第一話〈5〉



    3



「あー、これから持ち物けんを行う。各自、カバンの中身をよく見えるところに出すように」


 たんにんなべしげ(三十八歳♂独身)のことにクラス内が少しざわめいた。持ち物検査はちで行われるのが通例だが、それでもやはりていこうがあるんだろう。


「静かにしろー。それじゃあ今から回るんで、男子は私、女子はかみしろ先生に見せるように」


 上代先生はうちのクラスの副担任であり、去年女子大を卒業したばかりのうら若き音楽教師である。先生ぶったえらそうなところがない気さくな人で生徒にも非常に人気がある。加えて美人だし、きれいだし、かわいいし、スタイルも……ご、ごほん。まあそれはだんだが。


 そんなことよりも、持ち物検査と聞いて一つ頭に引っかかったことがあった。


 ……まさかとは思うけど、乃木坂さん、あの本を持ってるなんてことないよな?


 うちの学校の図書室の貸し出し期間は二週間。乃木坂さんがギリギリまであれを借りていたとすれば、へんきやくはちょうど今日ということになる。いやしかしいくら何でもまさかそんな運の悪いことはありないだろ──


 なになく、俺は右ななめ後ろ遠くにある彼女のせきを見た。


 そこには、殺人事件のがいしやみたいにそうはくな顔をした乃木坂さんがいた。


 ……うわあ、ぜつたい持ってるよ、この人。


 それはもう明日も太陽が東から昇るのと同じくらいの確信だった。


「はい、それじゃみんな。すぐに終わるから、少しだけガマンしてね~」


 上代先生ので女子が皆カバンの中身を机に出し始める。乃木坂さんもかたがないといった感じでそれに従う。教科書やがくまぎれて、二週間前に見たあの雑誌のようなものが机の上にちらりと見える。


 さてどうするか。


 しばしこう。いや別にこのままほうっておくっていうせんたくもある。というか助けてやらなければならないひつぜんせいは特にはない。


 でもなあ。


 二週間前のざかさんのがおが頭をよぎる。俺に見られただけであんな死にそうな顔して泣いていたのに、それをクラス全員に見られようものならどういう風になるのか。うーむ、まるでそうぞうもつかない。だがどう考えても好ましいじようきようにはならないだろうってことだけは分かる。どうも乃木坂さん、いつもは完全かんぺきなおじよう様な反面、そくたいってやつに弱そうだし。


 ま、かたないか。たとえそれがどろぶねであろうとタイタニックであろうと、これも乗りかかった舟ってやつである。多少ちからわざになるが、相手はかみしろ先生だしまあ何とかないこともなくはない。こうていていの否定は肯定。助けるしゆだんがあるってのにみすみす何もしないってのもめが悪いしな。


 俺は手を上げて言った。


「あの、急にハラがいたくなってきたんで、トイレに行ってきてもいいですか?」


「んー、何だ、朝から食いすぎか? まあ別にかまわんぞ。お前のけんはもう終わっとるし。好きなだけどんと出してこい」


 かくみようにデリカシーのないことを口にするなべしげ三十八歳。しようがあちこちから上がる。そんなんだからいまだに結婚出来ないんだと思うんだが。まあ別にいいけどな。俺はさもつらそうな風をよそおってぜんけい姿せいで教室の出口へと向かう。そのちゆうには……乃木坂さんのせきがある。


「ちょっと悪い」


「えっ?」


 すでに少し泣き出しそうだった乃木坂さんにだけ聞こえるようにそう言って、俺はゆかに置いてあるだれかのカバンにつまずいたフリをしてそのまま彼女の机に身体ごと突っ込んだ。


「え、え、きゃっ!」


 机がたおれ、いきおいでその上にあった教科書やがくその他もろもろが床にらばった。乃木坂さんが小さなめいをあげ、いつしゆんだけしゆうはちょっとしたこんらんじようたいになる。


「乃木坂さん、だいじよう?」


「ちょっとあや、さっさとどきなさいよ!」


「あんた、じや! 乃木坂さんからはなれて」


 あたりからはそんな台詞せりふひびく。……一人くらい俺のしんぱいをしてくれてもいいのに。


「あ~、もう。何をやっているの綾瀬くん」


 見かねたのか上代先生がってきた。


「すいません。早くトイレに行こうと気がいて、つまずいちゃって」


「気がいて……ねえ。もう、いいから早く行ってきなさい。片付けはこちらでやっておくから」


「お願いします」


 どこかふくみのあるみをかべるかみしろ先生に頭を下げ、早足で教室を出た。


 ハラをさえたままろうを進みトイレに入る。さらに個室に入ってかぎを閉めたところでまわりを確認。いや男子トイレの、それも個室をのぞいている物好き(というかへんたい)なんているはずもないんだが、ねんには念を入れてである。トイレ内にだれもいないことを確認して、俺は制服のハラの部分から長方形の物体を取り出した。言わずと知れた『イノセント・スマイル』である。そうはつの女の子のほほみがやけにまぶしい。よし、どうやらかいしゆうに成功したみたいだな──


「……あれ?」


 と思ったら、その下から何か出てきた。やたらと高価そうな青緑色の本。これって……がくか? そういえばざかさん、机の上にそんなもんも出してたような気も。どうもあわてていたためけいな物まで持ってきちまったみたいだな。


「フランツ = リスト作曲、メフィストワルツ第一番S514……」


 何やらすごいタイトルである。あくのワルツ? 中をちらりと見てみると、何が何だか分からないほどの数のオタマジャクシがらんしていた。うわ、すげえ。ピアノのことはアリンコみによく分からんのだが、それでもこれがつうの高校生にけるようなしろものじゃないことくらいは見たしゆんかんかいた。乃木坂さん、こんなとんでもないもんをやってるのか。さすがというか何というか。


 改めて乃木坂さんのさいのうに感心し、俺はその分厚い楽譜を閉じようとして…………


 …………閉じようとして、かいすみにそれを見付けてしまった。


「……」


 これは、イラストなんだろうか? 楽譜のはしっこに血にえたひといグマのようなすさまじく目付きの悪いキャラクターがぼうのようなモノを手に立っていて、「ここははやく弾きすぎないように要注意♪」との台詞せりふが、イラスト本体とはたいしようてきにやたらとかわいらしいフキダシ(ピンク色)の中に書かれている。


 いや〝ような〟と表現したのは、それが人喰いタヌキにも見えるし、人喰いイヌにも見えるし、出来そこないのゴジラのようにも見えるからであり、さらに手にしているモノもサーベルにも見えればとくしゆけいぼうのようにも見えるし、デッサンのくるったライトセイバーのようにも見えるからである。


 たんてきに言ってしまえば、ヘタクソだった。


 絵心のある幼稚園児ならもうちょっとマシにけるんじゃないかってくらい、ヘタだった。


「……見なかったことにしよう」


 色んな意味でそれが正解のような気がする。きっと、世の中には知らない方がいいことってのはそんざいするのだ。知らぬが仏。


 ちょっとだけていかんして、俺は静かにがくを閉じたのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る