第一章〈5〉天野 翔


五月八日




 翌日、僕は校門へ続く登り坂でさかに出くわした。自転車を手押しする彼の背中は肉がだぶついてみっともなかったが、それと一目で判別できるぶん便利な体型だった。レコードプレイヤーはエネルギー不足のため機能せず、植木ばちからは相変わらず芽が出ない。


 立ちはだかるこの坂の前で、重さ二十キロのママチャリは圧倒的に無力だった。やますそに建てられた学校は街を見下ろすこうばい彼方かなたに位置し、風も強い。僕はゆうゆうと徒歩通学だが、終始涼しい顔でこの坂を登りきれる自信はない。


「俺が不登校になった理由は二つだ。恋と、この坂」


 さかあいさつ代わりに不平をこぼした。


「あと十ヶ月のしんぼうじゃないか」


 僕は気休めにもならない言葉を掛けてやる。分からんぞ、さかは言った。


「更に太って、坂を登れなくなったらまた留年するかもしれない」


「〝ダイエット〟すればいいじゃないか」


「〝デブ〟の次にきらいな言葉だ」


〝ブタ〟はいいのか。


「何事もしゆうねんだよ」僕は言った。


「俺が本気を出せば五十キロくらい簡単にせられる」


「見ものだね」


あまこそどうなんだ? 女装に没頭しすぎると人生の坂を転げ落ちることになるぞ」


「心配ご無用。受験勉強ならもう始めてる。それに……」


 僕は自信たっぷり笑いかけた。


「勉強は女装してる方がはかどる」


「もはや中毒だな……あっ……」


 さかは何かのにおいをぎ取るぐさをした。何してるの? 聞いたが無視された。その両眼は前を歩く女子のスカートを注視している。次の瞬間、強い風が吹きスカートがめくれた。


「白か。今日のラッキーカラーにしよう」


「分かったの? 〝〟が吹くって?」


「匂いで分かるよ。強ければ強いほど早く感じ取れる」


 さかが言うとみようしんぴよう性が増すのはだろう?


「どんな匂い?」


「言葉で表現するのは難しい。いて言うなら大地の匂いだ。木の葉とか動物のフンとか川べりのこけとかそういうものが混じり合った匂いだよ」


 ここなな市は標高数千メートルの山々に囲まれる地方都市だ。山頂から吹き下ろす強風は平地を抜ける北風も相まって〝へびいき〟となる。山に住む蛇の女神を怒らせ、ぶきによって吹き飛ばされた村人がそう名付けたらしい。七重に伝わる昔話の一つだ。


 この風はとにかくやつかいで、歩行者のコンタクトを傷つけスカートをめくることにけてはいるが、最先端の流行を運んできてくれるほどふところは深くない。




 登校するなり、僕らはやまという生徒指導を担当する女性教師に呼び出された……いやな予感がした。


 職員室の奥はくもりガラスのパーティションてになっている。生徒を厳重指導する時に使われる空間だ。そこへ連れ込まれるということはつまり、僕らが何かやらかしたということだ。


 ここへ足を踏み入れるのは初めてだった。


 革張りの一人用ソファーが四つ、ガラステーブルをはさんで収まっている。テーブルの脇に洋風のアンティークなサービスワゴンがあり、ティーセットやサンドイッチなどが置かれている。ソファーの一つにやまが座っていた。


 やまは風変わりな英語教師として有名だった。生徒指導とめいって職員室へ連れ込み、紅茶と菓子でもてなすのが彼女のやり方だ。


 非常におしやべりで授業がよく中断する。子供のように感情豊かで、かんしやく持ち。美人で背が高く胸が大きい彼女はインテリな上に教養もあったがを過ぎても独身だった。生徒の間では〝精神年齢に問題あり〟と決着がついている。


