第一話〈7〉


 で、俺たちがやって来たのは、今回もまた屋上だった。


 ただしあの時とは異なりざかさんはいておらず、むしろ俺の方が半泣きじようたいだったが。うう、まさかウワサだと思ってたみつファンクラブがじつざいしたとは。この分じゃ後でのぶながたのんで情報そうをしてもらわなきゃなるまい。ヤツにムダなりを作るのはイヤだが、さもないとほんとに屋上から吊るされかねんからな。


 さつじんみたいな目をしてたファンクラブ員たちを思い出しゆううつになる。


 それにしても今さらながらに乃木坂さんの人気のすごさというものを思い知らされる一件だった。あの分だとファンクラブの会員数が三けたを超えているってのもおそらく事実だろう。三桁というと学園の総生徒の四分の一に近い数。つまり(女子も含めて)四人に一人は乃木坂さんのファンということになる。これって、ものすごいことだよな?


 その乃木坂さんであるが、さすがにつかれたのか今は俺のとなりいきはずませていた。ま、あんだけ走れば当然か。


 とりあえず乃木坂さんが落ち着くのを待って、俺は口を開いた。


「えっと、何か話、あるんだよな?」


 まあ何となく内容のそうぞうはついていたが。


「あ、はい。その、朝のことで……」


 ようやく息をととのえた乃木坂さんが顔を上げる。


 やっぱりそうか。考えてみれば、乃木坂さんがわざわざ俺なんかに声をかけてくる理由なんてそれくらいしか思いつかない。……自分で言っててちょっと切ないが。


「あー、あの時はいきなり突っ込んで、悪かった」


 俺がそう言うと乃木坂さんはちょっとあわてて、


「え? あ、ええ。それは良いんです。いえ、良くないのですけれど……」


 どっちだ。


 すると乃木坂さん、今度はとつぜんヒヨコみたいに頭をぴょこっと下げた。いっしょにさらさらのかみの毛がれて、やわらかないいかおりがふんわりとただよう。


「その……あの時はありがとうございました。私のこと、助けてくれたんですよね?」


「あー、まあ」


 助けたというか単にほうっておけなかったというか。俺はいちおうざかさんのみつを知ってしまっているわけだし。


 乃木坂さんがクスリと笑った。


あやさんって、いい人なんですね」


「いい人……」


 女が男に向かっていい人と言う場合はたいていが〝どうでもいい人〟の意味なので、何だかなおには喜べない。もちろん今の乃木坂さんのことにはそんなふくみはないんだろうが。


「とにかくお礼が言いたかったんです。綾瀬さんのおかげで、その、私が『イノセント・スマイル』を持っていることが知られないですみました。だから、本当にありがとうございました。そして……ごめんなさい。私のせいでされちゃったりして……」


 ふたたび頭を下げられる。


「いや別にそんな気にしないでもいいって。呼び出されたっていってもかみしろ先生なんだから」


「でも……」


「いいからいいから」


 何度もそう言うとようやくなつとくしてくれたのか、乃木坂さんはやっと頭を上げてくれた。


「綾瀬さんには、おになりっぱなしです、私」


 はにかんだがおを見せる乃木坂さん。うーん、何かそんな風にあらためてお礼ばっかり言われるとれるな。


 なので話題を変えることにしよう。


「そうだ、それよりこれ、返しておくから」


 いちおうまわりに他の生徒の姿すがたがないことを確認して、カバンから『イノセント・スマイル』とがくを取り出す。


「あ、その楽譜も、綾瀬さんが持っていたんですね」


「ああ、かいしゆうする時についいきおいあまって。にしてもすごい楽譜だよな、これ。乃木坂さん、けるのか?」


 たずねると乃木坂さんはちょっと照れたように、


「ええ、今練習中の曲なんですけど……だいたいなら」


 そううなずいた。やっぱり弾けるのか。タイトル通り、とても人間が弾くようなしろものには見えなかったんだが。


 素直に感心していると、乃木坂さんは何かを思い出したかのように「そ、そういえば……」と、はっと顔を上げた。


「あ、あの……もしかして、見ました?」


 みようどうようじった声で乃木坂さん。ええと、見た、と言うと?


「その……色々と、いてあったでしょう?」


 うわづかいでそうたずねてくる。


「あ、あー」


 あの人間を二、三人殺してエサにしてそうなクマのアレか。インパクトだけは強かったので、よーくおぼえている。というか一度見たら三日くらい夢に見そうだったし。もちろんあくで。


「ごめん。見た……というか目に入った。ちらっとだけど」


「や、やっぱり見たんですね?」


 ざかさんが顔をせる。うーむ、やっぱりあれは見てはいけないモノだったのか。きんだんじつ。どうフォローをしようか頭をなやませていると、だが次のしゆんかんがいことが乃木坂さんから発せられた。


「それで、あの、どうでしたか?」


「え?」


 どう、と言うと?


