第三話

第三話〈1〉



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 六月に入り、ただなかだというのに全然雨がらないのはいいんだが、代わりに一足早く夏をむかえたようなあつい日々が来る日も来る日もえんえんと続き、いっそオーストラリアにでもじゆうしてコアラやカンガルーとたわむれるムツゴロウさんもどきな毎日でも送ろうかなどと考えてしまうくらいにほどよくのうくさってきたある日のことである。


 放課後、俺はせっせと音楽じゆんしつそうをしていた。


 ゆかにばらばらとらばっているりようの数々を、系統別にまとめ直してほんだなへとう。かたすみでいくつも折り重なって、捨てられた自転車のれのてみたいになっているだいを起こし、そのしたきになっているスピーカーをす。事務机の上にゴミのように積み重なっていたがくを引き出すと、たんにホコリがこなゆきのようにあたりにった。


「ごほっ、げほげほ……」


 音楽準備室はこうはいしていた。


 妻にくだりはんたたきつけられて出て行かれた、しようなしの男やもめの自宅のようにすさみきっていた。


「ひでぇ……」


 思わずそんなことが口をついて出る。


 あるていさんじようそうしていたが、まさかこれほどとは思わなかった。どうやら俺はあの人のポテンシャルをまだまだみくびっていたらしい。


 片付けても片付けても片付かない音楽準備室(最悪)を見て、深々とためいきく。


 さて、何だって俺がこんなことをやっているのかというと、これもひとえにこの部屋の主である音楽教師にしてうちのクラスの副担任(片付けられない女)がげんいんだったりするのである。