「ごきげんいかが? そんな所に立ってないで、お掛けになって」


 やまは優雅な笑みと身振りで向かいのソファーを示した。僕らは言われるがままそれに座り、彼女が赤い熊のしゆうされたランチョンマットをテーブルに敷いていく様を眺めた。


 次いでティーカップが置かれ、陶器のシャレたティーポットで紅茶を注ぐ。湯気の向こうにワッフルの乗った皿が並べられていく。


 やまがティーカップを持ち上げ、香りを楽しむように、ゆっくりと、深く息を吸い込んだ。


「素敵だと思わない? 紅茶の香りが漂うだけでほこりっぽい職員室が花園に生まれ変わるの。本当の幸せってこういうことを言うんじゃないかしら。つまりね、幸せっていうのは〝時間〟なのよ。私たちはみんな、紅茶一つで幸せになれる……」


 紅茶とワッフルをたいらげたさかが不快なゲップで言葉をさえぎった。


「おかわり」


 やまけんしわが寄った。れいな陶器にヒビが入ったみたいに。


「あなたには紅茶の作法より、まずは日本人としての礼儀を手ほどきする必要がありそうですね、さかこうしん


「このおもてなしが先生なりの流儀だってことは分かってるよ」


 さかは言いながら僕のワッフルをほおる。


「でも俺たちがここに呼ばれたのは、お辞儀の角度や紅茶のれ方を教わるためじゃなかったはずだ」


 緊張でカラカラののどを紅茶で湿す。


 当然だが、僕はさかほどきもわっていない。教師相手にここまでぼうにはなれないし、ならなくても良いという知恵も持っている。ゆえに、僕はただ黙っていた。


 やまは紅茶を一口飲み、その表情に厳格な様相をたたえた。


「昨夜のアレは何です?」


 先生の声は意外にも穏やかだった。


「アレ、というと?」


 さかほうけ声を出した。


「テレビ番組、出てたでしょう。あの後何本も電話が掛かってきて職員が対応に追われました」


「内容は?」


 やまは男のように低い声で演技っぽくこう答えた。


「『お願いだ、女装で出演した男子生徒の名前を教えてくれ!』」


 腕を組み、まゆげ、こうも続ける。


「『生徒をけしかけ悪人退たいうながすことがななきたの教育理念かね?』」


 元劇団員に違いないと思った。舞台でオーバーアクションするやまの姿が容易に浮かんだ。


 さかが退屈そうに鼻毛を抜き始めた。


「今回のしようは前もって指導できなかった我々にも責任があります。保護者への連絡は見送りますが次は……話を聞きなさい!」


 靴を脱いでにおいをぎ出したさかかんにんぶくろが切れる。やまはソファーのひじけをなぐりつけつばを飛ばしながらげつこうした。その後たっぷり一分間にらけ、おもむろに口を開いた。


「犯人をあおり女装というせんしゆうたいをさらしたあなた方はななきたつらよごしです」


 ショックの余り頭が真っ白になった。せんな醜態……そのひとことで僕の全てを否定された気がした。


「女装で出歩くことを禁止します。どうせご両親にも秘密でやってるんでしょう? 次は停学、その次は退学です」


「頭古いなあ」さかが言い放った。「うばうだけの教育なんて独裁国家と思想が同じだよ」


「……何ですって?」


あまつちかってきたもんをスマホ没収するみたいに奪うんじゃねえよ。汚い手で触るなって言ってんだ。昨夜のテレビであまの何をてたんだ? あんな美しいものをせんな醜態だなんてよく言えたな」


 やまの表情が怒りでゆがんでいく。


「紅茶でトリップしながら清く正しい人間がどんなものか説いてみろよ。そんなもんで世界が平和になると思ってるならあんたは本当の幸せ者だ。それどころか、石頭で器量は小さいくせに態度とおっぱいばかりでかいエセ教師だよ。そんなやつの説教聞いたって損した気分になるだけ。ホクロ数えてる方が利口だね」


 やまの顔が真っ赤になった。肘掛けの上でこぶしふるえている。


 そして……泣き始めた。食いしばった歯のすきからえつれる。段々と大きくなる。


 僕はひじさかいた。


「……あやまった方がいいんじゃないか?」


「やだね」


 さかの声をかき消すようにやまの泣き声が響く。大粒の涙が化粧をさらいほおを伝った。


「ひどい……あんまりだわ! 私の何が分かるのよ! あんたみたいなわつぱに!」


 わつぱ……?