「その……けていたでしょうか? だれかに見せるのは初めてなんです」


 目をキラキラとかがやかせてそう尋ねてくる乃木坂さん。その表情には少しばかり自信のようなものが感じられる。……これはひょっとして感想を求められてるのか? 何かそうがいてんかいになってきたな。


 しばしあんする。うーん、何て言うべきか。ぼうを持った目付きがすさまじく悪いクマ。「主食が人間みたいなクマだね」……めてねえ。「このクマ、何だかクスリでもやってそうな目してるね」……明らかにけなしてるだろ。「クマなべにしたらしそうなクマだよね」……もはや何言ってんだか自分でも分からん。


 考えに考えた末、


「でもあのクマ、目付きは悪──い、いややたらとするどかったけど、見方によればぎやくせつてきでなかなかかわいかったかも──」


 というなんなモノに落ち着きかけた俺のしやこうれいも、次の乃木坂さんのひとことで全くその意味を失った。


「……えっと、クマ? ネコですけど、あれ」


 何言ってるんですか? って顔で首をかしげる乃木坂さん。


「……」


「……」


「……そ、そうそう、ネコ」


 ネコか。


 それはさすがに分からなかったな。だってつうネコってキバ生えてないだろ。


「で、でもネコが指揮棒を持ってるってのもなかなかユニークで──」


「……それ、たぶんネコジャラシだと思うんですけど」


「……」


「……」


「……あ、ああ、ネコジャラシね」


 がくなんだからさ、それくらいとういつかんを持たせておこうよ。


 しかしそんな俺の内心のぼやきに全く気付くことなく、


「どうでしたでしょうか? 自分で言うのもずかしいんですけれど、あれは割と自信作なんです」


 ざかさん、さらにそんなことを言った。


「……」


 あなた……それ、本気で言ってるんでしょうか?


 乃木坂さんを見る。


 そこにはしんけんまなしがあった。


 これ以上ないってくらい真剣な眼差しだった。


「……」


 まあ、人間何かしら一つくらいの欠点はあるってことで。


「……な、なかなか個性的かつインパクトの強いイラストで、いいんじゃないかと思うな。うん、どこかピカソのゲルニカをほう彿ふつさせるというか」


 すごくえんきよくてきに感想をべた。というか、それがげんかいだった。


「ほんとですか? わあ、うれしいです!」


 なおに喜ぶ乃木坂さんを見てちょっとだけざいあくかん。いや、でもウソは言ってないわけだし。いちおう。


「本当に嬉しいです! 思い切って聞いてみたがありました」


「そ、そう……」


 でも他の人には聞かない方がいいと思います。


「あの……これからもよろしくお願いします」


「?」


 何のこと?


「やっぱりですね、だれかに見てもらった方が上達も早いと思うんです。一人でいているのも練習にはなりますが、それだけだとどうしても限界があるので……。あ、もちろんお時間のある時でいいんですけど……」


「……」


 それはまさかあのあくしようかんそうなナイトメアちっくイラストを、定期的に俺に見ろと言うんですか?


「どう……でしょうか?」


「そ、それは……」


「だめ……ですか?」


 さすがにそくとうずにいると、ざかさんはたんに捨てられた子犬みたいなしずんだ表情になった。うっ……その表情ははんそくだろ。あの『白銀の星屑ニユイ・エトワーレ』にそんな顔をされてことわれるヤツなんていやしない。それに考えてみれば、乃木坂さんがこんなことをたのめるのは例のしゆのことを知っちまった俺しかいないんだよな。……ええい、かたない。気が進まんどころかむしろかなりこう退たいしてるが、これこそ本当に乗りかかったタイタニックだ。


「お、俺で良ければいつでも」


 声が上ずってたのは、まあごあいきようってことで。


「ほんとですかっ!」


 すっげえうれしそうに乃木坂さんが笑った。ま、まあ一回見るたびに百日寿じゆみようちぢまるなんてことはたぶんない……といいな。


 それから少しの間(とはいっても三十分間はみっちり)、乃木坂さんから彼女のイラストにかけるみを聞かされて。


「それじゃあ、今日は本当にありがとうございました。イラストは、また新しいのが出来だいお見せしますね。それでは失礼します」


 これからピアノのレッスンがあるからと、乃木坂さんは去っていった。『エリーゼのために』を鼻歌で歌いながら、最高にじようげんだった。


 そのうし姿すがたを見つめながら、俺はぼそりとつぶやいた。


「……早まったかな」

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