしてください。あんまりじようにまとまっていないかもしれませんが……」


 いやそれはだいじようだろう。春香、上手だし。


「だけどめいわくじゃ……」


 俺と春香じゃ天と地ほどに学力がちがう。ゆえに俺にとっては助かるが、春香にとっては何のプラスにもならんだろう。それどころかヘタすりゃマイナスである。


 でも春香はふるふると首をる。


「そんなことないです。お勉強も、一人でやるよりだれかといっしょにやった方が楽しいです」


 そういうもんなのか? つうは一人の方が集中るという話をよく聞くが。しかし春香さえオッケーならばこの申し出はかなりありがたい。


「……ほんとに、いいのか?」


「はい。もちろんです」


 春香そくとう


「だったら……たのむ」


 ここはおことに甘えておこう。じつさい、今のままじゃかなりピンチだし。


「で、時間と場所はどうする? 春香がヒマな時でかまわないが……」


「あ、そうですね……」


 ふたたび春香がううん、と考え込む。


「それでは、日にちは日曜日でどうでしょうか? 時間は一時くらいからで、場所は……えと、私の家でよろしいですよね?」


「ああ、それで大丈夫──」


 あまり深く考えずに返事をしようとして。


「……ん?」


 その言葉の中に、何かとんでもない単語がふくまれていたことに気付いた。今、私の家とか何とか言ったような……


「あの、何か?」


「い、いや……」


 たぶんちがいだろうな。いくらなんでもはるが俺なんかを家にしようたいするわけがない。きっとそれをのぞむあまりに、俺の心がげんちようを作り出したんだろう。うん、そうに違いない。そうなつとくしかけた俺に、春香はにっこりと笑いながらもう一度かえした。


「では日曜日に私の家でいっしょにお勉強です。わすれないでくださいね?」

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