さかこうしん……今日から一週間……停学……ですっ!」


「望むところだ」


 足を踏み鳴らして去っていく彼女の後ろ姿に向かってさかは言った。


 折しも、パーティションのいただきでハゲ頭がキラっとまたたき、やがてこちらをのぞんだ。


「派手にやったな」


 誰かと思えば校長のくに先生──入学式の式辞で「どうもハゲです」と名乗ることで生徒の心をわしづかみにし、僕の中にある〝大人おとな〟というきゆうくつな社会の枠組みをぶっこわした、くに校長その人だ。


 大人おとならしくないという意味ではやまも負けずおとらずだが、校長には誰が見ても明らかな〝自由の精神〟が満ちている。平たく言えばかんようだが、彼の言動にはズルさやれいごといつさいない。


 事実、野球部が打ち上げた特大のホームランボールが窓ガラスを割っても彼は生徒をとがめなかった。むしろそのスイングをめちぎり、ボールにサインを書かせて校長室に飾るや、割れた窓をそのまま放置し必勝祈願の聖地として受験や大会をひかえる生徒に拝ませた。


 しかし……今度ばかりはいくら校長でも怒り心頭だろう。教師をじよくし怒らせたあげななきたこうの名に泥を塗ったのだから。


「女の涙をラーメンの隠し味にしたら絶対にしくなると思うんだ」


 校長は出し抜けにそんなことを言って、やまが残していったワッフルにかじりついた。ソファーに深く腰掛け、楽しそうに笑っている。


 近くで見る校長は思っていたより若かった。五十代前半くらいだろう。けて見えるのはきっとハゲてるせいだ。


「校長はどっちの味方なんだい?」


 さかがじれったそうに聞いた。


 校長を「校長」と呼ぶのはさかくらいだろうが、「あんた」と呼び捨てないところを見ると、この男にも人並みの分別はあるようだ。少なくとも、くに校長がやまよりまともな大人である、という見解については、さかと僕とでセンスが一致する。


「どっちの肩を持つ気もないがね。もっか平等とはそういうものだ」


 校長はげんとは程遠い、しかし余裕に満ちた笑みでそう答えた。さかが不服そうに校長をにらんだ。


「あのエセ教師と俺たちを同じものさしで測られるのは心外だよ。悪いのはあまをバカにしたあいつなんだ」


さかにとってのものさしが非を押し付け合うだけのちんなものだとしたら、私はとてもガッカリだよ。このハゲ頭など問題にならないほどの絶望だ」


「俺を買いかぶり過ぎてるんじゃないの?」


「いいや」


 校長は後頭部をツルっとでた。


「私は誰もさげすんだりしない。さかの行動力とあまの女装は実にバランス良く成り立っている。友情と恋愛は刺激にあふれた青春だ……いい友達を見つけたな、さかうらやましいよ」


 校長の視線が僕をとらえた。


やま先生を悪く思わないでほしい、昔からああなんだ」


「昔……ですか?」


「彼女は七重北の生徒だった。容姿たんれいで成績も良かったが少しごうじようでね。クラスでは浮いた存在だったんだよ」


 若かりしやまを想像するのは楽しかった。わがままで、演技派で、すぐ怒り、すぐに泣く。まどぎわで紅茶の香りを楽しむ姿がありありと浮かんだ。


あま、血が騒ぐなら女になれ」校長が言った。「君たち若者が望むものを私は応援したい。安心しろ、やま先生は私が説き伏せる」




 停学を食らって帰る気満々のさかを玄関まで見送った。予鈴直前とあって玄関はひと気が少ない。


さか」靴をき替える男の大きな背中に向かって僕は声をかけた。「ありがとう」


 さかは初めきょとんとしていたが、おもむろに微笑ほほえみ、力強く親指を立てるや、さつそうと玄関を出て行った。


 今のままでいいんだ。そう思うと気が楽になった。


 遠くでボレロが聞こえる。


 気分がこうようする。

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