第一話〈8〉



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 さてその晩、で勉強をしていると、いきなりかいからバカでかい声がひびいた。


「おいゆう! 電話だぞ!」


 いい感じで進んでいた宿題の英語の和訳をじやされた俺は少しむかっときたが、血を分けた実の姉の方がもっとキレやすかったみたいだった。


「電話だと言ってるだろうが!」


 半ばドアをやぶるようにして──いやじつさいがねの一つが今のしようげきで吹っ飛んだ──部屋に入ってくる長身の人物。


「ルコ……」


 とうみんを邪魔されたツキノワグマみたいにげんそうな顔をした我が姉(から二段、ムダに強い。両親が仕事でメッタに帰ってこないあやでは最強の権力をほこる)が、下着にワイシャツをっただけというあられもない姿すがたでそこにいた。


「全く……人がせっかく気持ち良くていたのにだいしだ。彼女だかだれだか知らんが、こんなしんに電話をしないようにお前からもよく調ちようきようしておけ」


 いや深夜って……まだ十時だろ? そりゃ早くはないがそこまで言うほどおそい時間でもない。それにだいたい調教って何だ、調教って。それを言うなら教育だろ。


 と、ムダだと分かりつつもいちおう突っ込んではみるのだが。


「そんなものはどっちでもいい。教え込むという意味では同じだ」


 全然ちがうわ! それこそ月とスッポンくらい。


 しかしもともとおおざつである上に俺以上にてきとうせいかくをしているルコにとっては本当にどうでもいいことだったみたいだ。心からめんどうくさそうな顔で、こうをした俺をいちべつすると、


「……ウルサイやつだな。とにかくいいからさっさと電話に出ろ。私は寝る。ねむいんだ。終わったらしようおんにしておけ」


 子機を投げつけて、がねはずれてブラブラしているドアの横をすりけていってしまった。ったく。これでだんぼう一流ぎようの社長しよなんてやってるんだから世の中って複雑かいである。まあ美人はどこでもゆうぐうされるってのが世のつねってことか。こいつも顔だけはいいからなあ……性格は最悪だけど。平等平等言いながらけんさまとはかくも不平等なものなのだ。


 そんなことを考えながらとりあえず電話に出る。


「はい、もしもし」


 すると。


「あ、もしもし。あやさんですか? あ、私、ざかです」


 子機の向こうから、がいな声が聞こえてきた。ここ最近になってよく聞くようになったみみごこの良いソプラノボイス。しかし昼間に別れた時のじようげんぶりからうって変わって、何やらしんこくそうな声である。む、何かあったのかな。


「夜遅くにごめんなさい。実は、その綾瀬さんにお願いがあって……」


 お願い? そのそこはかとなく心ときめく単語に何となくむねがドキリとする。


「……とつぜんこんなことを言うのはとても心苦しいのですけど、でも、でも今言わないと後でぜつたいこうかいすると思ったんです」


 しんけんな、それでいてどこかはじらうような声。こ、これは……これはもしや? いやいやしかしあの乃木坂さんが俺にそんなことをするなんて、エリマキトカゲがさかち歩行をするくらいにありない。


「聞いて……もらえますか?」


「え、あ、ああもちろん」


 聞かないわけがありません。


「良かった……あの、綾瀬さん、これから私と会っていただけないでしょうか?」


「えっ……」


 いつしゆんこうがスパークする。


「えっと、会うって、二人で?」


「はい」


 こんな時間に二人で会いたいって……まさかしんあいびき? ひとのない公園。二人きりですわるベンチ。止まる時間。そして二人は……っていかんいかん、何かもうそう入ってきた。これじゃよくある三流れんあい小説もどきだろうが。


 頭をぶんぶんとる。落ち着け、俺。


 何とか心を静めようと頭の中でひつに九九をあんしようしていると、ざかさんが続けた。


「あの……実は、私といっしょに学園まで行ってほしいんです」


「学園?」


 学園って……当然俺らが通っているはくじよう学園のことだよな。きもだめし大会でもやるわけじゃあるまいし何でまたこんな時間にそんなところに──


「……本を、返しわすれてしまって」


 ウスバカゲロウのおとみたいな弱々しい声が俺のこうさえぎった。


「最初は……あやさんと会った後にそのまま返しに行こうと思ったんです。でも何だか一安心して気持ちがゆるんでいたからついあとまわしにしてしまって。そうしたら……そのまま忘れてしまったんです」


「あのさ……本ってまさか」


 例の『イノセント・スマイル』ですか?


「…………はい」


「……」


 いやそりゃあ……かなりマズイんじゃないか。うちの学園、基本の校則はヘンに緩いクセにひんとかせつの利用かんとかにはやたらとうるさく、確か図書室の本もげんまでにへんきやくしないとよくじつに放送でされるシステムになってたような。生徒の学年クラス氏名及びりた本のタイトル付きで。


「……そうなんです。もしも呼び出されることになったりしたら私、わ、私……ぐすっ」


 考えられるきつらいそうぞうしてか、乃木坂さんの声に湿しめざった。


「だ、だから今から返しに行こうと思って。ぐすっ、で、でもこんな時間に一人で学園に行くのは……そのこわくて。それで、だれかにいっしょに行ってくれるようにたのもうと思って……だ、だけど」


 なみだごえでそう語る乃木坂さん。


 ナルホド。確かにその事情だと俺以外にたよるヤツはいないわな。ヘタにだれかを頼って『イノセント・スマイル』を見られようものなら、それこそやぶつついてヤマタノオロチを出すようなもんだし。


「あの、ぐすっ、だから……ダ、ダメですか? あ、あやさんにはたびたびめいわくをかけて、ひくっ、本当に悪いって思って、いるんですけど、でも……」


 とはいえ、たよられるのは悪い気はしない。それに……そもそもこんなほんじようたいざかさんをほうっておくことなんて、まともなしんけいを持った男ならないだろうし。


 だから。


「えっと、直接学園に行けばいいのか?」


「ぐすっ、えっ……」


 受話器の向こうでおどろいたような声。


「行って……くださるんですか?」


「ああ、どうせやることもないし」


 そうすることに決めた。まあ英語の宿題はまだ残っていたが、んなもんこのさいどうでもいい。乃木坂さんのなみだと英語教師(♂四十二歳ぞくせいイヤミ)のねちねちとしたおせつきよう。どちらをけたいかなど(そりゃあ出来れば両方避けたいが)、改めて考えるまでもないってことだ。


「あ、ありがとう……ぐしゅ、本当にありがとう」


 かんきわまったような乃木坂さんの声。よっぽど一人で行くのがイヤだったんだろうな。気持ちは分かるが。


 こうして、真夜中の学園に不法しんにゆうすることが決まったのだった。

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