 今からさかのぼること三時間前の会話。


「ねえゆうく~ん、今日ってヒマかな~?」


 ホームルームも終わり、帰りたくをしていた俺のところにやって来た音楽教師は、ネコがアゴの下をでられたときのような甘い声でそうささやいた。


「全然ヒマじゃありません。まったくもって、これ以上ないくらいかんぺきに、予定が入りまくってます」


「実は、裕くんにお願いがあるのよね~」


「イヤです」


「聞いてくれたら、おねいさん、あとでイイコト(はあと)してあげたりするんだけどな~」


けつこうです」


「松コースと竹コースと梅コースがあるんだけど、どれがいい?」


「……俺、帰りますんで」


 相変わらず人の話を全く聞かないアホな人は放っておいて帰ろうとすると、


「ちょ、ちょっと待ってよ」


 がっちりとうでつかまれた。ちっ、とうぼう失敗。


「……何ですか?」


「だから、お願いがあるって言ってるじゃない」


「だから、俺もイヤだって言ってるじゃないですか」


 この人の『お願い』にはロクなものがない。けいけんじよう、それはもう分かりすぎるくらいに分かりきっているのだ。


「そんなこと言わないで、聞くだけでも聞いてよ、ねっ?」


 とはいえ、聞くだけは聞かないと帰してくれなさそうないきおいである。仕方なく、いやいやながらも俺はうなずいた。


「……まあ、聞くだけなら」


「うんうん、ゆうくんのそういうところ、おねいさん大好きよ」


 ぎゅっとそのほうまんむねきしめられる。うう。ほおれたやわらかいかんしよくと甘いにおいに思わずくらりとくるが、ここで負けてはさんの思うツボだ。


「で、何なんですか?」


 たずねると、由香里さんはしんみような顔をして語り始めた。


「実はね~、今朝、学年主任の先生からじきじきのお達しがあったのよ~」


「何て?」


「今日中に、音楽じゆんしつを片付けなさいって」


「……さようなら」


 くるりときびすを返そうとした俺の腕を由香里さんががっちりと掴む。


「ま、待ってってば。何で最後まで聞かないうちに帰ろうとするのよ~」


「聞かなくても分かりますよ。どうせ俺に片付けをつだえって言うんでしょう。そんなの一人でやってくださいよ。この前だってトイレそうに付き合ったばっかりなんですから」


「あ、しい。近いけどちがう」


「違う?」


 ぜつたい当たりだと思ったんだが。さすがにこの人もそう毎回毎回、他人にめいわくをかけるようなことばかりをやるわけではないのか。


 と、この人に限ってそんなことを考えたのは甘かった。


「うん、違う。あのね、手伝ってほしいっていうか、私の代わりに一人で掃除をやっといてほしいのよね~」


「……」


 この人、何考えて生きてるんだろう。


 ずうずうしいにもほどがある。


「……いっぺん死んでください」


 てるようにそう言ってその場から立ち去ろうとした俺の身体に、さんがすがりついてきた。


「だ、だから待ってってば。私だって本当はつだいたいと思ってるんだけど、今日はどうしてもはずせない大事な大事な用事があるのよ」


「……どんな用事ですか?」


「『SerapHセラフ』のライブ(ぼそっ)」


「……は?」


 そらみみだと思いたかった。


「だから~、今日はこれから『SerapH』のライブがあるのよ。半年前に予約してやっとのことで取ったプラチナチケットなの~。これに行けなかったら私、よつきゆうまんで死んじゃうかもしれない」


「それ……本気で言ってるんですか?」


「もちろん。本気よ」


 授業中にも見せたことのないな顔で言い切る由香里さん。


 ちなみに『SerapH』とは由香里さんお気に入りのビジュアル系バンドの名前である。


「お願いゆうくん~、助けると思って私の代わりにそうして。してくれたら、お礼に今度いっぱいイイコト(はあと)してあげるから~。裕くんの他にこんなことたのめる人いないの。ね、一生のお願い~」


 ほとんどたおさんばかりのいきおいで俺の身体にぴったりとみつちやくし、きそうな顔でそうこんがんしてくる。


 そうまでされると、ごうとくとはいえさすがにことわるのにも気が引ける。はあ……まあしょうがないか。今日のところは放課後もヒマなことだし、ここは一つ貸しを作っておくことにしよう。


「……分かりましたよ。分かりましたからむねを押し付けないでください。音楽じゆんしつをキレイにしておけばいいんですね?」


「えっ、やってくれるの?」


「……まあ、いちおう」


 そう答えると、ビジュアル系大好きの二十三歳女教師は身体いっぱいに喜びを表現した。


「ありがとう~。だから裕くんって好き♪」


「……それはどうも」


 と、そういうことである。


 以上のようなけいでこのゴミタメのそうを引き受けたわけだが、今となってはそのせんたくはげしくこうかいしていた。


「ひどすぎる……」


 の主の限りなくおおざつな性格は、わずか二ヶ月でそれまで小ぎれいだった音楽じゆんしつこんとんあふれる夢の島へとへんぼうさせていた。


 半ばうつになりながら、ホコリまみれになったベートーヴェンのしようぞうをハタキではたく。もったホコリの下から出てきたいかめしい顔には、ひたいに大きく『肉』と書かれていた。小学生レベルのイタズラである。……がくせいくさかげごうきゆうしてるぞ、これじゃ。


 何だかものすごくつかれた気分で『肉』マジックを落としていると。


 ポロン♪


 ふいにピアノの音がこえたような気がした。


 空耳かと思い最初は気にしないことにしたが、しばらくしてどうもそうじゃないらしいことに気付いた。耳をますと確かにせんりつが聴こえてくる。重々しくはげしくも、どこかもの悲しい旋律。となりの音楽室からみたいだ。


 ちらりとかべにかかった時計を見ると、こくはすでに午後七時近い。部活をやっている生徒ですらもうほとんど下校している時間である。こんな時間にピアノ?


 真っ先に頭にかんだのは、ななの一つ、『ひとりでにる音楽室のピアノ』だった。


 ──まさか、なあ。


 そっと音楽準備室のとびらを開き、となりのぞいてみる。ここからだとかくになっていていている人物(であってくれ)の姿すがたはよく見えないが、確かにピアノからは音が発せられているみたいだ。


 少しまよったが、俺は音楽室へと足をした。足音をしのばせながらピアノに近づいてみる。人間の演奏者がいてくれることを心から願いながら、けんばんがわのぞんだ俺の目にうつったのは──


「……」


 はるだった。


 黄昏たそがれの中、春香がしんけんな顔をしてピアノを弾いていた。


 一気に力がけた。いや、何で春香がここに?


「……」


 演奏に集中しているのか、春香は俺のそんざいに気付いていないみたいだった。ただいつしんらんに鍵盤に指をおどらせている。しなやかでゆうでそれでいてやわらかい動き。ピアノを弾いているというよりも、まるで何かダンスでもおどっているようにも見えるその姿に、俺は思わず見入ってしまった。

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